第11話 武器を置くまで
使者は、一枚の紙を読み上げた。
「軍が着くまでに、武器を置き、旗を降ろした者には、手を出さん」
西の領主たちが集まった天幕の中で、誰も口を挟まなかった。
「降った兵にも、領民にも、こちらの兵が報復することは許さん」
「それ以降、武器を持って立っている者は、敵として扱う」
使者は紙を畳み、一礼した。
返事を求める言葉は、なかった。
使者が天幕を出ていった後、入れ替わるように斥候が駆け込んできた。
「獅子の軍勢が、橋を越えました」
天幕の空気が、変わった。
「……もうか」
「荷車の列が、途切れません。兵糧を積んだまま、こちらへ向かっております」
軍が着くまでに。
その「まで」が、今この瞬間も縮んでいた。
◇ ◇ ◇
最初に口を開いたのは、東寄りに領地を持つ中年の領主だった。
「降るべきだ」
何人かが、顔を上げた。
「勝てるかどうかの話ではない。勝ったとして、何人死ぬ。うちの村は、この先の街道沿いにある。戦場になれば、畑も家も踏み潰される」
「今ここで旗を降ろせば、西を売った裏切り者だ」
すぐに、別の声が返った。
「一家抜ければ、残った家の負担が増える。二家抜ければ、陣が組めなくなる。あんたの村は助かるかもしれんが、その分、他の村が死ぬ」
「それは――」
「待て」
三人目が、使者の置いていった紙の写しを指で叩いた。
「ここを読め。『こちらの兵が』報復しない、としか書いていない」
天幕の中が、静かになった。
「降った後、他の家からどう扱われるかは、何も書いていない。武器を置いた兵をどう食わせるかも書いていない。獅子は、自分の兵が手を出さないと言っているだけだ」
「嘘は書いていない、ということだろう」
「嘘がないから、信用できんのだ。書いていないことは、何も約束していない」
誰も、言い返さなかった。
その不安を、誰も否定できなかった。
天幕の奥で、それまで黙っていた老いた領主が、ゆっくりと立ち上がった。
「俺の息子は、武器を持っていたから死んだ」
全員が、老領主を見た。
北東の砦で、息子は最後まで剣を置かなかった。
獅子の軍律に従えば、当然の結果だった。
老領主も、それは分かっていた。
「……だから何だ」
声は低かった。
「今度は俺に、武器を置けと言うのか」
誰も、答えなかった。
◇ ◇ ◇
議論は、夜になってもまとまらなかった。
月が高くなった頃、東寄りの領主が席を立った。
「うちは降りる」
誰も止めなかった。
止める言葉を、誰も持っていなかった。
「西を売るつもりはない。獅子に付くつもりもない。ただ、この戦からは降りる。領地へ戻って、旗を降ろす」
領主は、それだけ言って天幕を出た。
少しして、もう一人が立った。
南寄りの、麦と馬を出していた家の当主だった。
「兵は引く。麦も馬も、もう出さん」
「お前まで」
「うちは、もともと戦うために来たわけではない。周りが戦うと言ったから、出しただけだ」
当主は、老領主の方を一度だけ見た。
「……すまん」
二つの家が、夜のうちに陣を引き払った。
どちらも、獅子の側へ寝返ったわけではなかった。
元の仲間に、剣を向けたわけでもなかった。
ただ、この戦から降りた。
◇ ◇ ◇
夜明け前。
残った領主たちは、布陣を組み直そうとしていた。
もともとの手はずでは、東寄りの家が左翼を持つはずだった。
南寄りの家が、麦と替えの馬を後ろから送るはずだった。
左翼に、穴が空いている。
届くはずの麦の荷車が、来ない。
馬の数も、足りない。
「中央から兵を回せ。左を埋めろ」
「中央が薄くなるぞ」
「なら予備を――」
天幕の幕が跳ね上がった。
斥候が、息を切らして立っていた。
「獅子が、来ます」
誰かが、呟いた。
「……もう、か」
◇ ◇ ◇
丘の上に、獅子の軍が並んでいた。
側近が、地図から印を二つ外した。
「一家が旗を降ろしました。もう一家は兵を引き、麦も馬も止めております」
西の勢力を示す印が、一晩で目に見えて減っていた。
男は、平原の向こうに並ぶ西の陣を見ていた。
「残りは」
「戦うと」
「そうか」
それだけだった。
勝ち誇る様子は、なかった。
降りる者は、降りた。
残ったのは、条件を読んで、それでも戦うと決めた者たちだった。
◇ ◇ ◇
西の陣は、城に籠もっていなかった。
平原に、柵が幾重にも立てられていた。
浅い堀が掘られ、その後ろに盾の列が並んでいる。
弓兵は一ヶ所に固まらず、柵ごとに少しずつ散らばっていた。
魔法兵も同じだった。
城門を一撃で吹き飛ばす男がいることは、西にも届いていた。
矢も魔法も、あの男には通らないことも。
