第15話 働ける場所
返事を持ってきたのは、商人ではなかった。
問い合わせを出して五日目の昼。
丘の上から、痩せた馬を引いた男が一人、窪地へ降りてきた。
「ノアってのは、あんたか」
「はい」
「南東の街道の集落から来た。オスカーだ。荷と人の段取りをやってる」
オスカーは、懐から紙を一枚出した。
「うちの帳面係が書いた。読めるんだろう」
ノアは、紙を開いた。
――荷運び 三人
――牛馬の世話 一人
――道の補修 四人
――七日ほど
――食事あり 手間賃あり
短い文だった。
「わざわざ来てくださったんですか」
「紙だけで人をよこされても困る。どんな連中か、見ておきたかった」
オスカーは、窪地を見回した。
焚き火。
小屋。
畑の端で、泉の道の手入れをしている流民たち。
「……で、何人いる」
◇ ◇ ◇
焚き火のそばに、働きたいという者たちが集まった。
「俺が行く」
「私も働ける」
「荷なら、ずっと担いできた」
声が重なった。
オスカーの紙には、八人とある。
働きたい者は、それより多いくらいだった。
一瞬、話はそれで済むように見えた。
ノアは、自分の紙を広げた。
前に書いた、名前と、できることと、家族と、動ける範囲。
「ヨルクさん」
「はい」
「荷運び、できますよね」
「できる」
「前に、一人で数日なら離れられるって言ってました」
ヨルクの顔が、少し曇った。
「……七日か」
「行って、仕事をして、戻ってくると、十日近くになります」
ヨルクは、焚き火の向こうで一番下の子を抱いている妻を見た。
それから、首を振った。
「十日は、無理だ」
ノアは、次の名前を見た。
脚を痛めているが、牛なら扱えるという男。
長い道は、歩けない。
年老いた父親と、妻と子と、一緒にいたいという男。
家族ごとなら、とノアの紙には書いてある。
「そこまで聞くのか」
誰かが、呟いた。
「行ってから困ると、戻ってくることになるので」
ノアは、紙から顔を上げずに言った。
◇ ◇ ◇
ミラが、洗った椀を抱えたまま、オスカーの前に立った。
「寝るところは?」
オスカーが、瞬きをした。
「……荷置き小屋の二階だ。藁を敷いてある」
「食事ありって、夜も出る?」
「朝と夜は出す。昼は、握ったものを持たせる」
「子供、連れてってもいい?」
オスカーは、少し困った顔をした。
「子供は困る。昼の間、見る者がいない」
「家族ごとは?」
「一家族分なら、空いてる小屋がある。ただし、働くのは大人だけだ」
ミラは、ノアの方を振り返った。
「今の、紙に書いてあった?」
ノアは、オスカーの紙を見た。
「……書いてない」
「じゃあ、聞いてよかったね」
「うん」
ノアは、自分の紙に書き足した。
――寝床 荷置き小屋の二階
――食事 朝夜 昼は弁当
――子供 不可
――家族 一家族分なら小屋あり
ミラは、焚き火の向こうの子供たちを見た。
「その人、子供いるよ」
ミラが目で示したのは、川沿いの村から来た母親だった。
マルタという名前だった。
「七日いなくなったら、誰が見るの?」
ノアは、マルタの欄を見た。
――荷車 引ける
――子供二人 小さい
――日帰りなら
南東へは、行けない。
だが、働けないわけではない。
ノアは、少し考えた。
「……じゃあ、ローデンなら」
◇ ◇ ◇
ローデン村は、丘を二つ越えた先にある。
朝に出れば、夕方には戻れる。
ベルントは、二人くらいなら、麦と引き換えに畑を手伝わせてもいいと言っていた。
水はけの溝の泥さらい。
畑の石起こし。
荷運び。
ノアは、紙の上で名前を動かした。
南東へ行ける者。
南東へは行けないが、日帰りなら働ける者。
どちらにも行けない者。
「ヨルクさんと、マルタさん。ローデンへ行ってください。日帰りです」
ヨルクが、顔を上げた。
「……帰ってこられるのか」
「毎日、夕方には」
