第9話 空いた宿帳
橋が直ったらしい。
そう聞いたのは、泉で水を汲んでいたトビだった。
ローデン村の者が、同じ泉で桶を満たしながら言っていたという。
「西街道は、もう荷車が通ってるそうだ」
トビはそれだけ伝えて、畑へ戻っていった。
一日目。
誰も来なかった。
二日目。
誰も来なかった。
三日目も、丘の上に荷車は現れなかった。
ノアは夕方になるたびに、台帳を開いた。
台帳の、泊まりを書く頁。
宿場にいた頃の癖で、ノアはそこを宿帳と呼んでいた。
――泊まり 三組
その下の行は、三日経っても空いたままだった。
◇ ◇ ◇
「切り詰めて、あと十日」
ミラが、麦の袋の口を縛りながら言った。
焚き火のそばが、静かになった。
同じ言い方を、前にも聞いた。
あの時は、三日だった。
ノアは、畑の方を見た。
ダグが鍬を入れた土の筋に、細い緑が並んでいた。
一本一本は、指ほどの長さもない。
それでも、一列、また一列と、確かに続いている。
「ちゃんと育ってますね」
ノアが言うと、ダグは腰を伸ばして、芽の列を見下ろした。
「芽ならな」
「芽なら」
「腹に入るのは、まだずっと先だ」
ダグは、それ以上は言わずに鍬を持ち直した。
◇ ◇ ◇
その夜、ノアは焚き火の明かりで紙を並べていた。
台帳。
「誰が何できるか」の紙。
食料の紙。
屋根の作り方を書いた紙と、その裏に書いた道のこと。
ミラが、横から覗き込んだ。
もちろん、読めない。
「ノア、ここに来てからよく書くようになったね」
「そう?」
「宿にいた頃も、台帳は書いてたけど。こんな何でも紙に書いてなかったでしょ」
ノアは、少し考えた。
「三枚で足りるなら、三枚の方がいいよ」
「じゃあ、これは?」
ミラが、並んだ紙を指差した。
ノアは、自分でも数えてみた。
宿場の帳場で書いていたのは、今夜の予約と、空いている部屋と、客の払い。
それで、仕事は回った。
今は、九人分の麦がある。
畑がある。
泊まりがある。
飼い葉がある。
道がある。
「三枚じゃ、足りなくなったから」
「……ふうん」
「覚えておく方が、面倒なんだよ」
ミラは、紙の束を見て、それからノアを見た。
「書類三枚で土地選んだ人とは思えない」
「あの時は、三枚で足りたから」
「足りてなかったでしょ、全然」
◇ ◇ ◇
翌朝、ノアは袋の中の銅貨を数えた。
兵たちが置いていった分から、飼い葉の代を引いた残り。
次の飼い葉を買う分くらいは、あった。
それ以上は、なかった。
「飼い葉、また買っておこうと思う」
鍋を火にかけていたミラの手が、止まった。
「……誰も来てないよ」
「商人はね」
「人のご飯も足りないんだけど」
「うん」
ミラは、ノアの顔をじっと見た。
ノアは、丘の上を見た。
「来なくなったのは、橋を回ってた人たちだから」
「うん」
「見回りの兵は、橋と関係なく回ってる。この前も、馬で来た」
ミラは、少し黙った。
「……来なかったら?」
「来るまで、濡らさないようにしとく」
「それ、前も聞いた」
「前も、そうしたから」
ミラは溜め息をついて、鍋に戻った。
止めはしなかった。
◇ ◇ ◇
ローデン村で、ベルントはノアの顔を見るなり言った。
「また馬か」
「また馬です」
「客は来とらんと聞いたぞ」
「商人は、来てないです」
ベルントは、それ以上は聞かずに納屋を指差した。
二頭分の飼い葉を背負って、ノアは丘を二つ越えた。
前より、少しだけ肩が上がった。
◇ ◇ ◇
三日後の昼。
丘の上に、馬が二頭現れた。
乗っているのは、革鎧の兵が二人。
この前の三人とは、別の顔だった。
二騎は窪地まで降りてくると、泉への道を指差した。
「水を飲ませたい。少し休ませてもらうぞ」
「どうぞ」
ノアは、兵たちの馬を見た。
