第五章 光の中の孤独
揺らぎの守り人は、間違いなく存在した。
その確信は、舞夢の胸の奥で静かに、しかし揺るぎなく広がっていた。
理学研究所から届いた解析結果──それは、これまで舞夢が積み上げてきた〝間接的な事実〟の延長線上に、初めて置かれた〝直接的な証拠〟だった。
高周波スペクトルの異常。
通常の都市ノイズでは説明できない、特定領域にだけ現れるフラクタル状の波形。
そして、舞夢がダイブした地点の履歴と、観測された異常の位置が一致しているという事実。
久遠課長とともに理学研究所の会議室で説明を受けたとき、舞夢はただ静かに頷いていた。
驚きよりも、ようやく辿り着いたという感覚の方が強かった。
研究員の一人が言った。
「琴平さん。あなたが示した地点のデータを解析したところ、通常の電磁波とは異なる〝自己相関性の高い波形〟が検出されました。完全な形ではありませんが……存在を示すには十分です」
舞夢は短く答えた。
「確認しました。整合しています」
研究員たちは顔を見合わせた。
舞夢の反応は淡々としていたが、その言葉には確かな重みがあった。
久遠課長が横で小さく息を吐く。
「……やっと、ここまで来たな」
舞夢は久遠課長の方を向いた。
「課長の支援があったからです。私は、観測したことを報告しただけ」
久遠課長は苦笑した。
「いや、君がいなければ何も始まらなかったよ」
舞夢はその言葉を受け止めたが、表情は変わらなかった。
ただ胸の奥で、静かに何かがほどけていくのを感じていた。
理学研究所の発表は内部資料として扱われたが、情報はすぐに行政内部へ広がった。
舞夢がこれまで提出してきたレポート──
「揺らぎの守り人」に関する一連の報告書は、再評価の対象となった。
情報企画課のフロアでは、舞夢の席の周囲に人が集まることが増えた。
「琴平さん、第一報のレポート……あれ、今読み返してるんだけど、すごい内容だね」
「この部分、どういう感覚で捉えたのか教えてもらえる?」
「次の調査、同行してもいい?」
舞夢は淡々と答える。
「観測した事実を記載しただけです。特別なことはしていません」
「いや、それが特別なんだよ……」
同僚の一人が苦笑しながら言った。
中条先輩も舞夢の席に来て、レポートの束を手にしていた。
「琴平さん、これ……全部読み返したけど、やっぱり一貫してる。君の観測は正確だ。俺は最初から信じてたけどな」
舞夢は小さく頷いた。
「ありがとうございます。助かります」
その言葉は短いが、舞夢にしては珍しく、わずかに柔らかさがあった。
舞夢のレポートが内部で注目され始めると、外部からの反応も急速に増えた。
最初は、行政内部の他部署からの問い合わせだった。
次に、大学の研究者。
さらに、民間の技術者、都市計画の専門家、エネルギー分野の学者──。
そして、舞夢の元には〝面談申込み〟が届き始めた。
メールの受信箱には、見慣れない名前が並んでいた。
「国立量子情報研究センター・主任研究員」
「都市生命体モデル研究会」
「国際電磁波学会」
「未来都市設計フォーラム」
「某自治体・情報基盤部」
その内容も、
「講演会をお願いできませんか? 謝礼はお支払いします」
「他自治体でも類似の現象が発生しています。共同調査をお願いしたい」
「舞夢さんの感覚を、ぜひ我々の研究に……」
等様々だった。
久遠課長が舞夢の席に来て、苦笑しながら言った。
「……すごいことになってるな。全部、君に会いたいそうだ」
舞夢は画面を見つめたまま答えた。
「対応は必要ですか?」
「全部は無理だ。優先順位をつけよう。まずは公共機関からだな」
舞夢は頷いた。
「承知しました。公共機関の調査は受けます」
「民間や学術関係は……どうする?」
舞夢は少しだけ考えた。
