第14話 二本目の道
朝の窪地に、火がいくつも上がっていた。
知らない人が、知らない桶で水を運んでいる。
子供の声が、昨日の倍はする。
泉の下流では、商人の牛が首を垂れて水を飲んでいた。
ノアは、泉の取り決めの紙と、昨夜書いた紙を袋に入れた。
「桶、足りないね」
ミラが、空の桶を二つ抱えて言った。
「うん」
「寝るところも」
「うん」
「食べ物も」
「それは、昨日から」
ミラは、桶を抱え直した。
東の町へ行く若い夫婦は、夜明けとともに発っていった。
それでも窪地は、九人の朝には戻らなかった。
「行ってくる」
「怒られてきて」
「たぶん、怒られる」
◇ ◇ ◇
ローデン村の入口で、ベルントが腕を組んで立っていた。
ノアの顔を見るなり、言った。
「来ると思ってたぞ」
「人が増えました」
「見れば分かる。朝から、知らん顔が何人も泉へ来とると、村の者が騒いどる」
ベルントは、ノアを睨んだ。
「何人だ」
「西から来たのが十六人。今朝、東へ行った二人を引いて、十四人です。それと、商人が一人。こっちは明日にも出ます」
ベルントの眉間に、深い皺が寄った。
「……九人のはずだったろう」
「一昨日までは」
「そういう話じゃない」
ベルントは、長い息を吐いた。
それから、少しだけ声の調子を落とした。
「……まあ、言いに来ただけましか」
家の陰から、男が一人出てきた。
頬に古い傷。
ロルフだった。
陣での務めから、戻っていたらしい。
ロルフは、ノアを見て鼻を鳴らした。
「だから言っただろう」
「はい」
「開拓民ってのは増えるもんだ、と」
「言われました」
「十人が五十人になるって話だ」
「まだ、二十三です」
「もう二十三だ」
ロルフは、それだけ言って壁にもたれた。
ベルントが、指で数えるような仕草をした。
「九人だから、話ができた。二十人、三十人。その次は、どうする」
「分かりません」
「分からんのが困ると言っとる」
ノアは、反論しなかった。
ベルントの言う通りだった。
「だから、話しに来ました」
ノアは、袋から泉の紙を出した。
「どちらかが使う量が大きく増える時は、その時に改めて話し合う。そう書いてあるので」
◇ ◇ ◇
ベルントは、泉の話を始めた。
「水が足りんとは言っとらん」
泉は、今も枯れる気配はない。
十四人が飲んで、煮炊きをしても、水そのものは余る。
「困るのは、泉のまわりだ」
ベルントは、指を折った。
「汲みに来る人間が増えれば、足元がぬかるむ。岸が崩れる。今朝も、泉のすぐ脇で鍋を洗っとった者がいたそうだ」
「それは、言っておきます」
「道もだ。桶を持った人間が一日に何往復もすれば、道が荒れる。雨が降れば、泥が泉へ流れ込む」
ベルントは、ノアを見据えた。
「それに、今回だけで済む保証がない。今日は十四人でも、来月は何人だ」
量ではなかった。
泉のまわりを、誰がどう保つかの話だった。
◇ ◇ ◇
ノアは、もう一枚の紙を出した。
昨夜、焚き火のそばで書いたものだった。
ベルントは、それを見て眉を上げた。
「……また紙か」
「全員が住むわけじゃないので」
ノアは、紙の三つの欄を指でなぞった。
ベルントは読めない。
ノアは、声に出して説明した。
「行く先がある人は、何日か休んだら出ていきます。東の町の親戚のところとか。今朝も、二人出ました」
「ほう」
「行く先を探してる人は、仕事があればそっちへ行きます。ここに残りたい人は、家族が何組か」
ノアは、紙から顔を上げた。
「今いる人数と、これから残る人数は、違います」
ベルントは、しばらく紙を見ていた。
読めない文字の並びを、まるで畑の畝でも見るように眺めていた。
「……つまり、今の十四人に、ずっと泉を使わせろと言いに来たわけじゃないんだな」
「はい。今いる人の分と、残る人の分は、分けて話したいです」
◇ ◇ ◇
ベルントは、腕を組み直した。
「今いる連中が、水を飲むなとは言わん」
ノアが、顔を上げた。
「そこまで鬼じゃない。西から歩いてきた連中を、泉の前で追い返せるか」
「ありがとうございます」
「礼を言うな。住み着くなら、話は別だ」
ベルントは、指を一本立てた。
「飲む水は、今まで通り汲んでいい」
二本目。
「洗い物は、泉から離れたところでやれ。鍋も、布もだ」
三本目。
「泉のまわりを荒らすな。岸を踏み崩すな」
四本目の指を立てかけて、ベルントは言った。
「牛もいるそうだな」
「一頭。商人のです。明日には出ます」