ヨルクは、妻の方を見た。
妻が、小さく頷いた。
南東には、若い兄弟が二人、手を挙げていた。
二人とも独り身で、長く土地を離れても困る家族はいなかった。
「荷運びと、道の補修」
もう一人、ベンという男がいた。
家族はいない。
荷車を引いたことがあり、馬も少しは扱えるという。
「牛馬の世話」
オスカーの紙には、八人とあった。
ノアが南東へ振り分けたのは、三人だった。
「……三人か」
オスカーが言った。
「今は、三人です」
「八人と書いたんだがな」
「行ける人が、三人なので」
オスカーは、しばらくノアの紙と、焚き火のまわりの人々を見比べていた。
それから、肩をすくめた。
「無理に来られて、途中で帰られるよりはいい」
◇ ◇ ◇
脚を痛めた男は、どちらにも入らなかった。
父親と一緒にいたい男も、今は入らなかった。
杖の父親は、丘を一つ越えるのがやっとだった。
「仕事があるのに、行けないのか」
脚の男が、焚き火を見たまま言った。
ノアは、紙のその男の欄を見た。
――牛 扱える
――長い道は無理
「別を探します」
「……あるのか」
「まだ、分かりません。でも、南東の集落には、牛がいるって聞いたので」
オスカーが、横から言った。
「牛なら、うちの集落の手前の村に多い。あそこは近いぞ。ここからでも、南東よりはずっと」
ノアは、それを書き足した。
脚の男は、何も言わなかった。
ただ、焚き火から目を上げて、ノアの紙の方を見た。
◇ ◇ ◇
翌朝。
オスカーと南東組の三人が、出発の支度をしていた。
ノアは、一人ずつ前に立った。
「荷運びと、牛馬の世話と、道の補修。七日くらい。寝るのは荷置き小屋の二階で、食事は朝と夜。手間賃も出るそうです」
若い兄の方が、頷いた。
「紙に書いてあるんだろう」
「書いてあります。でも、読めないかもしれないので、口でも言っておきます」
ノアは、兄弟とベンを順に見た。
「言われたことと違うことを言われたら、戻ってきてください」
ベンが、少し笑った。
「戻ってきていいのか」
「いいです。ここは、そういう場所なので」
自分で言ってから、ノアは少しだけ首を傾げた。
そういう場所になっていたのか、と思った。
オスカーが馬を引き、三人が後に続いた。
丘の上で、兄弟の弟の方が一度だけ振り返って、手を振った。
ミラが、ノアの横に立っていた。
「なんか、宿にいた時みたい」
「何が?」
「毎晩、今夜何人来るか数えてたでしょ」
ミラは、丘を越えていく四人の背中を見ていた。
「今は、何人行くか数えてる」
ノアは、少し考えた。
「……数えるのは、同じだね」
「中身が違うの」
◇ ◇ ◇
ヨルクとマルタは、夜明けとともにローデンへ出ていった。
マルタの子供二人は、エルマが見ている。
ヨルクの一番下の子は、妻が背負って、泉の道の手入れを手伝っている。
夕方。
丘の上に、二人の影が戻ってきた。
ヨルクの肩に、小さな袋が一つ。
マルタも、同じくらいの袋を抱えていた。
「麦だ」
ヨルクは、自分の袋をノアの前に置いた。
「今日の手間賃。ベルントさんが、明日も来いと」
ミラが、袋の口を開けて中を見た。
両手で掬えば、なくなりそうな量だった。
それでも、今日の分だった。
ヨルクは、袋から自分の家族の分を量って取り、残りをミラの前に押した。
「これは」
「うちの子らも、ここで食わせてもらってる。水も、火も」
マルタは、自分の袋を胸に抱えたまま、それを見ていた。
子供二人の分を数えるように、袋の口を少しだけ覗いて、また閉じた。
ノアは、何も言わなかった。
受け取れとも、受け取るなとも言わなかった。
マルタに、出せとも言わなかった。
ミラが、少し間を置いてから、ヨルクの押した麦を受け取った。
「……ありがと」
その夜、ノアの台帳に、新しい行が増えた。
――ローデン 日帰り 二人 麦