説明が必要な場面が増えることを想像し、胸の奥にわずかな負荷がかかる。
「……説明は得意じゃないので、必要最低限にしたいです」
また、講演会の講談依頼に対しては、舞夢は首を横に振った。
久遠課長は笑った。
「それでいい。無理はさせない」
公共機関からの依頼は、舞夢の業務範囲を大きく広げた。
畿央都内の施設だけでなく、近隣自治体のネットワークセンター、エネルギー変換施設、交通ノードの監視室や量子中枢核の調査──
舞夢は各地を訪れ、ダイブによる観測を行った。
どの現場でも、舞夢は淡々としていた。
必要な情報だけを確認し、観測結果を簡潔に伝える。
「この地点、負荷が偏っています。調整が必要です」
「信号の同期が乱れています。多分、外部干渉の影響ではないかと」
「揺らぎの強度が高いです。原因は未確定、追加調査を推奨します」
技術者たちは驚きながらも、舞夢の言葉を真剣に受け止めた。
「……本当に、見えてるんだな」
「この精度、どうやって……?」
「いや、聞くだけ無駄か。琴平さんは琴平さんだ」
舞夢は淡々と答える。
「私は、観測したことを伝えているだけ……です」
舞夢の行動範囲が広がるにつれ、世間の視線も集まり始めた。
Q-Streamでは、舞夢の名前が少しずつ話題に上がるようになった。
〝揺らぎの守り人を観測した技術者がいるらしい〟
〝畿央都の職員・琴平舞夢って誰?〟
〝あのレポートを書いた人?〟
〝若い美形の女性らしいぞ〟
〝本物か?〟
〝嘘だろ〟
〝いや、理学研究所が動いてるって話だぞ〟
舞夢はQ-Streamをほとんど見ない。
だが、周囲の空気の変化には気づいていた。
庁舎の受付で、見知らぬ人に声をかけられることが増えた。
外出先で、視線を感じることもあった。
舞夢は久遠課長に言った。
「……視線が増えています。業務に影響が出る可能性があります」
久遠課長は頷いた。
「分かっている。対策を考えるよ。だが……君の活動が広がれば、どうしても注目は集まる」
舞夢は静かに答えた。
「私は、観測者です。注目は必要ありません」
「だが、君の言葉は社会に必要なんだ」
舞夢は少しだけ目を伏せた。
「……理解はしています。でも、……慣れない」
久遠課長は優しく言った。
「慣れなくていい。君は君のままでいい」
舞夢は小さく頷いた。
理学研究所の解析結果。
積み上がったレポート。
広がる調査依頼。
社会の反応。
それらすべてが、舞夢の中でひとつの結論に収束していた。
揺らぎの守り人は、確かに存在する。
そして、自分はその声を聞くことができる。
舞夢は夜の帰り道、静かな都市の光を見上げた。
街のざわめきが、いつもより少しだけ整って聞こえる。
「……私は、間違っていなかった」
その呟きは、誰に向けたものでもない。
ただ、都市の呼吸に寄り添うように、静かに溶けていった。
理学研究所の解析結果が内部で共有されてから、わずか数日。
舞夢の周囲の空気は、静かに、しかし確実に変わり始めていた。
最初に変化が現れたのは、庁舎の受付だった。
情報企画課宛ての電話が増え、メールの受信数も倍以上になった。
その多くが、舞夢への取材依頼だった。
「琴平さん、また取材の問い合わせが来ています。どうしますか?」
受付の職員が困ったように声をかけてくる。
舞夢は淡々と答えた。
「業務に支障が出ます。基本は断ってほしいです」
その判断は正しかった。
職員は更に困った表情を浮かべた。
「地元の地方局ということもあって、どうしても取材したいと。お断りはしているんですが……」
舞夢は戸惑いながらも、久遠課長に相談した。
久遠課長はしばらく黙ってから、ため息をついた。
「……本当は受けてほしくない。だが、完全拒否は逆効果だ。君の性格も分かってる。断り続けるのも、きついだろう」