「前と同じだ。家畜は、下だぞ」
「分かってます。トビが、昨日から下で飲ませてます」
ベルントは、少しだけ頷いた。
「それと」
ベルントは、最後にこう言った。
「残る人数が決まったら、もう一度来い。その時に、また話す」
◇ ◇ ◇
「あとは、道だな」
ベルントが、泉の方角を顎で示した。
「人ばかり増えて、道まで荒らされたら、かなわん。うちの者も、あの道を使って泉へ行くんだ」
ノアは、少し考えた。
これまで、こちらから出せるものは、いつも少なかった。
麦もない。
金もない。
人も、九人しかいなかった。
今は、人がいる。
食べさせる物はないが、人はいる。
「道、直すなら、人を出せます」
ベルントの目が、わずかに動いた。
「何人だ」
「まだ、分かりません」
「またそれか」
「働ける人に、これから聞くので」
ベルントは、呆れたように首を振った。
だが、その首の振り方は、断る時のものではなかった。
「……道と、泉のまわりの手入れ。そっちの人間でやれ。それが、今いる連中に水を使わせる分だ」
「はい」
◇ ◇ ◇
話がまとまりかけたところで、ノアは聞いた。
「この辺りで、人手を欲しがってるところって、ありますか」
「人手?」
「昨日来た人たちの中に、働ける人がいるので」
ベルントは、鼻を鳴らした。
「うちによこせ、と言いたいところだがな」
壁にもたれていたロルフが、口の端を歪めた。
ロルフのような若い者は、今も時々、獅子の陣へ呼ばれている。
ローデン村も、手は足りていなかった。
「二人くらいなら、麦と引き換えに畑を手伝わせてもいい。だが、それ以上は無理だ。こっちだって、食わせる麦には限りがある」
「二人でも、助かります」
「何人いると思ってる」
ベルントは、ロルフの方を見た。
ロルフが、壁から背を離した。
「南東の、街道沿いの集落なら」
ロルフは言った。
「陣へ行く途中で、何度か通った。荷運びと馬で食ってる所だ。若いのが軍に取られて、荷を運ぶ手が足りんと言ってた」
「雇ってくれますか」
「知らん」
ベルントが、横から付け足した。
「俺が雇うと約束したわけじゃないぞ」
「分かってます。聞いてみます」
ノアは、少し考えてから聞いた。
「そこに、字の読める人はいますか」
ロルフが、頷いた。
「荷の帳面をつけてる男がいる。字は、そいつが読む」
◇ ◇ ◇
「ベルントさん」
ノアは、袋から紙と筆を出した。
「一言、もらえますか」
ベルントは、ノアの手元を見た。
「俺が書けると思ってるのか」
「書くのは、僕です」
ノアは、筆の先を墨に浸した。
「押してほしいのは、指です」
ベルントは、しばらくノアの顔を見ていた。
それから、声を上げて笑った。
「お前は本当に、妙な男だ」
ノアは、紙に書いた。
――仕事を探している者が、こちらにいる。
――そちらで人手が要るなら、何人、何の仕事で、何を払えるかを知らせてほしい。
――この話は、ローデン村のベルントも承知している。
書き終えると、ベルントが村の奥へ声をかけた。
腰の曲がった老人が、杖をついて出てきた。
泉の取り決めの時と、同じ老人だった。
老人は紙を目に近づけ、ゆっくりと読み上げた。
一字ずつ、確かめるように。
読み終えて、頷いた。
「書いてある通りだ」
ベルントは、指に墨をつけた。
紙の端に、押しつける。
黒い指の跡が、紙に残った。
ノアは、その紙を見た。
泉の紙は、ノアとこの村を繋ぐための紙だった。
この紙は、その繋がりを使って、まだ会ったこともない誰かへ届くための紙だった。
◇ ◇ ◇
窪地へ戻ると、朝よりいくらか静かになっていた。
独り身の男が二人、南東へ仕事を探しに行くと言って、先に発ったらしい。
別の一家も、東の親戚を頼ると言って荷をまとめていた。
それでも、まだ十人を超える人が残っていた。
「仕事があるなら、ここで待ちたい」
そう言った者も、何人かいた。
ミラが、洗い物の手を止めて寄ってきた。
「どうだった?」
「水は、今すぐ追い出されることはない」
「良かった」
「でも、残る人数が決まったら、もう一回話す」
「そっちは、良くないね」
「うん」
ノアは、泉の方を見た。
「あと、洗い物は泉から離れたところで、だって」
ミラの手が、止まった。
手の中の鍋を見る。
「……今朝、泉のそばで洗ってた人、いたね」
「いたらしい」
「言っとく」
ミラは、鍋を抱えて焚き火の方へ歩いていった。
◇ ◇ ◇
ノアは、残っている人たちを焚き火のそばに集めた。
