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第12話 九人の名前

朝の仕事が始まる前。


ノアは小屋の前に座って、平たい木切れに炭で字を書いていた。


横に、ニルとリゼが並んでしゃがんでいる。


紙は使わない。


紙は、道のことと麦のことを書くので手一杯だった。


ノアは、木切れの上に二つの名前を並べて書いた。


「こっちがニル。こっちがリゼ」


ニルが、身を乗り出した。


「これが、僕の名前?」


「そう」


「もう一回書いて」


ノアは、もう一度書いた。


ニルは、その横に炭で同じ形を真似た。


線が歪んでいる。


一つは、向きが逆だった。


「ここ、反対」


ノアが指差すと、ニルは黙って手で擦って消し、書き直した。


今度は、向きが合っていた。


「これ読めたら、ノアの紙も読める?」


「読めるようになれば」


「じゃあ、覚える」


ニルは、もう一度最初から書き始めた。


◇ ◇ ◇


リゼも、最初は兄の横で真剣だった。


自分の名前を書いてもらって、嬉しそうに木切れを覗き込む。


一文字目を真似る。


二文字目の途中で、リゼの目が横へ逸れた。


地面を、小さな虫が歩いていた。


「リゼ」


ノアが呼ぶ。


「聞いてるよ」


リゼの目は、虫を追っていた。


「聞いてないだろ」


ニルが怒った。


「聞いてるってば」


リゼは虫を指でつつきながら言った。


ノアは、何も言わずに二文字目をもう一度書いた。


◇ ◇ ◇


少し離れたところで、ミラが豆を選っていた。


笊の中の豆を指で転がし、割れたものと虫食いを脇へ避けていく。


手は止めずに、耳だけこちらへ向いていた。


リゼが、虫から顔を上げた。


「ミラは?」


「何が?」


「ミラも書く?」


ミラの指が、一瞬止まった。


「書かないよ」


ニルが振り返った。


「もう知ってるの?」


「知らない」


子供二人が、目を丸くした。


大人なのに字を知らない、という考えが、二人にはまだなかったらしい。


ミラは、また豆を転がし始めた。


「読めなくても、今までちゃんと働いてたし」


恥ずかしがる様子は、なかった。


ノアも、何も付け足さなかった。


リゼが言った。


「じゃあ、一緒にやればいいのに」


「なんで私まで授業受けることになってるの」


「だって、知らないんでしょ」


「知らなくても困ってないの」


ミラはそう言って、割れた豆を一粒、脇へ弾いた。


◇ ◇ ◇


「ニル」


畑の方から、ダグの声がした。


「手が空いたなら、こっちを手伝え」


ニルが、ぱっと立ち上がった。


「まだ途中だけど」


ノアが言うと、ニルは木切れを地面に置いた。


「あとでやる」


それだけ言って、畑へ走っていった。


ニルの仕事は、畑から掘り出された小石を拾って、端へ運ぶことだった。


大人の半分の石も持てない。


それでもニルは、一つ運ぶたびに走って戻ってきた。


少し大きな石に、ニルが両手をかけた。


「それは置いとけ」


ダグが言った。


「持てるよ」


「持てるかどうかじゃない」


ダグは鍬を置き、その石を自分で持ち上げて、端へ運んだ。


ニルは、口を尖らせた。


横で土を返していたトビが、ぼそりと言った。


「俺も、昔そう言われた」


「お前は、今でもだ」


ダグが、振り返りもせずに言った。


「もう十九だ」


「知ってる」


ダグは、次の石を持ち上げた。


トビは、何か言い返そうとして、やめた。


鍬を持ち直して、土に戻った。


◇ ◇ ◇


昼前。


トビは畑を抜けて、客用の小屋の横へ回っていた。


飼い葉の束を数え、馬を繋ぐ杭の縄を確かめ、水桶の底を覗く。


開拓地に、自分たちの馬はいない。


それでもトビは、毎日ここを見に来た。


リゼが、後ろからついてきた。


「馬、今日来る?」


「知らない」


「じゃあ、なんでやってるの?」


トビは、杭に巻いた縄を締め直した。


「来てからじゃ、遅いから」


リゼは、少し考えた。


「ノアみたい」


「……そうか?」


「ノアも、分かんないのに飼い葉買ってた」


トビは、少しだけ口の端を上げた。


「馬はな、急に来て、急に水を欲しがる。走ってきた後は、すぐ飲ませる。好きなだけだ」


「お腹、こわさない?」


「村の年寄りは、体が熱いうちは飲ませるなって言ってた。でも、飲ませなかった馬の方が、よっぽど弱った」


「じゃあ、年寄りが間違ってたの?」


「……俺の見た馬は、そうだった」


トビは、水桶の縁を指で叩いた。


「だから、桶はいつも満たしとく」


リゼは、空の杭を見上げた。


「来たら、見てもいい?」


「蹴られない場所からならな」


トビは、大人と話す時よりずっと長く喋っていた。


本人は、気づいていないようだった。


◇ ◇ ◇


小屋の陰では、ハンナが服を繕っていた。