「……はい」
「短いコメントだけだ。俺が横にいる。無理はするな」
こうして、舞夢は初めての取材を受けることになった。
取材当日。
小さな会議室に、地方局の記者が二人だけ。
舞夢は緊張していたが、久遠課長が隣に座ってくれていた。
記者が質問する。
「琴平さんは、揺らぎの守り人を〝実在する存在〟と考えているんですか?」
舞夢は一瞬だけ言葉を探した。
説明しようとすると、自然に〝間〟が生まれる。
「……存在は、確認されつつあります。私は……観測した事実を伝えているだけです」
記者は食い下がる。
「声が聞こえる、と?」
舞夢は視線を落とし、静かに答えた。
「……言葉ではありません。揺らぎとして、意味が届きます」
久遠課長が横から補足する。
「琴平は比喩ではなく、技術的な観測として話しています。誤解のないように」
取材は十五分ほどで終わった。
舞夢は深く息を吐いた。
「……疲れました」
久遠課長は苦笑した。
「よくやった。これで少しは落ち着くといいんだが……」
しかし、その期待とは裏腹に、数分間に編集された映像が放送されると状況は一変した。
翌日には別の局が庁舎前に現れ、さらに翌日には舞夢の住む西教区のマンション前にも記者が立つようになった。
「琴平さん、揺らぎの守り人とは何ですか?」
「あなたは本当に〝影の存在〟を見たのですか?」
「次の予告はありますか?」
舞夢は、どう答えればいいのか分からなかった。
質問の意図も、記者たちの熱量も、舞夢の感覚とはあまりに違いすぎた。
「……すみません。今は、答えられません」
そう言うしかなかった。
しかし、一度取材を受けたことで、他のマスコミも「自分たちも話を聞けるはずだ」と考えたらしい。
庁舎の前には連日、複数のQ-Cast局やネットメディアが集まり、舞夢の姿を探した。
取材に紛れて芸能スカウトマンの名刺も混じる。
「琴平さん、もし興味があれば……芸能関係のお話も。今なら注目度も高いですし」
舞夢は一瞬だけ男を見たが、何も言わずに通り過ぎた。
その沈黙すら、また誰かのカメラに切り取られていく。
舞夢は、庁舎の裏口を使って出入りするようになった。
それでも、完全に避けることはできなかった。
久遠課長は、舞夢の疲れた表情を見て言った。
「……一か所受けると、こうなるんだよ。マスコミってのは」
「……はい。分かってます。でも……断り続けるのも難しい」
「君は悪くない。悪いのは、向こうの〝熱〟だ」
舞夢は小さく頷いた。
揺らぎの守り人が存在する。
その事実は、舞夢に確信と同時に、重い責任をもたらした。
「……私は、観測者。報告者。
見たものを、そのまま伝える……それが、私の役目」
そう自分に言い聞かせるたび、胸の奥に小さな痛みが走った。
それは恐れかもしれない。
自分の言葉が、社会を動かしてしまうかもしれないという恐れ。
しかし同時に、舞夢は知っていた。
揺らぎの守り人が伝えようとしている警告を、受け取れるのは自分だけだということを。
「……伝えなきゃ。
誰かが、聞かなきゃいけない声だから」
舞夢は静かに息を吸い、都市のざわめきに耳を澄ませた。
その奥で、揺らぎの守り人の気配が、かすかに脈動している。
世界は、確かに揺らぎ始めていた。
西教区のマンション前に、見慣れない人影が立つようになったのは、最初のQ-Cast取材を受けてから数日後のことだった。
最初は一人、次に二人。
やがて、複数のカメラを持った記者たちが、舞夢の帰宅時間を狙うように集まるようになった。
「琴平さん、少しだけお話を――」
「揺らぎの守り人について、追加のコメントを……!」
舞夢は、どう反応すればいいのか分からなかった。
