一知半解:分かるがやれない 追跡者が消える
だいぶ先まで書き溜めができたため予約を1日2回(10時と20時10分)に変更します。
どうぞ1読、お楽しみください。※8月8日まで2回投稿を実施いたします。
よろしければ感想やポイントなど頂けるととても励みになります。
「――今から、例を出す」
追跡者の平坦な声が、凍りついた空気を震わせた。
「“分かる人”ほど、よく死ぬ例だ」
男は壇上から降りなかった。
一歩も足を動かしていないはずだった。なのに、なぜか俺との距離が異常な速度で縮まっていく。いや、距離が縮まったのではない。視界の端、男の像が不自然に引き伸ばされたような奇妙な感覚。
――気づいた時には、追跡者はすでに俺の『真後ろ』に立っていた。
「……ッ!」
リーンの気配が、鋭い殺気とともに半歩分だけ動く。
音がなかった。
拳を突き出されたわけでもない。ただ、冷たい指先が、俺の首筋の“急所”に軽く触れた。叩いた、というよりは、本当にただ優しく掠めただけのような、そんな微細な接触。
「……あ」
視界が、一瞬で真黒に染まった。
抗う余地すら与えられず、身体の全機能が強制シャットダウンされる。木製の椅子がきしむ音を立てるよりも早く、俺の意識は漆黒の底へと転落していった。
その倒れ込みは、不気味なほどに静かだった。だからこそ、講堂に残された者たちにとっては、余計に恐ろしかった。
「えっ!? ミナトくん!?」
さやかの悲鳴のような声が響く。
「……今の、見えなかった」
レンが、肺の空気をすべて吐き出すようにして息を止める。
はるなは完全に目を見開いたまま、壇上と、ミナトのすぐ横に立つ追跡者の二箇所を、信じられないものを見るように交互に凝視していた。口元を固く結び、言葉を失っている。
だが。
追跡者は、最初から壇上に『いる』のだ。
俺の横にいたはずの男の輪郭が、陽炎のようにゆらゆらと揺れ、焦点が全く合わなくなっていく。生徒たちが「あそこに追跡者がいる」と認識した場所が、脳の認識ごと強制的にズラされていく。
「焦点を合わせすぎるな」
壇上に佇む、実体の定まらない“像”が冷ややかに言った。
「合わせた瞬間、そこがお前にとっての『死の入り口』になる。それとな……」
その声の響きに、ゾッとするような嘲笑が混ざる。
「勝った、完璧に理解した、と思った瞬間こそが……人間が最も容易に死ぬ時だ」
壇上の追跡者は、最後に一度だけ蜃気楼のように大きく歪み――そして、完全に消えた。
消え去った、というよりは、『彼がそこに居た』という周囲の空間の認知だけが、ぽっかりと取り残されたようだった。
「……抗議いたします」
リーンが、これまでにないほど氷点下まで冷え切った声で、床へと一歩を踏み出そうとする。
その細い手首を、床に這いつくばった俺の右手が、弱々しく、けれど確かに掴んで引き留めた。
強引に意識の暗闇をこじ開け、急速に戻りつつある思考の糸を手繰り寄せる。
「……やめて、くれ」
掠れた声を絞り出す。
「今、ここで声を大にして抗議したら……俺たちの『導線(場)』が詰まる。奴の思う壺だ」
リーンはピタリと動きを止め、無念そうに視線を落とした。
「……承知いたしました、主様」
俺は喉を一度だけ深く鳴らし、口の中に広がった苦い唾液とともに、溢れそうになった悔しさを無理やり飲み込んだ。乱れる呼吸を必死に整える。
(……何が起きたか。体感した事をどんな些細な事でも、完璧に記憶しろ。頭脳に刻め)
ゆっくりと、床を押して起き上がる。
屈辱に濡れた目が、追跡者が消え去った教壇を鋭く睨み据えた。
しかし、どれほど解析の眼を凝らそうとも、そこには何一つ残ってはいない。
春の終わりの講堂。外の明るさが強まれば強まるほど、差し込む光が遮られた室内には、濃い「影」が落ちていく。
そして影が濃い場所ほど、人間は都合の良い『焦点』を作り出してしまうのだ。それを骨の髄まで叩き込まれた俺は、悔しさと情けなさから、ただただ静かに、奥歯を噛み締めていた。
◇
午後。演習室の空気は、午前中の講堂とは打って変わって澱んでいた。
陽が高くなり、外の石壁が熱を帯び始める時間帯。室温の上昇とともに、生徒たちの集中力がじわじわと削られていくのが分かる。だが、この微細な“散り”こそが、実戦においては致命的な隙として利用されるのだ。
課されたのは、簡易の実技試験。
テーマは午前中の講義と同じ――『視線誘導』。
「手順は自由だ」
試験官役の教官が、淡々とクリップボードに目を落としたまま告げる。
「派手な魔法も、威力の高い技も要らない。ただ“一撃を当てた”時点で勝ちとする。――相手の焦点を読め」
模擬戦の開始直前、俺はそっと、未だに微かな痺れが残る首筋に手を当てた。あのバケモノに触れられた感覚が、嫌悪感とともに蘇る。
対峙する対戦相手に対し、俺は意識して“目”を見ないようにした。視線を注ぐのは、相手の肩、そして足元だ。
(……目は追わせる場所)
(肩は本音)
(足は逃げ道)
午前中にインプットした理論を、必死になぞる。間違っていない。見ている場所も、分析の組み立ても、すべてが理屈の上では『正しい』はずだ。
だが――動けない。
相手の肩がわずかに下がり、足の重心が切り替わる。次の一歩がどこに来るか、“読めて”はいた。しかし、読めてから肉体が反応するまでに、どうしても一拍の遅れが生じる。
思考の速度に、実戦の身体感覚が全く追いついていない。
「はい、当たった」
軽い衝撃とともに、井上琉生の木剣が俺の脇腹を小突いた。
「……っ」
俺は一歩後退し、悔しさに視界が歪むのを堪えながら目を細めた。
これじゃ、確かに頭でわかるだけの奴だ。そんなの、嫌だ。急激にこみ上げてきた情けなさで一瞬目が熱くなり、それを誤魔化すように強く目をつむる。
教官が手元の記録にペンを走らせ、感情の起伏のない声で言い放つ。
「ミナト。分析と予測のプロセスは正しい。……だが、結果が出ていない」
周囲の生徒たちから、パラパラと小さな笑いが漏れた。
午前中の追跡者に対する恐怖の混じった静寂とは違う。それは、明らかな侮りを含んだ、軽薄な笑いだ。
「あいつ、相変わらず口だけは回るんだよな」
木剣を肩に担ぎ直しながら、井上琉生が小声で吐き捨てるように言った。
「典型的な『分かるけど、やれないやつ』だな」
ギャラリーの中から、渡辺陸斗の冷ややかな同意が鼓膜を刺す。
解っているのに、ついてこない。その決定的な断絶を突きつけられ、俺はただ無言で、手の中の武器を強く握りしめるしかなかった。




