第8話 飼い葉と橋
三つ目の小屋に屋根が乗って、数日が過ぎた。
「トビ」
「何だ」
「馬一頭って、一晩でどれくらい食べる?」
畑から戻ってきたトビは、泥のついた手を桶で洗いながら、ノアを見た。
「何頭来るんだ」
「分からない」
「……分からないのに聞くのか」
「分からないから聞いてる」
トビは少し黙って、それから両腕で輪を作ってみせた。
「重い荷を引いた馬なら、このくらいを一晩で。軽い馬なら、少し減らしてもいい」
ノアは紙に書いた。
――馬一頭 一晩 ひと抱え
横で鍋を洗っていたミラが、顔を上げた。
「買うの?」
「少しだけ」
「分からないのに買うの?」
「分からないから、少しだけ」
ミラは、濡れた手を振って水を切った。
「人の食べ物も足りないのに、馬のご飯買うんだ」
ノアは、少し迷った。
それから、客用の小屋を見た。
この前は、客の馬が草だけで一日を越した。
二日目は、なかった。
「馬が泊まれなかったら、荷車の人も泊まれないから」
ミラは、しばらくノアを見ていた。
「……少しだけね」
「少しだけ」
◇ ◇ ◇
翌日、ノアはローデン村へ行った。
ベルントは、飼い葉を分けてくれと聞いて、眉を上げた。
「馬を飼う気か」
「いえ。泊まりに来る人の馬の分です」
「どれだけ要る」
「まずは、二頭が一晩食べられるくらい」
ベルントは、納屋の方を顎で示した。
「それくらいならいい。だが、村の馬の分まで売るわけにはいかん」
「それで十分です」
支払いには、一組目の客が置いていった銅貨を使った。
数枚が、ベルントの手の中へ移った。
ノアは、飼い葉を背負って丘を二つ越えた。
重かった。
帰り着いた頃には、肩が上がらなくなっていた。
ミラが、背中の荷を下ろすのを手伝いながら言った。
「これで、来なかったらどうするの」
「来るまで、濡らさないようにしとく」
「……それは、そうだけど」
飼い葉は、屋根のある小屋の隅に積まれた。
◇ ◇ ◇
来たのは、それから三日後の夕方だった。
丘の上に、馬が三頭。
荷車はない。
乗っている三人は、革鎧を着て、腰に剣を下げていた。
畑にいたダグが、手を止めた。
トビも、顔を上げた。
「……軍の人?」
ミラが小声で言った。
「みたいだね」
三騎は、窪地の手前で馬を止めた。
先頭の男が、馬上からノアを見下ろした。
その後ろの一人に、ノアは見覚えがあった。
前に巡察が来た時、馬で付いてきていた男だった。
「丘の向こうに、人と馬を休ませられる場所があると聞いた」
「あります」
「一晩、頼めるか」
「食事は出ません」
「聞いている」
男は、それが当然だという顔をした。
ノアは、小屋の隅の飼い葉を思い出した。
「馬の飼い葉なら、あります」
先頭の男の表情が、わずかに緩んだ。
「それは助かる」
横で、ミラがノアの顔を見た。
何も言わなかった。
◇ ◇ ◇
兵たちが馬を降りると、ミラはいつも通り動き出した。
「寝るのは、あっちの屋根のある方。客用だから、三人なら入れる」
「荷物は、中の奥に。入口の側は、夜露で湿るから」
「火は、こっちの焚き火と分けて。煙がうちに来ないように、向こう側で」
「水は、この桶。足りなくなったら、泉まで汲みに行って」
若い兵が、少し戸惑った顔で頷いた。
軍の人間だからといって、ミラの口調は変わらなかった。
一方、トビは、黙って馬の方へ歩いていった。
三頭の首を順に撫で、脚を触る。
蹄を一つずつ持ち上げて、裏を覗き込む。
三頭目の後ろ脚で、トビの手が止まった。
「こいつ、歩き方が変じゃなかったか?」
若い兵が振り返った。
「朝から走らせたからな。疲れてるだけだろう」
「疲れてるだけなら、脚は庇わん」
トビは、蹄の裏を指で探った。
溝の奥に、小石が一つ、深く食い込んでいた。
トビは腰の小刀を抜き、石の縁に刃を差し込んだ。
馬が、一度だけ脚を引こうとする。
トビは膝で脚を押さえ、ゆっくりと石を掻き出した。
小石が、地面に落ちた。
トビは、蹄の裏をもう一度確かめた。
「割れてはいない。だが、今日はもう走らせるな」
「……分かった」
「明日も変なら、ちゃんと馬を見られる奴に診せろ。俺は、村で馬の世話をしてただけだ」
若い兵は、落ちた小石を拾い上げて、しばらく眺めていた。
先頭の男が、ノアの方を向いた。
「馬も見られるのか」
「トビが、です」
ノアは、馬の横にしゃがんでいるトビを見た。
「僕は、全然見られません」
◇ ◇ ◇
