第13話 泊めるだけなら
「……西から来ました」
男の声は、掠れていた。
ノアは、男の後ろに続く列を見た。
「何人ですか」
男は、一瞬、目を瞬いた。
それから、自分の後ろを振り返った。
「……十六人。それと、途中から一緒になった商人が一人」
十七人。
九人の、倍に近い。
列の中には、子供の手を引いた母親がいた。
杖をついた老人がいた。
背中の荷がほとんど空の若い夫婦がいた。
逆に、大きな包みを抱えた家族もいた。
列の後ろで、牛に荷車を引かせていた男が、帽子を取って軽く頭を下げた。
一人だけ、疲れ方が違った。
「商人の方ですか」
ノアが聞くと、男は頷いた。
「西へ行ったんだがな。戦で商売にならん。引き返してきたら、同じ方へ歩いてる連中がいたんで、道連れになった」
同じ列を歩いてきても、同じ事情ではなかった。
◇ ◇ ◇
先頭の男は、ヨルクと名乗った。
西の、小さな村の出だという。
「戦は、もう終わったらしい。大きいのが一つ、一日で片付いたと聞いた」
「それで、東へ」
「帰れるか分からんのです」
ヨルクは、言葉を選ぶように続けた。
「うちの村は、戦の前に皆で逃げた。村が焼かれたとは聞いてない。降った村は焼かれなかったって話も、聞いてます」
「なら――」
「主家がなくなった。麦も、持ち出せた分しかない。戻っても、今年の種を蒔けるかどうか」
ヨルクの後ろで、別の女が言った。
「うちは、家が残ってるかも分からない。道は兵と逃げる人で塞がってて、戻りようがなかった」
戦が終わったことと、暮らしが戻ることは、別の話だった。
ヨルクは、窪地を見回した。
小屋が三つ。
畑。
石積み。
「一晩だけでも、休ませてもらえませんか」
ノアも、窪地を見た。
土地は、いくらでも空いている。
「今夜だけなら、場所はあります」
列の中に、ほっとしたような息が広がった。
ノアは、同じ調子で続けた。
「食べ物は、出せません」
息が、止まった。
畑の方から、ダグの声がした。
「出せるほど、ない」
冷たい声ではなかった。
ただ、事実を言っただけの声だった。
◇ ◇ ◇
「でも」
ミラが、洗いかけの椀を置いた。
「水と火は、使えるよね」
ノアは、少し考えた。
泉の取り決めの紙が、頭に浮かんだ。
どちらかが使う量が大きく増える時は、その時に改めて話す。
人が増え続けるなら、勝手には使えない。
だが、今夜、疲れた人に一口も飲ませないという話でもない。
「……今日だけなら」
「それと、火。薪は少しなら分けられる。鍋も貸せる」
ミラは、客用の小屋の方を顎で示した。
「屋根も、あそこなら一つある。全員は無理だけど」
ミラは、窪地の九人の暮らしを、指で一つずつ数えるように見渡していた。
食べ物ではない。
でも、今ここにあるもの。
ハンナが、繕い物を置いて立ち上がった。
ずっと前、この窪地で鍋を借りた側だった人だ。
「鍋なら、うちのも出せる」
◇ ◇ ◇
「食べ物が、まだ残ってる人」
ノアが声をかけると、列の中から、ぱらぱらと手が上がった。
乾いた麦が、小さな袋に一つ。
豆が、両手に一杯分ほど。
干した根菜が、紐に通して数本。
一日分に足りない家族もいた。
何も上げない者も、いた。
商人は、自分と牛の分を持っていた。
荷車には、西で売り損ねた布と鉄の小物が積んである。
誰も、それを配れとは言わなかった。
言える立場の者も、いなかった。
「うちは、子供の分しかない」
小さな袋を抱えた母親が、ぽつりと言った。
隣の男が、自分の袋を少しだけ体の後ろへ回した。
誰も、悪い人間ではなかった。
ただ、誰にも余裕がなかった。
◇ ◇ ◇
列の端に、子供が座り込んでいた。
リゼと同じくらいの女の子だった。
膝を抱えて、動かない。
母親らしい女が横にいたが、その女も、目を閉じて荷にもたれていた。
リゼが、エルマの袖を引いた。
「あの子、ずっと座ってる」
エルマは、それまでニルとリゼを自分の後ろに置いて、流れてきた人々を見ていた。
この窪地に着いた時、エルマもあんなふうに、子供を抱えて荷にもたれていた。
エルマは、しばらく女の子を見ていた。
