第10話 灯なき地図
地図は、同じものだった。
降った砦の一室。
同じ机に、同じアルネア大陸の地図が広げられている。
違うのは、印の数だった。
以前は北東の一角に固まっていた印が、今は南へ、東へと、目に見えて広がっている。
橋が落ちていた間、軍は止まっていたわけではなかった。
北東の残りを降らせ、南の砦を開かせ、周りの村々から使者を受けた。
西へ向かう前に、背後を片付けていた。
側近が、西街道の上に置いていた小さな印を、指でつまんで外した。
「西街道の橋、復旧しました」
男は地図を見たまま言った。
「西は」
「動いております」
同じ問いだった。
答えだけが、変わっていた。
「荷車は、もう渡れるか」
「はい。兵糧を積んだまま、渡れます」
男は、頷いた。
一人で渡るだけなら、橋はいらない。
だが、兵は食う。
馬も食う。
西へ入って戦を続けるには、荷車の列が要る。
その列が、ようやく渡れるようになった。
◇ ◇ ◇
側近が、地図の西側に印を置いていく。
一つ。
二つ。
また一つ。
「王国が崩れてから、それぞれ勝手に動いていた西の領主たちが、集まり始めております」
「一つの国になったのか」
「いいえ。まだ、ばらばらです」
側近は、印を指しながら続けた。
「兵を出している家があります。兵は出さず、麦と馬だけを出している家もあります。どちらにつくか、まだ決めていない家もあります。強く戦を唱えているのは、ほんの数家です」
「それでも、集まっている」
「はい。獅子をこれ以上、西へ入れない。その一点だけは、揃えてきております」
「数は」
「今のところは、こちらが上です。ですが、放っておけば、まだ増えます」
◇ ◇ ◇
男は、地図の南へ目を移した。
「南は」
「旧王国の領主が、それぞれ城に籠もっております。都市の中には、自分たちで兵を集め始めたところもあります」
「王都は」
「何も出ておりません。命令も、使者も」
別の将が、地図の端を指で叩いた。
「南西の方では、王国の残兵が、どこかの領主に拾われたと聞きます。誰の旗の下にいるのかまでは、分かっておりません」
側近は、地図の上の境界線を見た。
王国があった頃は、線は少なかった。
今は、どこを見ても線が引かれている。
引き直された跡が、何本も重なっている。
「全員が従う先が、もうありません」
側近は言った。
「それぞれが、それぞれの旗を立てております」
◇ ◇ ◇
窓の外は、夜だった。
晴れた夜だった。
かつてなら、この時刻には、地平のどこかに光が見えた。
誰も、わざわざ見上げはしなかった。
そこにあるのが、当たり前だったからだ。
今は、ない。
どの方向を見ても、ない。
将の一人が、窓の外から地図へ目を戻した。
慎重な男だった。
「……次の大灯が定まるまで、待つという考えもございます」
誰も、笑わなかった。
「灯が戻れば、大陸はまた落ち着きます。次に灯した者のもとへ、自然と人は集まるでしょう。そうなってから動けば、いらぬ血を流さずに済むかもしれません」
男は、将を見た。
「いつだ」
将は、口を開きかけた。
閉じた。
次の灯が、いつか必ず灯る。
それは、誰でも知っている。
だが、それがいつなのかは、誰も知らない。
来年か。
十年後か。
誰が灯すのかも、分からない。
部屋の中で、誰も答えなかった。
男は、地図に目を戻した。
◇ ◇ ◇
「では」
慎重な将が、言い方を変えた。
「今は北東を固めるべきかと存じます。降った土地は、まだ落ち着いておりません。西とは使者を往復させ、降伏の話を続けながら、兵糧を貯める。そうすれば、兵の損は減らせます」
筋の通った話だった。
誰かが頷いた。
男は、将の顔を見た。
馬鹿にする色は、なかった。
「どれだけかかる」
「……一月。いや、二月は見ていただきたい」
「西がまとまりきるまで、ではなく」
「こちらの兵糧が、十分に揃うまで、です」
「遅い」
それだけだった。
声は荒げなかった。
苛立った様子も、なかった。
将は、それ以上言わなかった。
言っても変わらないことが、分かったらしかった。
部屋にいる誰もが、同じことに気づいていた。
この男は、西に勝てるかどうかを聞いていない。
何日かかるかを、聞いている。
◇ ◇ ◇
西の話が続いていた。
途中で、男が不意に言った。
「海は」
側近は、一瞬だけ手を止めた。
それから、別の報告書をめくった。
「今のところ、大きな動きはございません。こちらへ向かう船団も、確認されておりません」
「そうか」
男は、それ以上は聞かなかった。
側近は、報告書を元の束に戻した。
西の話に戻る。
誰も、なぜ今海の話が出たのかを、尋ねなかった。
◇ ◇ ◇
「それと」
側近が、束の最後から一枚を抜き出した。
「空白地の件、その後です」
男の目が、地図の一点へ動いた。
広がった印のすぐ脇で、そこだけ、何も置かれていない小さな土地。