ただ、足を止めると質問が雪崩のように押し寄せてくるため、視線を落とし、できるだけ早くエントランスへ向かうしかなかった。
「……すみません。今日は……」
そう言っても、記者たちは引かない。
「……通してください。迷惑です」
記者は食い下がる。
「揺らぎの守り人は、次に何を──」
舞夢は答えない。
エントランスに入り、扉が閉まる瞬間、都市のざわめきが耳に刺さる。
部屋に入ると、舞夢は壁にもたれ、静かに息を吐いた。
「……騒がしい」
都市のノイズが、舞夢の感覚を圧迫する。
揺らぎの守り人の気配も、どこか遠く、乱れている。
舞夢は目を閉じた。
「……私は、見たものを伝えるだけ。それだけ」
しかし、その言葉は、以前よりも少しだけ弱かった。
舞夢の言葉は、彼らにとって〝素材〟でしかないのだと、舞夢は薄々感じ始めていた。
マンションだけではなかった。
舞夢が週末に通っていたライブハウスにも、記者たちが現れるようになった。
最初のうちは、黒瀬や千堂といった、やや強面の男性メンバーが対応してくれていた。
「おい、ここは取材する場所じゃねえぞ。帰れ」
「舞夢は仕事で疲れてんだ。邪魔すんな」
彼らが前に立つと、記者たちは一度は引き下がった。
だが、それも長くは続かなかった。
記者の数は日ごとに増え、ライブハウスの前で待ち構えるようになった。
ネットメディアの記者、動画配信者、Q-Streamのライブ配信者まで混ざり始め、もはや誰が誰なのか分からない状態だった。
「琴平さん! 少しだけお話を──!」
「揺らぎの守り人は、危険な存在なんですか?」
「あなたは予言者なんですか?」
「お付き合いしている人とかはいるんですかー?」
舞夢は立ち止まらず、淡々と答える。
「……業務外の質問には答えられない」
しかし、記者たちは諦めない。
舞夢が歩くたびに、視線が刺さる。
音のざわめきが増幅し、都市のノイズが舞夢の感覚を圧迫する。
ベースの大庭が、控室で苦笑混じりに言った。
「……なんや、コンピラちゃん、やばいくらいカオスになってきたで」
ドラムの千堂が、舞夢の表情に不安を覚える。
「舞夢、大丈夫か? 最近、顔色悪いぞ」
「……大丈夫、です。すみません……迷惑を……」
「いや、迷惑とかじゃなくて、マジ心配なんすよ」
黒瀬の言葉はぶっきらぼうだが、優しさが滲んでいた。
しかし、舞夢は分かっていた。
この状況が続けば、バンドに迷惑がかかる。
ライブハウスにも、客にも、スタッフにも。
そして何より、メンバーが自分のために記者対応を続けることは、負担でしかない。
ある日の練習後、黒瀬が静かに言った。
「舞夢さん……しばらく、バンド休んだほうがいいんじゃないですか?」
舞夢は息を呑んだ。
「……私の、せいで……?」
「そうじゃないっす!でも、このままじゃ、誰も音楽に集中できないっすよ……」
千堂も頷いた。
「舞夢が悪いわけじゃない。でも、状況が悪すぎる。俺らも、ずっと記者を追い返すわけにはいかねえし……」
他のメンバーも、心配そうに舞夢を見つめていた。
舞夢は、胸の奥が締め付けられるような感覚に襲われた。
音楽は、舞夢にとって数少ない〝自分の居場所〟だった。
しかし、その居場所さえ、揺らぎ始めている。
「……判った。みんなの言う通りだ。しばらく……休む。迷惑かけた……」
「だから謝るなって。戻ってくる場所はあるからよ」
千堂の言葉に、舞夢は小さく頷いた。
こうして、バンドはボーカル不在のインストバンドとして活動を続けることになった。
舞夢は、週末の予定がぽっかりと空いたことに、奇妙な喪失感を覚えた。
舞夢の名前がさらに広がったのは、ネットの人気討論番組で「揺らぎの守り人」が取り上げられたことがきっかけだった。
番組では、これまで表舞台に出てこなかったような専門家やコメンテーターが集められ、舞夢のレポートや発言が次々と引用された。