それから、小屋へ戻っていった。
戻ってきたエルマは、自分の椀を持っていた。
朝から取っておいた、昼の分の粥だった。
ダグが、それに気づいた。
「エルマ」
「なに」
「一人に出したら、他の子にも出すことになるぞ。麦は、九人の分しかない」
「共用の麦じゃない」
エルマは、椀を持ったまま言った。
「私の分」
ダグは、口を閉じた。
「……お前の分だって、多くない」
「知ってる」
エルマは、女の子の前にしゃがんで、椀を差し出した。
女の子は、しばらく椀を見ていた。
それから、母親の顔を見た。
母親が、小さく頷いた。
ダグは、それ以上は何も言わなかった。
ノアも、何も言わなかった。
エルマが一食を分けても、麦は増えない。
ダグが止めても、麦は増えない。
どちらの言うことも、正しかった。
足りないのは、麦そのものだった。
◇ ◇ ◇
日が傾き始めた頃、ハンナとミラが、焚き火のそばで声をかけた。
「煮られるものがある人は、持ってきて」
「全部じゃなくていいから。自分の家の分だけ」
乾いた麦と豆が、鍋ごとに分けて煮られていった。
硬いままでは子供が食べにくい根菜も、刻んで湯に落とされた。
自分の家の食べ物を、自分の家の分として食べる。
鍋と火と水を、貸しただけだった。
何も持っていない者の前には、何も残らなかった。
ゲルトが、黙って自分の椀の粥を、杖の老人の方へ半分移した。
トビが、干した豆を一握り、若い夫婦の鍋に落とした。
ミラは、自分の分の麦を少しだけ、母親と女の子の鍋に足した。
誰も、何も言わなかった。
九人の共用分から出したものではなかった。
一人一人の、一食の中からだった。
ノアは、それを止めなかった。
◇ ◇ ◇
日が落ちる前に、寝る場所を決めた。
三つの小屋に、全員は入らない。
九人の小屋には、九人が寝る。
そこは、ミラが譲らなかった。
「客用の小屋に、小さい子と年寄りと、具合の悪い人。それで、ぎりぎり」
エルマが、子供を連れた母親たちを順に小屋へ入れていった。
杖の老人が、一番奥の、風の当たらない側に寝かされた。
動ける大人は、外だった。
荷車の陰。
木の下。
布を張った客用の焚き火のまわり。
トビが、商人の牛を引いて、泉の下流へ連れていった。
「水は、ここで飲ませる。泉の方へは行かせるな」
「なんでだ」
「そういう約束になってる」
商人は、泉の方を見て、それから頷いた。
一人の男が、小屋の軒先で火を起こそうとしていた。
「そこに火を焚くな」
ダグが、それを止めた。
「屋根に飛ぶ」
男は、慌てて薪を抱えて離れた。
ゲルトが、何も言わずに石を三つ四つ運んできて、少し離れた場所に火囲いを組んだ。
男は、そこで火を起こし直した。
ほんの数日前まで、ここに住んでいるのは九人だけだった。
今は、その九人が、この土地の勝手を知っている側になっていた。
◇ ◇ ◇
夜。
ノアは、焚き火を一つずつ回った。
家族ごとに、話を聞いていく。
名前。
どこから来たか。
何人か。
行く先はあるか。
東に、頼れる者はいるか。
何ができるか。
ここに、残りたいか。
「東の町に、姉が嫁いでます。歩ければ、三日で着きます」
若い夫婦の、妻の方が言った。
「行く先は、ない。でも、仕事があるなら、どこへでも行く。ここでなくてもいい」
独り身の男が言った。
平原の南の、川沿いの村から来たという母親は、子供二人を膝に抱えたまま言った。
「村の者は、ばらばらになりました。戦の前に、皆で東へ逃げたけど、途中ではぐれて」
「戻る先は」
「……分かりません」
ヨルクは、家族五人の前で、しばらく黙っていた。
「もう、歩きたくない」
低い声だった。
「一番下が、まだ三つです。これ以上歩かせたら、どこかで倒れる。戻る家も、頼る先もない」
ノアは、聞いたことを紙に書いていった。
書きながら、気づいた。
西から来た十六人は、一つの列だった。
だが、一つの事情ではなかった。
◇ ◇ ◇
ヨルクが、焚き火の向こうから言った。
「置いてもらえるなら、働きます」
周りの何人かが、顔を上げた。