「まだいるのか」
「はい。九人、住み続けております」
側近は、紙を読み上げた。
「ローデン村との水の取り決めは、続いております。旅の者を泊める場所を作ったそうです。見回りの兵が、馬に水と飼い葉をやる場所として使っております」
「兵は」
「おりません」
「砦は」
「ありません。屋根が三つと、畑です」
男は、その小さな土地を、もう一度見た。
一度だけだった。
「なら、放っておけ」
側近は頷き、紙を束の一番下へ戻した。
◇ ◇ ◇
「西に戻る」
男が言った。
側近が、印の横に数字を書いた紙を置いた。
「集まっている兵は、合わせて――」
「誰がまとめている」
側近の言葉が、途中で止まった。
「……一人の王は、おりません。有力な家が何家か、話し合いながら動いております」
「全員、戦いたいのか」
側近は、少し考えた。
地図の上の印を、一つずつ見た。
「……いえ」
「どう違う」
「本気で、こちらを止めたい家があります。周りが戦うと言うから、兵を出している家もあります」
側近は、指を順に動かした。
「自分だけ先に降れば、裏切り者と呼ばれる。それを恐れている家があります。降った後、どう扱われるか分からないから、降れない家もあります。西が勝つと本気で思って加わった家も、あるにはあります」
「同じ理由では、集まっていないな」
「はい」
男は、地図の上の印を眺めた。
地図の上では、一つの大きな軍に見えた。
男には、そうは見えていないようだった。
「違う理由で集まった者は、同じ条件では、最後まで並んでいられん」
◇ ◇ ◇
「使者を出せ」
男は言った。
「西の、全部の家に。同じ文面でいい」
側近が、紙と筆を取った。
「軍が着くまでに、武器を置き、旗を降ろした者には、手を出さん」
筆の音がした。
「降った兵にも、領民にも、こちらの兵が報復することは許さん」
「……こちらの兵が、ですね」
「こちらの兵が、だ」
側近は、その言葉をそのまま書いた。
「それ以降、武器を持って立っている者は、敵として扱う」
男は、それだけ言って黙った。
側近は、書き終えた紙を読み返した。
戦わずに済む道が、一本だけ引かれていた。
降れば、殺されない。
土地も、民も、戦場にならずに済むかもしれない。
降った領主は、負けたからではなく、民を戦に巻き込まないために武器を置いたのだと、言うこともできる。
だが、そこから先のことは、何も書かれていなかった。
降った後、周りの家からどう見られるか。
武器を置いた兵たちが、どこで暮らすのか。
隣の領主と、その後どう付き合うのか。
書かれているのは、今ここで武器を置けば殺さない。
そこまでだった。
◇ ◇ ◇
「それだけで、降りますか」
側近が聞いた。
「全員は降りん」
男は答えた。
当たり前のことを言う声だった。
「戦いたくない者まで、まとめて敵にする理由はない。抜けたい者には、抜ける口を開けておけばいい」
「西の中で、揉めましょう」
「揉めさせておけ」
男は、地図から目を離さなかった。
降りたい者がいる。
降れば裏切り者だと言う者がいる。
民を守るべきだと言う者がいる。
獅子など信用するなと言う者がいる。
その言い争いに、男は加わるつもりがなかった。
選ぶ道を置く。
選ぶのは、相手だ。
◇ ◇ ◇
別の将が、地図の西の奥を指した。
「条件を出しても、この家は降らないでしょう。先の戦で、当主の息子が討たれております」
「他には」
「降るくらいなら死ぬ、という家風の家が一つ。それと、こちらと何度も剣を交えてきた者が、何人か」
損得では、武器を捨てない者たちだった。
「それでいい」
男は言った。
説き伏せるつもりは、なかった。
条件で動く者は、自分で降りる。
それでも残る者は、倒す。
◇ ◇ ◇
男が、椅子から立ち上がった。
側近たちも、一斉に立った。
扉へ向かいかけた男の背中に、側近が声をかけた。
「陛下」
男が、足を止めた。
「使者の返答は、待ちますか」
「待たん」
男は振り向かなかった。
「使者と一緒に、軍も出す」
扉が開いた。
降りる機会は、与える。
選ぶ道も、置いていく。
だが、相手が決めるまで、自分の時間を止めるつもりはない。
それが、この男のやり方だった。
◇ ◇ ◇
夜が明けた。
直ったばかりの西街道の橋を、騎兵が渡っていく。
歩兵が続く。
荷車が続く。
兵糧を積んだ荷車が、何台も、何台も、車輪の音を響かせて渡っていく。
使者の馬が、その列を追い越して、先へ駆けていった。
橋が落ちていた間、荷車の流れは、ローデン村の脇道へ逸れていた。
橋が直り、その流れは元の街道へ戻った。
そして今、その街道を、別の列が埋めていた。
長い、長い列だった。
西へ。
列の半ばで、男は馬上から、渡り終えた橋を一度だけ振り返った。
それから、前を向いた。
「行くぞ」