だから城には籠もらない。
壁ごと壊されるからだ。
あの男を止めようとも、していなかった。
止めようとしていたのは、その後ろに続く軍だった。
柵で馬を止め、堀で歩兵を止め、散らした弓で削る。
一日でも、半日でも、時間を稼ぐ。
悪い陣ではなかった。
ただ、左が薄かった。
「左が薄い」
獅子の側の将が、丘の上から指差した。
「急いで埋めた跡があります。旗の数に比べて、兵が少ない」
男も、同じところを見ていた。
「騎兵を回せ」
騎兵の一隊が、丘を回り込んで左へ走った。
西の陣が、それに応じて動いた。
中央の兵が、左へ引き抜かれていく。
中央の盾の列が、また一段薄くなった。
男は、馬を降りた。
◇ ◇ ◇
男が、平原へ歩き出した。
一人だった。
剣は、まだ鞘の中にあった。
「来たぞ!」
「一人だ、獅子一人だけだ!」
「構うな、後ろの軍を見ろ! 柵から離れるな!」
西の指揮官たちの声が、柵から柵へと飛んだ。
それでも、弓兵たちの目は、平原を歩いてくる一人の男から離れなかった。
前列のどこかから、声が上がった。
「――放て!」
柵ごとに散った弓兵が、一斉に弦を鳴らした。
右から。
左から。
正面から。
何百本もの矢が、斜めに空を裂いて、一点へ集まっていく。
横殴りの雨のような音がした。
男は、歩調を変えなかった。
矢は、男の肩の手前で折れた。
胸の手前で、砕けた。
額の前で、弾けて逸れた。
折れた矢羽根が、男の歩いた跡に、雪のように散っていく。
一本も、刺さっていない。
「……当たってるだろ、今の」
弓兵の一人が、弦を引いたまま呟いた。
「当たってる、はずだ……」
「魔法兵、合わせろ!」
柵のあちこちで、詠唱が重なった。
火球が、三つ、四つ、弧を描いて落ちてくる。
最初の一つが、男の足元で弾けた。
地面がめくれ上がった。
土と石が噴き上がり、炎が柱になって立ち昇る。
二つ目。
三つ目。
爆ぜる音が続けざまに平原を叩き、熱風が、柵の後ろの兵たちの頬を打った。
土煙が、男のいた場所を丸ごと呑み込んだ。
誰も、声を出さなかった。
煙が、ゆっくりと流れていく。
その灰色の奥から、足音が聞こえた。
さっきと、同じ速さの足音だった。
煙を割って、男が出てきた。
外套の端が、少しだけ焦げていた。
それだけだった。
「……止まらない」
◇ ◇ ◇
最初の柵の前で、男が剣を抜いた。
太い丸太を地面に打ち込み、横木を三段に渡した柵だった。
馬が体当たりしても、揺れもしない。
その向こうで、盾を構えた兵が息を呑んだ。
男が、剣を横に振った。
音が、遅れて来た。
支柱が、根元から折れた。
横木が三段まとめて砕け、破片が柵の後ろへ吹き飛んだ。
木片が盾に当たって跳ね、さらに後ろの弓兵の列まで届いた。
柵が一枚、丸ごと消えていた。
「柵が――」
「下がれ! 次の柵まで下がって撃て!」
男は、もう次の柵の前にいた。
二枚目が砕けた。
三枚目も。
柵が並んでいた場所に、一本の道が開いていく。
男は、その上をまっすぐ歩いてくる。
◇ ◇ ◇
堀の手前で、盾の列が待っていた。
盾と盾を重ね、隙間から槍を突き出した、三列の壁。
一列目が膝をつき、二列目が盾を掲げ、三列目が肩越しに槍を構える。
堀の向こうで、隊長が叫んだ。
「来るぞ、踏ん張れ! 押し返せ!」
堀は、助走なしで跳び越えるには、広すぎる幅があった。
男は、走らなかった。
堀の縁で、一歩、踏み込んだ。
それだけで、男の体は堀の上にあった。
盾の列の兵たちには、そう見えた。
跳んだところを、誰も見ていなかった。
気がついた時には、男はもう堀のこちら側に立っていた。
槍の穂先の、すぐ目の前に。
「突け――」
男の剣が、横に走った。
一列目の盾が、まとめて弾け飛んだ。
盾を持っていた兵ごと、後ろへ倒れ込む。
その背中に押されて、二列目が崩れた。
二列目が倒れた勢いで、三列目の槍が一斉に空を向いた。
三つの列が、一度の剣で、将棋倒しになっていた。
男は、倒れた兵たちの間を歩いていった。
誰にも、剣を向けなかった。
盾を捨てて逃げる兵が、男のすぐ横を走り抜けていく。
男は、そちらを見もしなかった。
「中央だ! 指揮所へ向かってるぞ!」
「止めろ! 旗を守れ!」
いくつもの声が上がった。
槍を構え直し、男の前に立ちはだかろうとする兵がいた。
男が一歩進むと、その兵は、槍を構えたまま後ろへ下がった。
もう一歩進むと、道を空けた。
男は、止まらなかった。
平原に、男が歩いてきた跡だけが、一本の線になって残っていた。
砕けた柵。
割れた盾。
折れた矢。