「畑でも、木でも、石でも。何でもやる」
ノアは、少し考えた。
前に、食べるものがなかった時。
人手なら、ある。
それが答えになった。
だが、今は。
ダグが、焚き火の向こうから言った。
「人手が増えても、麦は明日生えんぞ」
ヨルクは、何も言えなかった。
「畑を広げるのはいい。家を建てるのもいい。だが、それが食えるようになるまで、何か月もかかる。その間も、人は毎日食う」
ダグは、火に薪を一本くべた。
「先に増えるのは、口の方だ」
ノアは、手元の紙を見た。
人が増えれば、いずれは力になる。
だが今は、増えた分だけ、食べる物が先に減っていく。
◇ ◇ ◇
焚き火の輪から少し離れたところで、商人が牛の様子を見ていた。
ノアは、そちらへ歩いていった。
「西は、どうでした」
商人は、肩をすくめた。
「大きな戦は、一日で済んだらしい。獅子の軍は、もう先へ行った。道は、兵の荷車と逃げる連中で詰まってる。商売どころじゃない」
ノアは、紙の端に書き足した。
――西 獅子の軍 さらに先へ
――西の道 兵と流民で詰まる
それから、聞いた。
「この辺りで、人手を欲しがってるところって、知りませんか」
商人は、少し考えた。
「南東に、一つ聞いたな。戦の前後で人が抜けて、荷運びも馬の世話も畑も、手が足りんと言ってた村がある」
「雇ってくれますか」
「そこまでは知らん」
商人は、あっさりと言った。
「人が足りんと聞いただけだ。雇うかどうかは、向こうが決める」
ノアは頷いた。
ここで、この人たち全員を食べさせることは、できない。
だが、人の手が足りずに困っている場所が、どこかにある。
人を、食べられる場所へ繋ぐ。
その考えが、まだ形にならないまま、ノアの中に残った。
◇ ◇ ◇
焚き火のそばに戻ると、ノアは紙を一枚、新しく広げた。
横に、線を二本引く。
三つに分けた欄に、今夜聞いた名前を書き分けていく。
――行く先あり
――行く先を探す
――ここに残りたい
ミラが、覗き込んだ。
もちろん、読めない。
「何書いてるの?」
「明日、どこへ行く人か」
「……人のこと、書くんだ」
「うん」
これまで、ノアの紙に書いてあったのは、麦と、飼い葉と、道と、泊まりだった。
今夜初めて、人がどこへ行くかを書いた。
◇ ◇ ◇
数えてみた。
行く先のある者を除いても、「ここに残りたい」の欄には、名前が並んでいた。
ヨルクの家族。
川沿いの村の母親と子供たち。
杖の老人。
土地は、ある。
仕事も、作れないことはない。
屋根も、人手があれば増やせる。
だが、麦がない。
ノアは、袋の中から、もう一枚の紙を取り出した。
泉の取り決めの紙だった。
九人で暮らしていた頃に書いた、二通のうちの一通。
――どちらかの使う量が大きく増える時は、その時に改めて話し合う。
人が増えれば、飲む水も、煮炊きの水も増える。
人だけではない。
今夜は、牛もいる。
「これ、先に話さないと駄目だ」
ミラが、紙を見た。
読めなくても、どの紙かは分かったらしい。
「ローデン?」
「うん」
◇ ◇ ◇
翌朝。
窪地は、九人の朝とは違っていた。
焚き火が多い。
声が多い。
桶が足りない。
泉へ向かう道に、知らない顔が何人も並んでいる。
客用の小屋から、子供の泣き声がした。
エルマがそちらへ歩いていった。
若い夫婦が、荷をまとめていた。
東の町へ向かうらしい。
独り身の男は、商人に南東の村の道を聞いていた。
ヨルクは、畑の端に立って、ダグが鍬を入れるのを黙って見ていた。
一晩で、九人の暮らしには収まらなくなっていた。
◇ ◇ ◇
ノアは、泉の取り決めの紙を袋に入れた。
昨夜書いた紙も、その横に入れた。
「行く先を探す」と「ここに残りたい」の欄に、名前が並んでいる。
二枚を、一緒に持った。
「どっちから何とかするの?」
ミラが聞いた。
ノアは、少し考えた。
「とりあえず、ベルントさんに怒られてくる」
「……怒られるの、決まってるんだ」
「たぶん」
ノアは、丘の方へ歩き出した。
後ろで、昨日まで九人だった土地から、知らない人たちの煙が、いくつも上がっていた。