膝の上に、破れた上着が広げてある。


その横に、もっと古い布が置かれていた。


ハンナは、古い布から小さな四角を切り取り、上着の破れに当てて縫いつけていく。


ミラが、豆の笊を抱えて通りかかった。


「それ、まだ使える?」


「使えるようにするの」


ハンナは針を止めずに答えた。


布は、増えない。


糸も、増えない。


破れたものを繕うために、もっと古いものを切る。


それを繰り返して、一枚でも長く着る。


ミラは、しばらくハンナの手元を見ていた。


「……豆、今日の分と明日の分、分けとく?」


「そうして。明日の方を、少し多めに」


「逆じゃなくて?」


「明日の方が、仕事が重いから」


ミラは頷いて、豆を二つの袋に分け始めた。


◇ ◇ ◇


トビが、飼い葉の方から戻ってきた。


ハンナが顔を上げた。


「トビ。袖」


トビは、自分の袖を見た。


肘のところが、裂けていた。


「脱いで。直すから」


「まだいい」


「広がるよ」


トビは、少し黙った。


ダグなら「いいから脱げ」で済む話だった。


ハンナは、それを言わなかった。


「……今は、畑があるから」


「じゃあ、夜までに持ってきて」


「……分かった」


トビは、裂けた袖を押さえて、畑へ戻っていった。


ハンナは、その背中を少しだけ見送ってから、針に目を戻した。


◇ ◇ ◇


ゲルトは、小屋の脇で石を積んでいた。


小屋の裏に、雨水が流れ込まないようにするための、膝ほどの高さの石積みだった。


ニルが、石拾いの合間に見に来た。


「これ、何になるの?」


「石だ」


「それは分かるよ」


「なら、十分だ」


ニルは不満そうな顔をしたが、立ち去らなかった。


ゲルトは、手の中の石を回していた。


置く。


少し眺める。


持ち上げて、向きを変える。


また置く。


三度目で、石は隣の石にぴたりと収まった。


通りかかったノアが、足を止めた。


「そんなに違うんですか」


「違うから、積むんだ」


ゲルトは、次の石を手に取った。


「前の村じゃ、もっといい石があった」


それだけだった。


ゲルトは、また石を回し始めた。


◇ ◇ ◇


昼を過ぎた頃。


ゲルトが、石を置いたところで手を止めた。


左の脚を、軽くさすっている。


それから、ゆっくりと石積みの端に腰を下ろした。


少しして、また立ち上がろうとした。


「今日は、そこまで」


エルマが、洗った椀を抱えたまま言った。


「まだ昼だぞ」


「明日もあるよ」


ゲルトが、眉をひそめた。


「お前は、毎回それを言うな」


「毎回立つからでしょ」


ゲルトは、何か言い返しかけた。


それから、脚をさすりながら、もう一度腰を下ろした。


「……石を、そこへ寄せておいてくれ。明日すぐ積めるように」


「それはニルにやらせる」


エルマはそう言って、椀を抱えて小屋へ入っていった。


◇ ◇ ◇


昼の食事は、薄かった。


エルマは鍋の前に立つと、まずニルとリゼの椀を取った。


少ない鍋から、二人の分をよそう。


大人の椀より多くはない。


だが、少なくもなかった。


ニルが、自分の椀を見て言った。


「僕は、少なくていい」


「駄目」


エルマは、即答した。


普段、大きな声を出すことのない人だった。


「……でも、大人は働いてるから」


「ニルも働いてたでしょ。石、運んでた」


ニルは、何も言えなくなった。


ノアは、少し離れたところで、自分の椀を持っていた。


減らすなら大人から、という話が、エルマの顔にはっきり書いてあった。


ノアは、何も言わずに椀の粥をすすった。


◇ ◇ ◇


夕方。


ニルが、朝の木切れを持ってノアのところへ来た。


炭の跡が、何度も書き直されて黒くなっている。


その真ん中に、朝よりずっと形の整った字があった。


「読める?」


ノアは、木切れを受け取って見た。


「読める。ニル」


ニルの顔が、明るくなった。


「これで、手伝える?」


「まだ、僕の紙は読めない」


ニルの肩が、少し落ちた。


「でも、自分の名前は書ける」


ニルは、木切れの字を見下ろした。


しばらく、そのまま見ていた。


横から、リゼが覗き込んだ。


朝、二文字目の途中で虫に行ってしまった妹だった。


リゼは、木切れの隅に残っていた朝の字の一つを、指で差した。


「これ、リゼの」


ニルが、振り向いた。


「……覚えてたの?」


「うん」


「じゃあ、こっちは?」


ニルが、次の字を指した。


リゼは、しばらく首を傾げた。


「……わかんない」


「なんで一個だけ覚えてるんだよ」


「一個覚えたもん」


「一個だけだろ」


「一個はすごいもん」


兄妹が、木切れを挟んで言い合いを始めた。


ノアは、それを止めなかった。


◇ ◇ ◇


言い合いに飽きたリゼが、今度はノアを見上げた。


