一知半解:分かるがやれない さやかの声/レンの視線
だいぶ先まで書き溜めができたため予約を1日2回(10時と20時10分)に変更します。
どうぞ1読、お楽しみください。※8月8日まで2回投稿を実施いたします。
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試験の後。長くて無機質な廊下を、俺は力なく歩いていた。
日中の容赦ない熱気がまだ外壁に残っているというのに、この廊下に入った途端、ひんやりとした空気が肌を刺す。ベイルスレイブという施設は、場所によって極端に温度が割れる。今の俺の冷え切った体温には、この寒々しさが余計に堪えた。
自然と歩幅が小さくなる。
リーンが、何も言わずに半歩後ろを静かについてきていた。
「ミナトくん……!」
後ろから、パタパタと小走りで近づいてくる足音と、さやかの声。
「今の、悔しかったよね。……でも、相手の動きを完璧に分かってたの、本当にすごかったよ」
さやかは俺の顔を覗き込もうとしながら、励ますように、少し早口で言葉を重ねる。
「ねぇ、ところでさ。もし近くに仲間がいたら、今のって何とかなったのかな?」
その言葉が、さやかの純粋な優しさから出たものだと分かっている。分かっているのに――。
ドクン、と心臓の裏側で嫌な熱が跳ねた。
差し伸べられた同情を拒絶するように、一瞬、腕を振り払いそうになる。その衝動を、俺は自分の左手で右腕を強く掴むことで、どうにか力ずくで押さえ込んだ。
さやかの顔を見られない。見られたくなかった。今の俺は、きっとひどく惨めで、余裕のない顔をしている。
「……っ」
こみ上げる感情を胃の底へ押し込み、掠れた声でどうにか返す。
「その前に……順番が、ある」
「順番……か……」
さやかは、俺の凍りついたような声に押され、珍しく言葉を詰まらせた。かけるべき次の言葉が見つからないように、気まずげに視線を落とす。
少し離れた廊下の隅から、レンがこちらの様子を静かに見つめていた。
その瞳には、確かに同情に近い色が浮かんでいる。けれど、彼は声をかけてはこなかった。
今の俺が、どんなに安易な慰めも拒絶する『触るな』という棘だらけの空気をまとっていることを、察してくれているのだろう。
誰も悪くない。さやかの優しさも、レンの気遣いも。
だからこそ、自分の実力不足という現実だけが、冷たい廊下の床を通じて、容赦なく俺の足元から這い上がってきていた。
◇
帰り道。いつもの四人――俺とリーン、さやか、そしてランドの歩調はどこか重かった。
夕方になり、谷底の街へと近づくほど、昼間のあの熱気が嘘のように急速に冷えが戻ってくる。体温が奪われるにつれて会話も削られ、自然と言葉が短くなっていく。
この沈黙に耐えかねたのか、ランドがなんとか場を和ませようと軽口を探しながら、ぽつりと言った。
「……なぁ、それにしてもあの追跡者ってオッサン、マジでやばかったよな。なんていうか……見えない相手にいきなり殴られた気分っていうかさ」
その言葉に、俺の眉間にキッと鋭い皺が寄る。
(実際、殴られたようなもんだ……。いや、それ以下か)
脳裏にこびりついた敗北感を振り払うように、俺は短く息を吐き出して自分を落ち着かせた。
「……見えないんじゃない」
掠れた声を絞り出す。
「見える所だけを、意図的に見せられていたんだ。……思考の『窓』を奪われた」
「はい。主様は焦点を奪われました」
半歩後ろから、リーンが硬い声で補足する。
「……オカルトの類ではありません。あれは純然たる『技術』です」
すると、さやかがまだ熱を帯びた声で、俺の顔を覗き込んできた。
「でもさ! ミナトくんはそこまで見抜いて、質問までしてたじゃん! 分かってただけでも本当にすごいよ!」
「……分かったのに、遅れたんだ」
小さな声で、吐き捨てるように呟く。そんなの、何の意味もない。
「やっぱりさ」