「仕事を、探してみます」
何人かが、顔を上げた。
「でも、何でもいい、だと、向こうに説明できないので」
ノアは、紙を広げた。
「何ができるか、教えてください」
一人ずつ、聞いていった。
「畑なら、ずっとやってきた」
「荷車を引ける。馬も、少しなら」
「木を切れる」
「縫い物なら」
「……特に、何も。力仕事なら、何でも」
ヨルクは、畑と、荷運びと答えた。
ほとんどが、普通の人だった。
特別な腕を持った者は、いなかった。
ノアは、名前の横に、できることを書いていった。
九人の時にも、同じことをした。
あの時は、知っている顔だった。
今は、昨日初めて会った顔だった。
◇ ◇ ◇
ミラが、洗い物を終えて戻ってきた。
ノアの手元を覗き込む。
もちろん、読めない。
「今、誰のとこ書いてるの?」
「川沿いの村の人。荷車が引けるって」
ミラは、焚き火の向こうを見た。
川沿いの村から来た母親が、子供二人を膝に抱えていた。
「その人、子供いるよ」
「うん」
「遠くまで働きに行ったら、誰が見るの?」
ノアの手が、止まった。
紙の上には、名前と、荷車、と書いてある。
子供のことは、書いていなかった。
ノアは、少し黙った。
それから、名前の横に書き足した。
――子供二人 小さい
――日帰りなら
ノアは、他の名前も一つずつ見直した。
「ヨルクさん」
「はい」
「家族ごと移るなら、行けますか。それとも、一人で何日か」
ヨルクは、少し考えた。
「……一人で、数日なら。だが、女房と子供を置いて、それ以上は」
ノアは、書き足した。
――数日なら離れられる
――家族ごとは 場所しだい
杖の老人は、どこへも行けない、と言った。
息子の家族と一緒にいたい、とも言った。
独り身の男は、どこへでも、いつまででも、と言った。
できることの横に、動ける範囲が並び始めた。
ミラは、その様子を黙って見ていた。
「……それ、最初から書いといた方がいいね」
「うん」
「前も、同じこと言ったよね、私」
「言った」
「覚えといてよ」
「今、書いた」
◇ ◇ ◇
昼を過ぎた頃、商人が荷車に牛を繋ぎ始めた。
牛は、朝より落ち着いていた。
トビが、脚を一本ずつ見て、頷いていた。
ノアは、ベルントの指の跡が押された紙を持って、商人のところへ行った。
「南東へ行くんですよね」
「ああ。街道沿いの集落を通る」
「これ、届けてもらえますか」
商人は、紙を見て、それからノアを見た。
「タダで?」
ノアは、止まった。
商人は、面白そうにノアを見ていた。
ノアは、自分の袋を思い浮かべた。
銅貨は、ほとんど残っていない。
「……昨夜の場所代は、いりません。牛の水も」
「それで?」
「出る前に、飼い葉を一束持っていってください。道の途中の分に」
「それだけか」
ノアは、懐から道の紙を出した。
屋根の作り方の裏。
「南東へ行く途中、南の川を渡りますか」
商人の目が、少しだけ変わった。
「渡る。あそこは、雨の後が厄介なんだ」
「雨の後なら、浅瀬を選べば渡れるそうです。古い橋が一つあるけど、荷車は避けた方がいい、と。前に南から来た人が言ってました」
商人は、しばらくノアの紙を見ていた。
「……それは、助かる」
「それと、紙だけじゃなくて、中身を口でも伝えてもらえますか。帳面の人以外にも、話が届くように」
「欲張りだな」
「紙は、読める人にしか届かないので」
商人は笑って、紙を懐にしまった。
「いいだろう。代わりに、こっちも教えとく」
商人は、南東への道を話した。
街道の途中に、荷車が泊まれる空き地が一つあること。
集落の手前の坂は、雨が降ると牛でも登れないこと。
西から来る荷が減って、東からの荷が増えていること。
ノアは、それを書き足した。
「……書くのか」
「忘れるので」
商人は、何も言わずに首を振った。
◇ ◇ ◇
夕方。
ノアは、焚き火のそばで紙を広げていた。
名前。
できること。
家族。
動ける範囲。
一枚では足りなくなって、二枚目に入っていた。
ミラが、横から覗き込んだ。
「また増えたね、紙」
「人が増えたから」
「減った人もいるのに」
「減った人のことも、書いてあるから」
ミラは、少し呆れたように笑った。
丘の向こうで、商人の荷車が、南東の道へ小さくなっていった。
荷車の上には、一通の紙が載っていた。
ノアが書いて、ベルントが指を押した紙。
まだ会ったこともない誰かに向けた、問い合わせだった。
荷車は、丘の稜線を越えて、見えなくなった。