「じゃあ、ミラは?」


ノアは、木切れの空いたところに、炭で書いた。


「これが、ミラ」


鍋の支度をしていたミラが、手を拭きながら寄ってきた。


木切れを覗き込む。


読めない。


形を、じっと見ていた。


「……これが、私?」


「そう」


「思ったより、細いね」


「字に太いも細いもないよ」


「あるでしょ、見た感じ」


リゼが、ミラの袖を引いた。


「覚えた?」


「たぶん」


ニルが疑わしそうに言った。


「本当に?」


「たぶんって言ってるでしょ」


ミラは、鍋の方へ戻っていった。


戻る途中で、一度だけ振り返って、木切れを見た。


◇ ◇ ◇


日が落ちて、九人で鍋を囲んだ。


中身は、相変わらず薄かった。


「切り詰めて、あと八日」


鍋をかき混ぜながら、ミラが言った。


見回りの兵が寄る日は、前より増えた。


飼い葉と引き換えに置いていく銅貨で、ローデン村から冬に響かない分の麦を、少しずつ買っている。


減り方が、ゆっくりになっただけだった。


収穫には、まだ届かない。


それでも、座る場所は決まっていた。


ダグは、畑に一番近い側。


その隣に、ハンナ。


トビは、少し離れて、飼い葉の小屋が見える位置。


エルマの両側に、ニルとリゼ。


リゼは途中で立ち上がって、ミラの隣へ移った。


誰も、何も言わなかった。


ハンナが、椀を取った。


最初によそったのは、ゲルトの椀だった。


「……俺は後でいい」


「知ってる」


ハンナは、そのままゲルトの前に椀を置いた。


ゲルトは、しばらく椀を見ていた。


エルマが、横から言った。


「食べて。見てるから」


「……見るな」


「見てる」


ゲルトは、観念したように椀を持ち上げた。


ダグが、トビに言った。


「明日、北の端の石も起こすぞ」


「分かった」


「朝一番で、鍬を――」


「あなた」


ハンナが、静かに言った。


「トビ、袖がまだ」


ダグが、トビの袖を見た。


トビは、裂けた袖を押さえた。


「……食べたら、持ってく」


ニルが、ノアの袖を引いた。


「明日、次の字教えて」


「どの字?」


「ダグ」


畑側で、ダグが咳き込んだ。


◇ ◇ ◇


ニルが、粥をすすりながら聞いた。


「前の村には、字を教えられる人、いなかったの?」


ダグが、椀を置いた。


「いたにはいた。お前が遊んで逃げてただけだ」


「覚えてない」


「小さかったからね」


ハンナが言った。


ゲルトが、ぼそりと言った。


「俺も、読めん」


ミラが、ゲルトの方へ椀を少し掲げた。


「仲間」


ゲルトは、ほんの少しだけ、鼻を鳴らした。


笑ったのかもしれなかった。


それ以上、前の村の話は出なかった。


◇ ◇ ◇


夜。


子供たちが寝た後、ノアは焚き火の明かりで紙を開いた。


麦。


飼い葉。


道。


泊まり。


西のこと。


一番新しい行は、数日前に来た見回りの兵から聞いたことだった。


――西 大きな戦 一日で終わったらしい


ノアは、紙を閉じた。


足元に、朝の木切れが立てかけてあった。


炭で何度も書き直した、黒い跡。


その真ん中に、少し歪んだ字がある。


ニル。


ノアは、しばらくそれを見ていた。


台帳には、九人と書いてある。


一日あたりの麦を、九で割る。


それで、帳場の計算は済む。


焚き火の向こうで、トビが裂けた袖の上着をハンナに渡していた。


ゲルトは、左脚を伸ばして、石積みにもたれて眠っていた。


リゼは、ミラの毛布に潜り込んでいた。


ノアは、木切れを小屋の壁に立てかけ直した。


◇ ◇ ◇


翌朝。


ミラが、洗った椀を並べていた手を止めた。


「ノア」


ノアは顔を上げた。


「誰か来る」


丘の上に、人影があった。


一人に見えた。


違った。


二人。


三人。


その後ろに、まだいる。


荷を背負った者。


子供の手を引いた者。


杖をついた者。


列の後ろには、荷車が一台混じっていた。


途中で一緒になったのか、商人らしい男が、牛に車を引かせている。


旅の一行とは、様子が違った。


誰もが、持てるだけのものを持っていた。


「……客?」


ミラが言った。


ノアは、答えなかった。


畑で、ダグが鍬を止めた。


エルマが、ニルとリゼの肩に手を回して、自分の方へ引き寄せた。


ゲルトが、石から顔を上げた。


トビが、立ち上がった。


ハンナが、繕いかけの布を膝に置いた。


九人全員が、丘の上を見ていた。


列の先頭にいた男が、窪地の手前で足を止めた。


泥だらけの靴だった。


顔は、日と疲れで灰色に見えた。


男は、窪地の小屋と、畑と、九人を見回した。


それから、掠れた声で言った。


「……西から来ました」


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