◇ ◇ ◇
それから、四日ほどが過ぎた。
ヨルクとマルタは、毎朝ローデンへ出て、毎夕、小さな袋を持って帰ってきた。
泉の道は、残った者たちの手で少しずつ均されていった。
五日目の昼。
丘の上に、また人影が現れた。
四人。
母親と、その子供。
年老いた男と、その娘らしい女。
「ここに来れば、働ける場所を教えてもらえると聞いた」
年老いた男が言った。
ノアは、瞬きをした。
「……誰が、そんなことを」
「東へ行く途中の連中が、言ってた。丘の向こうに、行き先を聞いてくれる男がいると」
ノアは、そんなことを言って回った覚えはなかった。
前に、見回りの兵が言っていた。
ここには飼い葉がある、と聞いている、と。
同じだった。
誰かが勝手に、話を運んでいた。
◇ ◇ ◇
その夜、ノアは台帳を見ていた。
名前が、増えていた。
南東へ三人。
ローデンへ二人。
どこにも行けない者が、まだ何人か。
そこへ、今日の四人。
子供連れの母親と、その子。
歩くのがやっとの老人。
その娘。
ミラが、横に座った。
「良かったね。噂になってるんでしょ」
「良くない」
「なんで?」
ノアは、紙の上の名前を指でなぞった。
「行ける仕事より速く、行けない人が増えてる」
ローデンは、二人まで。
南東は、七日離れられる者だけ。
今日来た四人は、どちらにも入らない。
ミラは、しばらく黙っていた。
「……じゃあ、次の仕事、探さないとね」
「うん」
「子供がいても行けるところ」
「うん」
ノアは、紙の端に書いた。
――子供連れ 可の仕事
その横は、空いたままだった。
◇ ◇ ◇
翌日の夕方。
ヨルクとマルタがローデンから戻ってきた、少し後だった。
丘を、男が一人下りてきた。
荷は少ない。
腰に、旅用の小刀が一本。
手には、杖代わりの棒。
剣は、持っていなかった。
身なりは兵のものだったが、兵にしては、何も持っていなかった。
首から、紐で小さな木札を下げていた。
男は、窪地の手前で足を止めた。
「ノアという男はいるか」
焚き火のそばで、何人かが顔を上げた。
ノアは、紙を置いて立ち上がった。
「僕です」
男は、ノアを上から下まで見た。
戦える体つきでは、なかった。
男は、少し意外そうな顔をした。
「……東へ行く連中に、ここのことを聞いた。人の行き先を知ってる男がいると」
「全部は、知りません」
「西から来た連中が、ここを通ったと聞いた」
男は、首の木札に手をやった。
「俺の村の者を、探している」
◇ ◇ ◇
焚き火のそばに、男を座らせた。
ミラが、水を一杯出した。
男は、それを一息で飲んだ。
「いつ、村を出ましたか」
ノアが聞いた。
「俺が出たのは、戦の前だ。兵に取られた。村の者は、戦が来る前に東へ逃げたと聞いた」
「何人くらいの村ですか」
「五十人と、少し」
「子供は」
「いる。何人かは、分からん」
「荷車は」
「……村に、一台あった。持って出たかは、知らん」
「東へ向かったのは、確かですか」
男は、少し眉を寄せた。
「そこまで要るのか」
「同じ村の人かどうか、分けたいので」
ノアは、自分の紙を見た。
西から来た人たちの、名前。
どこから来たか。
何人か。
子供。
荷車。
いつ、どこで分かれたか。
平原の南。
川沿い。
その欄で、ノアの指が止まった。
◇ ◇ ◇
ノアは、男の首元を見た。
「その札」
男の手が、木札に触れた。
「それ、村ごとに違うんですか」
「……ああ。焼き印が、村ごとに違う。兵に取られる者は、みんな持たされる。帰ってきた時に、どこの誰か分かるように」
ノアは、振り返った。
「マルタさん」
子供を寝かしつけていたマルタが、顔を上げた。
「この札、見てもらえますか」
マルタは、焚き火のそばまで来た。
男が、首から札を外して差し出した。
マルタは、札を火の明かりに傾けて、長いあいだ見ていた。