さやかは諦めきれないように、昼間の疑問をもう一度投げかけてくる。
「そこに仲間がいたら……例えば私たちが周りにいたら、防げたんじゃないかな?」
「そう……かもしれない」
さやかの気遣いを否定しきれず、曖昧に言葉を濁す。けれど、俺の思考はもう別の場所へ向かっていた。
「でも、やっぱり順番が先だ。……焦点を外す。そもそも、焦点を持たない……」
ブツブツと呟きながら歩く俺たちの前に、細い路地の角から、はるなが姿を現した。
すれ違う、ほんの一瞬。
はるなは足を止めることなく、ただ一瞬だけ、俺の方へと視線を向けた。その瞳には、何かを測るような、不思議そうな色が浮かんでいる。
けれど、彼女は何も語りかけてはこなかった。俺もまた、その視線から逃げるように足を止めない。
この切り立った谷の街は、導線が極端に細い。
こんな狭い場所で誰か一人でも立ち止まれば、たちまち後ろが詰まってしまう。
俺たちは互いに言葉を交わすこともなく、ただそれぞれの足だけを動かし、濃くなっていく夕闇の影の中へと進んでいった。
◇
放課後の茶屋。
器から立ち上る湯気と、甘い蜜の匂い。そこかしこから漏れる生徒たちの他愛のない笑い声。
店の外では春の終わりの乾き始めた風が通り抜けているが、茶屋の内部だけは、この街特有の激しい昼夜の寒暖差に備えるように、温かな湿り気と湯気が優しく満ちていた。
その片隅の席に、はるなが座っていた。
彼女の向かいには、制服の着こなしからも余裕が窺える一学年上の“先輩”が、のんびりと腰掛けている。
「……ねぇ、先輩」
はるなは手元の茶碗を見つめたまま、ぽつりと溢した。
「合同課程に、妙に……整いすぎた魔力を使う人がいるんです」
「ん?」
先輩が、お茶菓子に手を伸ばしながら、気のない声を返す。
「準人類の少女を同伴にしてる、ちょっと目立つ貴族の男の子なんですけど。……いつもすましていて、冷たいっていうか、どこか他人事みたいな印象で」
はるなは、脳裏に焼きついたミナトの姿を反芻するように言葉を重ねる。
「でも、今日『追跡者』の講義があった時に……その人だけ、質問の仕方がおかしかった」
「おかしかった?」
「はい。質問の内容が正しいとかそういうレベルじゃなくて……まるで、自分が今ここで死に直面しているみたいな、そういう生き残りの場面を想定した聞き方をするんです。……ただの座学のはずなのに」
はるなは、目を細めて自分の指先をじっと見つめた。
「あの人が魔力の訓練をしている時、私、見てたんです。すごく綺麗な、無駄のない制御をする。……でも、あれは『綺麗な魔法』なんかじゃない」
「……どういうこと?」
「本当に追い詰められて、絶対に死ねない人間が、それだけを目的にして無理やり整えたみたいな……そういう、ちょっと異常な執着を感じるんです。その割に、実技ではぜんぜん身体がついていかなくて、周りから『座学馬鹿』って笑われてる。……でも、本当にそれだけなのかな、って」
「あー……」
先輩は、お茶をずず、と啜りながら、後輩の熱っぽさに少しだけ苦笑した。
「気にしすぎじゃない? ベイルスレイブにはさ、たまにそういう、頭でっかちで思い詰めてるタイプもいるよ。……何にせよ、関わってて怖いと思うなら、少し距離を置けばいいんじゃない?」
「……うん」
はるなは小さく頷いた。けれど、彼女の視線はどこか別のところを彷徨うように揺れている。
「距離、ね」
(あのすました顔の裏に、どれだけの泥臭い執念を隠しているのか――どうしても、視線が向いてしまう)
「まぁ、秋からは本当にこっちとも合同訓練が始まるんだから」
先輩はそう言って、思い出したように微笑んだ。
「その時、またその気になる彼のこと、私に教えてよ」
「……っ」
はるなは一瞬だけ呆気に取られたように目を丸くし、それから、恥ずかしさを隠すように笑った。
「はい。……そこからは、先輩も一緒ですね」