脚に、泥が跳ねている。
「飼い葉もあります」
兵の一人が、当たり前のように頷いた。
「聞いている。ここにはあるとな」
ノアは、少しだけ瞬きをした。
「……誰からです?」
「前にここへ泊まった連中からだ。丘の向こうで、馬に水と飼い葉をやれる、とな」
兵は、それ以上は何も言わなかった。
宣伝してもらった覚えはない。
兵たちも、ノアのために話したわけではないだろう。
見回りの途中で、馬を休ませられる場所がある。
それを仲間に伝えておくのは、見回る側にとって当たり前のことなのだろう。
兵たちは馬に水を飲ませ、飼い葉を食わせ、しばらく腰を下ろした。
泊まりはしなかった。
出立の前に、少額の銅貨を置いていった。
ノアは、それを手のひらに載せた。
泊まらなくても、この場所を使う人はいる。
◇ ◇ ◇
「次の見回りって、いつ頃です?」
馬に跨がりかけた兵に、ノアは聞いた。
「知らん。次は別の隊だ」
「何騎くらい来ます?」
「それも分からん」
ノアは困った。
何騎来るか分からなければ、飼い葉をどれだけ置いておけばいいか分からない。
「この辺り、他にも馬って通りますか?」
兵は、少し面倒そうに、それでも答えた。
「西街道が直ったからな。商人は、あっちへ戻った。俺たちの見回りは変わらん」
「西の方は」
「少し騒がしい。それだけだ」
二騎が、丘を越えていった。
ノアは、屋根の作り方の裏に書き足した。
――西街道 復旧 商人はそちらへ
――見回り 続く 隊は毎回違う
――西 少し騒がしい
ミラが覗き込んだ。
「それも書くの?」
「次に、どれくらい飼い葉を買えばいいか分からないから」
「……それで、西のことまで?」
「西が騒がしいと、見回りが増えるかもしれないし、減るかもしれない」
「どっち?」
「分からない」
ノアは紙を畳んだ。
「分からないから、書いとく」
◇ ◇ ◇
その次の日。
丘の向こうから、一人の男が歩いてきた。
大きな荷を背負った、旅の商人らしい男だった。
荷車も、馬もない。
「ローデン村で、ここの話を聞いた」
男は、窪地の手前で荷を下ろして言った。
「泊まりじゃないんだ。南から来て、西へ抜けたい。西が騒がしいと聞いたんだが、今、通れるか?」
ノアは、懐から紙を出した。
屋根の作り方の裏。
「西街道の橋は、直ってます。荷車も通ってるそうです」
「そうか」
「丘の下の道は、荷車でも通れます。ローデン村の脇道は、轍が深いので、背負ってるなら丘の下の方が楽だと思います」
男は頷いた。
「西の領主たちが集まってるって話は」
「聞いてます。見回りの兵は、少し騒がしい、とだけ」
「その先の領地は、通れるのか」
ノアは、紙を見た。
そこから先のことは、何も書いていなかった。
「そこまでは、分かりません」
男は、少し意外そうな顔をした。
それから、笑った。
「正直だな」
「書いてないので」
男は礼を言い、荷を背負い直した。
歩き出しかけたところで、ノアが呼び止めた。
「あの」
「何だ?」
「南から来たんですよね」
「そうだが」
「こっちまでの道、荷車でも通れます?」
男は、少し考えてから指を折った。
「南の川は、雨の後なら浅瀬の場所を選べば渡れる。橋が一つあるが、古いから荷車は避けた方がいい。途中に岩場が続くところがあって、そこは荷車だと一日がかりだ」
「人の流れは」
「北へ上がる荷車が、前より多かった。西を避けてるのかもしれんな」
ノアは、聞いたことを書いた。
男は、それを不思議そうに見ていた。
「書くのか」
「忘れるので」
「……変わった奴だな」
「よく言われます」
ミラが自分を指差すより先に、男がミラを指差した。
「だろうな」
ミラは満足そうに頷いた。
◇ ◇ ◇
男の姿が丘の向こうに消えてから、ミラが言った。