「……うちの村の印じゃない」
男の肩が、わずかに落ちた。
マルタは、札を見たまま続けた。
「でも、これ、上流の村の印だ。川の上の方の」
男が、顔を上げた。
「知ってるのか」
「祭りの時に、同じ印の旗を見たことがある」
マルタは、札を男に返した。
「逃げる時、上流の村の人たちとも、途中まで一緒だった。はぐれる前の日、分かれ道で、その印の村の人たちが、南東の方へ折れていくのを見た」
「南東」
「荷車が一台、あった気がする。子供も、何人か」
男は、黙って札を握った。
◇ ◇ ◇
「同じ人たちかは、分かりません」
ノアが言った。
「分かれ道で見ただけです。その後、どこまで行ったかも、分からないです」
男は、しばらく焚き火を見ていた。
「……それでもいい」
男は、札を首にかけ直した。
「どこへ行けばいいか、分からなかった」
低い声だった。
「今は、南東へ行けばいいと分かった」
「南東の街道沿いに、集落があります。荷と人の段取りをやってる、オスカーという人がいます。そこなら、この辺りを通った人のことを、何か知ってるかもしれません」
ノアは、紙の端を少し破って、道順を書いた。
それから、書いた道順を一つずつ、口でも伝えた。
男は、紙を受け取って、懐にしまった。
「……助かった」
「まだ、同じ村かどうかも分かりませんよ」
「分かってる」
◇ ◇ ◇
「泊まっていきますか」
ノアが聞いた。
男は、暗くなった丘を見た。
「……一晩だけ、火のそばを借りる。夜明けには出る」
男は、焚き火から少し離れた場所に腰を下ろした。
誰とも、あまり話さなかった。
翌朝。
ノアが起きた時、男はもう荷を背負っていた。
「ロイだ」
男は、それだけ言った。
「ノアです」
「知ってる」
ロイは、丘の方へ歩き出した。
南東へ向かう道だった。
丘を越えていくロイの背中の、反対側から、また誰かが窪地へ向かって歩いてきていた。
人が、出ていく。
人が、入ってくる。
ノアは、その間に立っていた。
◇ ◇ ◇
ノアは、紙に書き足した。
――ロイ
――平原の南 川の上流の村
――村の者を探す
――南東へ
ミラが、横から覗き込んだ。
「あの人も、書くの?」
「また来るかもしれないから」
「来るの?」
「分からない」
ノアは、紙を畳んだ。
「分からないから、書いとく」
◇ ◇ ◇
南東へ行った三人が戻ってきたのは、送り出してから十日ほど経った夕方だった。
三人とも、日に焼けていた。
背中の袋には、麦と、干し肉と、銅貨が入っていた。
手間賃は、約束通りに払われたという。
「荷置き小屋の二階、思ったより暖かかった」
ベンが、ミラに言った。
「夜の飯も、出た。昼の包みは、塩が足りなかったけどな」
「それは言っといて」
「言った」
若い兄弟の兄が、自分の袋から麦を一掴み取り、黙ってミラの前の鍋に入れた。
ノアは、それを止めなかった。
頼んでもいなかった。
弟の方が、ノアの前に座った。
「向こうで、いろいろ聞いた」
ノアは、紙を出した。
「荷車の直しが、追いついてないって。車輪を直せる奴を探してる」
「西から来る荷が、また増え始めてるらしい」
「集落の先の村で、刈り入れの手が足りないって話もあった」
「街道の、坂の手前が崩れかけてる」
ノアは、一つずつ書いていった。
それから、弟が付け足した。
「ああ、それと。オスカーさんが、次も頼むって。今度は、五人」
ノアの筆が、止まった。
「……五人」
「条件は、また紙で送るってさ」
◇ ◇ ◇
その夜。
ノアは、台帳を開いた。
最初のうちは、麦と、豆と、銅貨しか書いていなかった。
今は、違った。
人の名前。
できること。
家族。
動ける範囲。
行き先。
戻ってきた日。
向こうで足りないもの。
ノアは、しばらくそれを眺めていた。
何と呼べばいいのかは、まだ知らなかった。




