森の影と割れた水時計 盗まれた触媒の謎
Day2朝・ジンの部屋(触媒の話)
脱線していた会話が収まり、部屋の空気が少しだけ落ち着きを取り戻す。
夏の朝。
窓から差し込む光が、散らかった机の端を静かに照らしていた。
カナリアはようやく深く息を吐きながら椅子へと腰掛けた。
ニーコスは呑気にお茶を啜っている。
ジンは手元の書類を一枚手に取り、目を通し始めていた。
今回の件。
未だに解明されていない謎はあまりにも多い。
突如現れた黒い影。
起動した遺物。
教練棟で起きた襲撃。
そして、備品の盗難――。
だが。
ミナトの胸の中で引っかかっていた違和感は、他の二人とは少しだけ毛色が違っていた。
(あの黒い影……)
(遺物保管庫で遺物を調べていた。教練棟の演習用触媒も黒く汚染させていた……)
(でも……一体何のために?)
ミナトの視線が、書類を眺めるジンへと向けられる。
「ジンさん」
「ん?」
「あの時狙われていた触媒って……そんなに貴重で大切なものだったんですか?」
ジンは少しだけ首を傾げた。
「触媒?」
「あー……盗まれたやつか?」
ミナトは静かに頷く。
「いや」
「あれは属性統合演習用に少し特殊な加工がされているが、そこまで貴重な代物じゃねぇよ」
「……そうなんですか?」
「まあ、一応持ち出し禁止の備品だがな」
「過去に学生が無断で持ち出して問題になったこともあるが……まあ、せいぜいその程度の代物だ」
ジンは特に気にした様子もなく、あっさりと言い切った。
(そうなのか……)
(……じゃあ、あの黒い影の本当の目的は、触媒そのものじゃない……?)
◇
カナリアも難しい顔をして腕を組む。
「うーん……」
「じゃあ、狙いはやっぱり遺物の方だったってこと……?」
「分からん」
ジンの答えは即答だった。
「そもそも遺物が狙いだったなら、わざわざ触媒なんて盗む理由がねぇ。逆に触媒が狙いだったなら、リスクを冒してまで遺物に触れる理由もない。もっとも……あの水時計に至っては、起動のさせ方すら分からんような代物だったはずだ」
トントン、と指先で机の天板を叩く。
「だから、現時点では何ひとつ分からん」
重い沈黙が流れる。
その沈黙を破るように、カナリアがふと思い出したように言葉を継いだ。
「あ、それと水時計……壊れちゃったわ。多分、あの時発動した衝撃で割れて、中の水が全部こぼれちゃったみたい。残骸からも魔力の残滓は何も感じられなかった」
「それから……あの水時計の他に、もうひとつ気になる遺物があったの」
「亀の甲羅を模したような形のやつ。あれが、薄く光を帯びてたのよ」
再び短い沈黙。
「壊れたか……。あの水時計は動かし方も分からんし、迂闊に破壊もできん代物だったからあそこに放置してあったんだが……壊れたんなら仕方ないな。一応残滓がないか調べさせた後、処分に回そう」
「それと……亀の甲羅の遺物か。そっちは調査を回す。……確か、光ること自体は以前にも報告があったはずだ。発動の法則が一部しか解明されていない代物だったが……」
ニーコスは湯飲みを両手で持ったまま、ぽてんと首を傾げた。
「つまり……」
「つまり、現段階では何も分からんということだ」
「なるほどぉ」
心から納得しているのか、ただ聞き流しているだけなのか、相変わらず掴みどころのない返事だった。
◇
――実際には。
ジンは少しだけ言葉を濁し、嘘を混ぜていた。
演習用触媒そのものは特別危険な禁制品などではない。
だが、そこには多少高価な希少素材が含まれている。精錬して分離できればそれなりの金で売れるし、別の用途へ流用することも不可能なわけではない。
もっとも、盗まれた量はごくわずか。
危険な目的に使えるほどのものでもなく、いま大騒ぎして事態を混乱させるほどの価値はない。
そして何より――いま子供たちにその詳細を説明したところで、何の意味もないからだ。
ジンは手元の書類をパタンと閉じた。
「どっちにしろ」
「今は犯人探しより警戒強化が最優先だ。実害が出ているのも事実、正体不明の黒い影がいるのも事実、触媒が消えたのも事実だからな」
そこで一度、言葉を切る。
ジンは三人の顔を順番に見回すと、低く鋭い声で言い渡した。
「だから……万が一『見かけても』、絶対に追うな」
「まずは報告だ。いいな?」
その言葉に、ミナトは気まずそうにほんの少しだけ視線を逸らした。
(……思いっきり追った)
(幽体になる前、めちゃくちゃ追撃した……)
(まずいか……? ちゃんと報告してない……)
ミナトは何も言わない。
ジンもそれ以上は何も言わない。
――たぶん、すべて察した上での言葉なのだろう。
窓から差し込む夏の強い光が、少しずつ角度を変えていく。
事件はまだ何ひとつ終わっていない。
だが――少なくとも、三人は無事に「今」へと帰ってきた。
それだけは、間違いなく確かだった。