「お金、取らなかったね」
「僕も聞いたから」
「道を?」
「うん」
ノアは、書き足したばかりの行を見た。
「次に南へ行く人が来たら、使えるし」
ミラは、紙を見た。
読めないまま、しばらく見ていた。
「……取っとくんだ」
「取っとく」
◇ ◇ ◇
その日の夕方。
ゲルトが、積みかけの石垣の前で立ち上がった。
二、三歩進んだところで、足が止まった。
「ゲルトさん?」
ミラが声をかけると、ゲルトは近くの石に手をついた。
「……何でもない。少し、立ちくらみがしただけだ」
「何でもなくないでしょ」
ミラが駆け寄った。
ゲルトはしばらくその場に座り込み、それから、いつものように石へ手を伸ばした。
「休んでて」
エルマが言った。
「今日はもういいから」
「まだ日がある」
「明日もあるよ」
ゲルトは何か言いかけたが、結局、そのまま腰を下ろした。
焚き火のそばでは、子供たちが薄い粥をすすっていた。
エルマが、鍋の中を覗き込む。
「……もう少し、この子たちには食べさせたいんだけどね」
ミラは答えなかった。
朝に数えた麦なら、あと五日。
間違ってはいない。
ノアは、鍋を見た。
ゲルトを見た。
それから、紙に書いた数字を思い出した。
五日ある。
けれど、その五日は、余裕があるという意味ではなかった。
◇ ◇ ◇
兵たちが置いていった銅貨を足して、手元にはまた、少しだけ金が戻っていた。
翌朝、ノアはローデン村へ行った。
「麦を少し、売ってもらえませんか」
ベルントの眉が寄った。
「前にも分けたばかりだろう」
「はい」
「村にだって、余るほどあるわけじゃない。冬の分まで売る気はないぞ」
「冬の分は、要りません」
ノアは言った。
「九人を収穫まで食べさせる分じゃなくていいんです。何日か延ばせれば」
ベルントは、黙ってノアを見た。
ノアは続けた。
「村が売っても困らない量って、どれくらいですか」
ベルントの目が、少しだけ見開かれた。
「……こっちに、それを聞くのか」
「村が困る量を買っても、次に売ってもらえなくなるので」
ベルントは、しばらく納屋の方を見ていた。
指で、何かを数えるように顎を撫でる。
「……五日分だな。それなら、冬には響かん」
「じゃあ、五日分で」
「値は、前より上げるぞ。村の外へ出す麦だからな」
「はい」
ノアは、銅貨を数えて渡した。
手元には、ほとんど何も残らなかった。
麦の袋を受け取りながら、ノアは聞いた。
「ロルフさんは」
「陣だ」
ベルントは、少し苦い顔をした。
「最近、陣に呼ばれる若い者が増えた。見張りだの、荷運びだの。西の方へ荷を運ぶと言っておったが、詳しいことは知らん」
ノアは、頷いた。
◇ ◇ ◇
夜。
ミラが、麦の袋をもう一度数えた。
「これで、あと……十日」
焚き火のそばで、誰も何も言わなかった。
数日前に数えた時と、同じ数字だった。
減った分が、戻っただけだった。
ノアは、台帳を開いた。
宿帳の頁。
――泊まり 三組
その下は、まだ空いていた。
麦は、収穫まで届かない。
銅貨は、また減った。
飼い葉は、二頭分より少しだけ減って残っている。
何も、解決していなかった。
ノアは、台帳を閉じた。
それから、屋根の作り方を書いた紙を開いた。
裏には、道のことが並んでいた。
西街道。
橋。
丘の下の道。
ローデン村の脇道。
西の領主たち。
見回り。
南の川。
古い橋。
岩場。
北へ上がる荷車。
少し考えてから、ノアはもう一行書き足した。
――西 兵が増えているらしい
戦が始まる、と思ったわけではなかった。
ただ、西はしばらく、通りにくそうだと思った。
ノアは、紙を折って懐にしまった。
宿帳の行は、増えなかった。
だが、別の紙の行だけが、増えていた。