トビは、小屋の隅から飼い葉を運び出すと、三つに分けた。
「二頭分しかないけど」
ノアが言うと、トビは首を振った。
「荷車を引いてきた馬じゃない。今夜だけなら、三頭で分けて足りる」
馬に水をやり、兵たちが焚き火を起こした後で、ノアは代金の話をした。
「泊まりの分と、飼い葉の分をお願いします」
若い兵が、少し驚いた顔をした。
「軍からも取るのか?」
責めている声ではなかった。
ただ、意外だったらしい。
「飼い葉は、ローデン村から買ってきたものなので」
若い兵が何か言いかける前に、先頭の男が短く言った。
「払え」
若い兵は、黙って懐を探った。
銅貨が、ノアの手のひらに並べられた。
飼い葉の分も、きちんと含まれていた。
◇ ◇ ◇
夜。
客の焚き火のそばで、ノアは兵たちと並んで座っていた。
ミラは少し離れたところで、客用の桶に水を足していた。
「この辺りの道は、どうなってますか」
ノアが聞いた。
先頭の男が、火を見たまま答えた。
「丘の下の道は、雨が上がってから荷車も通れるようになった。ローデン村の脇道は、まだ轍が深い」
「西街道の橋は」
「ああ」
男は、薪を一本火にくべた。
「雨でだいぶ遅れたがな。明日か、明後日には直る」
ノアの手が、止まった。
今、この丘を越えてくる荷車は、みんな橋が落ちたから回ってきている。
橋が直れば。
「……じゃあ」
桶のそばで、ミラが言った。
「もう、こっちは通らなくなる?」
ノアは、しばらく火を見ていた。
「……分からない」
誰も、それ以上は言わなかった。
◇ ◇ ◇
しばらくして、兵の一人が言った。
「西は、しばらく騒がしくなるぞ」
「何かあるんですか?」
「獅子に降ってない領主が、集まり始めてる」
「集まって、どうするんです?」
兵は、肩をすくめた。
「さあな。戦うんじゃないか」
言い方は、明日の天気の話と変わらなかった。
もう一人の兵が、焚き火を見ながら、淡々と言った。
「あの人は、一度決めたら止まらんぞ」
それだけだった。
誰も、続きを言わなかった。
三人とも、火に手をかざしたまま、落ち着いていた。
西で領主たちが集まっていることを、心配している様子は、少しもなかった。
ノアは、その落ち着き方の方が、少しだけ気になった。
◇ ◇ ◇
兵たちが寝静まった後、ノアは紙を出した。
屋根の作り方を書いた紙の、裏だった。
――西街道 橋 明日か明後日復旧
――丘の下の道 荷車通行可
――ローデン村脇道 轍深い
少し考えてから、前の客から聞いたことも書き足した。
――雨の後 丘の下 ぬかるみ
それから、もう一行。
――西 降っていない領主たち集結
道のことと、戦のことが、同じ紙の上に並んだ。
ノアは、それを見て、何かを考えたわけではなかった。
ただ、聞いたことを忘れないように書いただけだった。
◇ ◇ ◇
翌朝。
兵たちは、日が昇ると同時に出立の支度を始めた。
トビが、三頭目の馬の蹄をもう一度持ち上げた。
「腫れてはいない。だが、今日は無理をさせるな」
若い兵が頷いた。
「……助かった」
短い礼だった。
トビは、何も言わずに手を振って、畑の方へ歩いていった。
先頭の男が、馬に乗った。
三騎が、丘を越えていった。
◇ ◇ ◇
ノアは、受け取った銅貨を数えた。
ローデン村に払った分を、引く。
残ったのは、ほんの少しだった。
ミラが覗き込んだ。
「これだけ?」
「これだけ」
「……馬のご飯、買って、使ってもらって、お金が戻ってきて、これだけ」
「うん」
ミラは、少し考えた。
「でも、減ってはないんだ」
「減ってはない」
ノアは、残った銅貨を袋に戻した。
次の飼い葉を買う分くらいは、あった。
◇ ◇ ◇
その日の午後。
丘の上に、小さな荷車が一台現れた。
痩せた男が一人で引いている。
男は窪地の手前で止まり、ノアに声をかけた。
「すまん、泊まりじゃないんだが」
「はい」
「西へ抜けたいんだ。橋は、まだ通れないか?」
ノアは、懐から紙を出した。
昨夜書いた一行を、指でなぞる。
「明日か明後日には、通れるそうです」
「そうか」
男は、ほっとしたように息を吐いた。
「なら、今日はローデン村の方で待つ。助かった」
男は礼を言い、荷車を引いて、来た道を戻っていった。
ミラが、その背中を見送った。
「今の人、泊まらなかったね」
「うん」
ノアは、手の中の紙を見た。
屋根の作り方の裏に、道と橋と、西の領主たちのことが書いてある。
ノアは紙を畳んで、懐にしまった。