「揺らぎの守り人の〝反省〟というメッセージは、人類への警告だと考えるべきだ」
「いや、〝戦い〟という言葉を使っている以上、何らかの外的脅威が存在する可能性が高い」
「そもそも、こういう現象は無視するのが一番だ。過剰に反応するから社会が混乱する」
「いやいや、無視こそ危険だろう。これは新しい科学の扉だ」
議論は白熱し、番組は大きな視聴数を記録した。
しかし、舞夢は知っていた。
――この手の番組は、正解を出す気などない。
議題を提供し、視聴者を煽り、次の回へつなげるための〝素材〟として扱われるだけだ。
そして、その〝素材〟の中心に、自分がいる。
舞夢は、番組の切り抜き動画がQ-Streamで拡散されていくのを、ただ静かに見つめるしかなかった。
討論番組の影響は大きかった。
舞夢の名前は、ネット上で急速に広がり、検索ワードの上位に入り、Q-Streamでは連日トレンド入りした。
「琴平舞夢って誰?」
「本当に〝影〟を見たの?」
「揺らぎの守り人って、何?」
舞夢は、気づけば〝時の人〟になっていた。
マンションの前に立つ記者の数は増え、庁舎にも、帰り道にも、見知らぬ人がカメラを向けてくるようになった。
舞夢は、外を歩くとき、フードを深くかぶるようになった。
視線を避け、足早に歩く。
それでも、完全に避けることはできなかった。
ある日、庁舎を出たところで、突然マイクが差し出された。
「琴平さん! 揺らぎの守り人は、何を伝えようとしているんですか?」
舞夢は立ち止まった。
脳内にノイズが駆け巡る。
どう反応していいか分からなくなった。
沈黙すると、記者たちのざわめきがさらに強くなる。
──何か、言わないといけない。
その圧力が、舞夢の胸を締めつけた。
舞夢は、かすかに震える声で言った。
「……揺らぎの守り人は……警告を……人間社会に伝えるように……私に……」
記者たちの目が一斉に輝いた。
「警告とは? どういう意味ですか?」
「人類へのメッセージということですか?」
「破滅の予兆ですか?」
舞夢は、言葉を探しながら続けた。
「……世界の……負荷が……限界に近い……と……そう、感じた」
その瞬間、記者たちは一斉にメモを取り、カメラが連写音を響かせた。
舞夢は、胸の奥が少しだけ軽くなるのを感じた。
──伝えられた。
──約束を果たせた。
揺らぎの守り人が求めた〝伝達〟を、ようやく果たせた気がした。
しかし、その安堵は長く続かなかった。
翌日、ネットニュースには舞夢の発言が大きく取り上げられていた。
《今話題の美人エンジニア、琴平舞夢「揺らぎの守り人は警告を伝えに来た」》
《〝反省・戦い・無視〟の意味とは? 専門家が徹底分析》
《新たな預言者か、それとも――?》
舞夢の言葉は、切り取られ、編集され、見出しとして消費されていた。
通常ならば、こんな発言をする人間は「異常者」か「宗教的妄想者」として扱われるだろう。
しかし、今の舞夢は違った。
舞夢の言葉は、そのまま〝商品〟になっていた。
舞夢は、画面に映る自分の言葉を見て、胸の奥が冷たくなるのを感じた。
「……こんなつもりじゃ、なかったのに」
少しだけ後悔した。
しかし、もう後戻りはできない。
舞夢は、揺らぎの守り人の声を聞いた唯一の人間として、社会の中心に立たされてしまったのだ。
揺らぎの守り人に関する議論は、いつの間にか科学の領域を越え、政治の領域へと踏み込んでいた。
最初は専門家同士の議論だった。
しかし、ネット討論番組で取り上げられ、Q-Streamで拡散され、街頭インタビューで一般市民の声が拾われるようになると、議論は急速に〝色〟を帯び始めた。
舞夢は、庁舎の会議室で流れるニュースを見つめながら、胸の奥に冷たいものが広がっていくのを感じていた。