焦げた土。
その線は、まっすぐ西の陣の奥へ伸びていた。
指揮所の幕。
西の旗。
陣を一つにまとめている、その場所だけへ。
◇ ◇ ◇
老領主は、指揮所の前に立っていた。
周りの者が、下がれと叫んでいた。
老領主は、下がらなかった。
剣を抜いた。
自分が武器を置けば、息子が武器を持って死んだことの意味まで、なくなる気がした。
損得の話では、なかった。
男が、指揮所の前に来た。
老領主は、剣を振り上げて踏み込んだ。
男は、何も言わなかった。
説き伏せる言葉も、降れと告げる言葉も、なかった。
剣が、一度だけ振られた。
老領主が倒れた。
その後ろで、西の旗が、支柱ごと折れて地に落ちた。
◇ ◇ ◇
旗が落ちたのを、平原中の兵が見ていた。
誰かが、剣を落とした。
隣の兵が、槍を手放した。
一人、また一人と、西の兵たちが膝をついていく。
獅子の兵の一人が、逃げかけた兵へ剣を振り上げた。
「武器を捨てた! 追うな!」
叫んだのは、隣にいた獅子の兵だった。
剣を振り上げた兵は、はっとしたように腕を下ろした。
同じ声が、平原のあちこちで上がっていた。
「捨てた奴には触るな!」
「そいつはいい、次だ!」
男は、何も命じていなかった。
命じる必要がなかった。
日が中天に届く前に、戦は終わった。
死者は、出た。
だが、二つの軍が正面からぶつかり続けていれば出たはずの数とは、比べものにならなかった。
◇ ◇ ◇
戦が終わっても、報告は終わらなかった。
「捕虜は、まとめて見張りをつけております。夕方には縄を解きます」
「負傷者は、西の者もこちらで手当てを」
側近が、次の紙をめくった。
「戦から降りた二家の境で、揉め事が起きております。片方が、もう片方を裏切り者と呼んでおります」
「解いた兵の一部が、帰る先がないと言っております」
「戦場を避けて村を出た者たちが、街道へ出始めております。東へ向かっているようです」
「西へ向かう商人が、道を変えております。西街道は、こちらの軍列と荷車で塞がっておりますので、以前の脇道の方へ回っているようです」
男は、一つずつ聞いていた。
聞き流しては、いなかった。
「報告を上げろ。境の揉め事は、近くの降った家に預けておけ」
「兵と、村の者は」
「後ろに回せ」
側近は頷き、紙を束に戻した。
それから、少しだけ間を置いて言った。
「兵が散れば、行き場のない者が出ます」
「分かっている」
「では」
「一人ずつ拾っていたら、間に合わん」
男は、もう西の地図を見ていた。
◇ ◇ ◇
平原の端。
縄を解かれた捕虜の中に、ロイという男がいた。
西の軍の、小隊長だった。
最後まで柵の後ろで戦っていた。
旗が落ちた時、部下たちと一緒に剣を置いた。
獅子の兵は、約束通り、誰も殺さなかった。
縄も、夕方には解かれた。
約束は、何一つ破られていなかった。
ロイは、首から下げた小さな木札を握っていた。
村を出る時に持たされた、村の印が焼きつけてある札だった。
兵に取られる者は、みんな持たされる。
帰ってきた時に、どこの誰かが分かるように。
ロイは、縄を解いていた獅子の兵に聞いた。
「……俺の村の者は、どこにいる」
兵は、困った顔をした。
「村?」
「平原の南の、川沿いだ。戦が来る前に、村の者は逃げたと聞いた」
「ああ、あの辺りの連中なら、みんな東へ行った。どこまで行ったかまでは知らんが」
「東の、どこだ」
「知らん」
兵は、ロイの手元の木札を見た。
悪意のある声では、なかった。
「生きてるんだ。探せばいい」
それだけ言って、兵は次の捕虜の縄へ移っていった。
ロイは、その場に立っていた。
仕えていた主は、指揮所の前で倒れた。
軍は、もうない。
給金も、もう出ない。
剣は、置いた。
村の者は、東のどこかにいる。
命は、助かった。
それは、分かっていた。
ロイは、木札を握り直した。
「……どこへ行けばいい」
誰も、答えなかった。
◇ ◇ ◇
翌朝。
獅子の軍は、西へ向かって動き出した。
騎兵が続く。
歩兵が続く。
兵糧を積んだ荷車が、長い列になって続いていく。
その列とは反対の方向へ、別の流れができていた。
村を出た者たちが、荷を背負って東へ歩いていく。
家族の手を引いた者。
牛を連れた者。
何も持たない者。
西へ向かうはずだった商人の荷車が、軍列を避けて街道を外れ、丘の方の脇道へ折れていく。
剣を持たない男たちが、行き先も決めずに、ばらばらと街道を歩いていた。
その中に、首から木札を下げた男が一人、混じっていた。
戦は、終わった。
終わった戦から、人が流れ出していく。