「……分かれていく……」
画面の中では、政治家が揺らぎの守り人の警告を〝自分の支持層向けのメッセージ〟として利用し、別の政治家は「科学的根拠がない」と切り捨て、さらに別の勢力は舞夢の発言を陰謀論の材料にしていた。
舞夢の言葉は、舞夢の意図とは無関係に、社会の中で勝手に形を変えていく。
舞夢を中心とした社会の分断は、次第に明確な〝六つの層〟として浮かび上がってきた。
●科学主義派
研究者、技術者、大学関係者。
舞夢の感覚を「新しい観測手法」として評価し、揺らぎの守り人の存在を科学的に解明しようとする層。
「琴平さんのレポートは、量子情報の新しい扉を開く可能性がある」
「もっと詳細なデータを取らせてほしい」
彼らは舞夢を〝研究対象〟として見ていた。
●政治利用派
舞夢の発言を切り取り、支持層向けに利用する政治家や団体。
「これは我々の主張を裏付ける証拠だ!」
「揺らぎの守り人は、現政権への警告だ!」
舞夢の言葉は、彼らにとって〝武器〟だった。
●陰謀論派
舞夢を攻撃し、能力を否定し、揺らぎの守り人を〝作り話〟と断じる層。
「全部仕組まれた演出だ」
「背後に巨大組織がいる」
「琴平舞夢は嘘つきだ」
舞夢は、Q-Streamで日常的に攻撃されるようになった。
●市民不安層
揺らぎの守り人を〝預言者の声〟のように捉え、舞夢に依存する層。
「舞夢さんの言葉を信じます」
「次の警告はいつ来ますか?」
「どうすれば助かりますか?」
彼らは舞夢を〝救い〟として見ていた。
●技術者層
舞夢を実務的に信頼し、神格化せず、冷静に受け止める層。
「琴平さんの感覚は、現場で役立つ」
「過剰に持ち上げる必要はないが、無視もできない」
彼らは舞夢にとって、最も〝普通の距離感〟を保つ人々だった。
●中立層
情報過多に疲れ、舞夢の話題そのものを避け始める層。
「もう揺らぎの話は聞き飽きた」
「何が本当なのか分からない」
「関わりたくない」
舞夢は、彼らの気持ちが痛いほど分かった。
ある日、ネットニュースの見出しに、舞夢は目を疑った。
《揺らぎの守り人を〝殲滅〟せよ? 専門家が提案》
「……殲滅……?」
記事を開くと、こう書かれていた。
揺らぎの守り人が電磁波の集合体であるならば、
電磁波を弱めることで〝消滅〟させられるのではないか――と。
妨害電波の発信。
金属片の散布。
都市インフラの電磁環境を意図的に乱す行為。
しかし、どれも〝対象を捕獲できない〟以上、効果検証は不可能だ。
そもそも、揺らぎの守り人が人間の企てを察知する可能性もある。
記事の最後には、こう締めくくられていた。
《実現可能性は不明だが、議論の余地はある》
舞夢は、胸の奥が冷たくなるのを感じた。
「……そんなこと、できるわけ……ないのに」
揺らぎの守り人は、舞夢に敵意を向けたことは一度もない。
むしろ、警告を伝えようとしていた。
それを〝殲滅〟という言葉で語る人間たちの姿に、舞夢は深い悲しみを覚えた。
舞夢は、どの派閥にも味方しなかった。
いや――できなかった。
舞夢は、問いを投げかける人々が本当に欲しい答えを持っていない。
揺らぎの守り人の意図を、完全に理解しているわけでもない。
だからこそ、舞夢は一つの姿勢だけを貫いた。
「……私は……観測者です。〝観たもの〟を……そのまま伝えるだけ……です」
その言葉に嘘はなかった。
舞夢は、揺らぎの守り人の声を加工したくなかった。
誰かの都合に合わせて変形させることは、裏切りだと思った。
しかし、その姿勢は、次第に別の反応を生み始めた。
ある日の記者会見。
舞夢は庁舎の会議室に呼ばれ、
久遠課長とともに簡単な説明を行うことになった。
記者たちの視線は鋭かった。
舞夢が席につくと、すぐに質問が飛ぶ。
「琴平さん、揺らぎの守り人の〝警告〟は、政治的な意味を含んでいると考えますか?」
舞夢は短く答える。
「……分かりません。私は、意味を……解釈していないので」
「では、あなた自身の意見は?」
舞夢は少しだけ視線を落とす。
「……意見は……わからない……観測した事実だけを伝えて……」
その瞬間、会場の空気がざわついた。
「意見を言わないのは無責任では?」
「あなたの沈黙が市民を不安にさせているのでは?」
「政治的中立を装っているだけでは?」
舞夢は、胸の奥がざわつくのを感じた。
都市のノイズが、会議室の壁を通して響いてくる。
久遠課長が割って入る。
「琴平は技術者です。政治的判断をする立場にはありません」
しかし、記者たちは止まらない。
「では、あなたは琴平さんの発言を管理しているのですか?」
「行政が琴平さんを利用しているという噂がありますが?」
「揺らぎの守り人の〝味方〟なのですか?」
舞夢は、言葉を探した。
説明しようとすると、自然に〝間〟が生まれる。
「……私は……誰の味方でも……ただ……見たものを……そのまま……」
記者たちの視線が刺さる。
舞夢の声は、かすかに震えていた。久遠課長が会見を打ち切った。
「本日の説明は以上です」
舞夢は席を立ち、会議室を出た。廊下に出た瞬間、足が少しだけ震えた。
「……疲れた」
久遠課長は静かに言った。
「無理をするな。今日はもう帰れ」
舞夢は頷いたが、胸の奥のざわつきは消えなかった。
「琴平舞夢は、核心を隠している」
「本心を語らないのは不誠実だ」
「観測者?逃げているだけだろう」
舞夢が公の場で〝観測結果のみ〟を語り、本心を語らない姿勢を貫くほど、攻撃的な論調が強まっていった。
Q-Streamでは、舞夢の発言の一部だけを切り取った動画が拡散され、
「曖昧すぎる」「責任を取らない」「逃げている」
といったコメントが並んだ。
舞夢は、画面を見るたびに胸が締め付けられた。
「……どうして……」
自分は嘘をついていない。ただ、分からないことを〝分からない〟と言っているだけだ。
それなのに、なぜこんなにも責められるのか。
久遠課長は、舞夢の表情を見て言った。
「……君は悪くない。だが、世の中は〝分からない〟と言う人間を許さないことがある」
舞夢は、静かに頷いた。庁舎の廊下を歩くと、職員たちがひそひそと話す声が聞こえる。
「舞夢さん、またQ-Castに出てたね」
「政治家が利用してるらしいよ」
「陰謀論の人たちが騒いでるって」
舞夢は、胸の奥がざわつくのを感じた。都市のノイズが、いつもより強く、乱れて聞こえる。揺らぎの守り人の気配も、どこか遠く、歪んでいる。
舞夢は虚ろにもとれる声で久遠課長に言った。
「すみません……少し……限界かもしれない」
舞夢の言葉から敬語が消えた。久遠課長は心配そうに舞夢を見た。
「休んだ方がいい。バンドも休んでるんだろう?」
舞夢は頷いた。
「……歌えない。音が……ざわついてる」
久遠課長は静かに言った。
「君は一人じゃない。支える人間はいる」
舞夢は、少しだけ目を伏せた。
「……分かってる。でも……苦しい」
その声は、これまでで一番弱かった。
週末のバンド活動を休止してから、舞夢の生活は仕事と取材対応だけになった。
音楽という〝逃げ場〟を失った舞夢の心は、少しずつ摩耗していった。
朝起きると、胸の奥に重い石が乗っているような感覚がある。
庁舎へ向かう足取りは、以前よりもずっと重い。
記者の姿を見るだけで、呼吸が浅くなる。
鏡を見ると、目の下に薄い影ができていた。頬も少しこけている。
「……疲れてる……」
自分でも分かるほど、顔色が悪くなっていた。
舞夢は、心の中で救いを求めていた。しかし、誰に求めればいいのか分からなかった。
揺らぎの守り人は、警告を伝えるだけで、舞夢を慰めてはくれない。
久遠課長は頼れるが、彼に甘えるわけにはいかない。
バンドの仲間には迷惑をかけたくない。
歌うことは舞夢にとって、都市のノイズを洗い流す唯一の手段だった。それを失った今、彼女の心は休まる場所を失っていた。
その日の夜、帰宅してQ-Phoneを開くと、通知が二つ並んでいた。
差出人は白石澪と榊原迅。高校時代からの、数少ない理解者たちだった。
メッセージは短かったが、どちらも舞夢を励ます言葉で満ちていた。
――舞夢、大丈夫? 無理しないで。
――お前は間違ってない。俺はそう思う。
ただ、その後に続く文面は、舞夢の胸を締めつけた。
澪も迅も、自宅や職場の周辺に「よく分からない人物」が現れているという。
マスコミなのか、ただの野次馬なのか、判断がつかない。だが、二人とも舞夢の所には行けない状況になっていた。
「私たちは大丈夫だから。心配しないで」
「今舞夢の所には行けないが、リモートでならいくらでも応援できる」
二人はそう書いていた。舞夢を安心させるための言葉だと分かっていた。
しかし、現実には二人とも取材を受けており、コメントを拒否しても、その沈黙すら切り取られてメディアに流されていた。
――舞夢とはどんな人物なのか。
――高校時代はどうだったのか。
――特別な能力はいつからあったのか。
澪も迅も、ほとんど何も話していない。
それでも、カメラの前で困惑した表情を浮かべるだけで、番組は「親友たちの沈黙」として物語を作り上げていく。
舞夢は画面を見つめながら、胸の奥がじわりと痛むのを感じた。
自分のせいで、彼らの日常が侵食されている。
その事実だけが、静かに、しかし確実に舞夢を追い詰めていった。
彼女は二人に返信を送った。
「ありがとう。私は大丈夫。ただ、今は……待ちたい。ごめんね」
短い文だった。それ以上の言葉を紡ぐ余裕が、今の舞夢にはなかった。
送信ボタンを押したあと、舞夢はしばらく画面を見つめたまま動けなかった。
胸の奥に、冷たい空洞が広がっていく。
都市の揺らぎが、いつもより重く、濁って聞こえる。
部屋の照明を落とすと、窓の外の街の光がぼんやりと揺れた。
その揺らぎは、まるで舞夢自身の心の震えを映しているようだった。
――私は、間違っていない。
――でも、正しいとも言い切れない。
――ただ、見たものを伝えているだけ。
それなのに、どうしてこんなにも苦しいのだろう。
舞夢は、静かに、しかし確実に孤独になっていった。
ある夜、舞夢はマンションの窓辺に立ち、都市の光を見下ろしていた。
遠くで、電車の音が響く。街のざわめきが、微弱な電磁の波となって舞夢の皮膚をかすめる。
その奥に――揺らぎの守り人の気配があった。
「……聞こえてる、んですか……?」
返事はない。
ただ、静かな脈動だけが、舞夢の感覚の奥で揺れていた。
舞夢は、胸に手を当てた。
「……私、どうすれば……」
その問いに答える者は、どこにもいなかった。
舞夢は、都市の光の中で、ひとり立ち尽くしていた。
この章では舞夢のレポートの確かさが証明された事を引き換えに、舞夢自身が世間の関心を集める事で情報消費の対象にされていきます。
今の世界で言うところのSNSの批評にさらされ、マスコミの取材攻勢などを受けていきます。情報ビジネス、面白興味半分、政治的意図・・・・など様々です。各々が、特段の悪気をもっている訳では無いのですが、確実に舞夢の精神を疲弊させていきます。舞夢は自分の仕事、役目を粛々と行っているだけなのですが、世間には世間の見方が有り、なかなかそれが正しく伝わっていきません。
舞夢はこの先どうなっていくのでしょうか。次章に繋がっていきます。




