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第16話 九人ではなかった

朝の窪地は、もう静かではなかった。


ヨルクとマルタが、丘の方へ歩いていく。


ローデンへの、いつもの日帰りだった。


南東から戻った兄弟が、次の仕事の話を待って、焚き火のそばで靴の紐を直している。


昨夜泊まった旅の男が、客用の小屋の前で荷をまとめている。


子供の声がする。


九人の頃の、倍では足りなかった。


ノアは、焚き火のそばで指を折っていた。


ミラが、鍋をかき混ぜながら横目で見た。


「また数えてる」


「毎日違うから」


「昨日と?」


「昨日と、一昨日と、その前と」


今、この窪地にいる人数。


この窪地で暮らしている人数。


その二つが、もう同じ数にならなかった。


◇ ◇ ◇


最初の揉め事は、薪だった。


「それは、うちで切った薪だ」


ダグの声がした。


畑の端に積んであった薪の束を、流民の男が一抱え持ち上げたところだった。


「使っていいもんだと思った」


男は、戸惑った顔をした。


「火も、鍋も、水も使っていいと言われた。薪も、少しなら分けられると」


「使っていい薪は別だ。それは冬の分だ」


「……どれが使っていい薪かまでは、聞いてない」


ダグは、黙った。


この薪は、畑仕事の合間にダグとトビが林から運んで割ったものだった。


冬に備えて、少しずつ積み上げてきた。


だが、そう書いた札が立っているわけではない。


九人の頃なら、誰でも知っていた。


「それはダグさんの」


それで済んだ。


今は、済まなかった。


◇ ◇ ◇


薪の話をしているうちに、別の話が出てきた。


「うちの桶、朝から見当たらないんだけど」


ハンナが言った。


探してみると、桶は窪地の反対側、新しく残った一家の寝床の脇にあった。


「皆で使う桶だと思って」


客用に分けておいた薪が、半分に減っていた。


旅の者のために空けていた寝場所に、昨夜は仕事待ちの男が寝ていた。


ゲルトが石積みに使っていた鉄の棒を、子供が持ち出して遊んでいた。


一つ一つは、小さなことだった。


誰も、盗むつもりではなかった。


ただ、どれが誰の物で、どれが皆の物なのか、誰も知らなかった。


◇ ◇ ◇


焚き火のそばに、自然と人が集まってきた。


「じゃあ、どこまで使っていいんだ」


薪の男が言った。


「薪を置く場所を決めたのは、誰だ」


別の男が言った。


「ここは、ノアの土地なんだろう」


誰かがそう言うと、視線がノアに集まった。


ノアは、少し困った。


書類の上では、この土地の管理を任されている。


だが、これまで九人に何かを命じて暮らしてきたわけではなかった。


ダグは自分で畑をやり、ゲルトは自分で石を積み、ミラは自分で鍋をかき混ぜていた。


「……ちょっと待ってください」


ノアは、紙を出した。


◇ ◇ ◇


ノアは、紙に三本の線を引いた。


――人の物


――皆の物


――客用の物


「人の物は、その人のです。服とか、道具とか、自分で稼いだ物とか、自分の家族のために持ってきた食べ物とか」


「皆の物は」


「共用の火場と、共用の鍋と、水を汲む桶の何個か。それと、皆で使うと決めた薪」


「客用の物は」


「旅の人のための寝場所と、薪と、飼い葉」


ノアは、ダグの薪の山を見た。


「ダグさんとトビが切った薪は、ダグさんたちの薪です。使いたい時は、聞いてください」


ダグが、ふん、と鼻を鳴らした。


薪の男は、抱えていた束を黙って元の場所に戻した。


◇ ◇ ◇


「ねえ」


ミラが、鍋の手を止めていた。


「どれが皆の物か、どうやって分かるの?」


ノアは、紙を見た。


人の物、皆の物、客用の物。


ちゃんと分けて書いてある。


「……紙に」


「読めない人、たくさんいるよ」


ノアは、止まった。


「それに、いちいちノアに聞きに行くの? 桶一個使うたびに?」


「……それは困る」


ミラは、窪地を見回した。


「じゃあ、置く場所で分けたら?」


「置く場所」


「皆の物は、全部共用の火場の横。客用の物は、馬を繋ぐとこの横。それ以外に置いてあるのは、全部誰かの物。そうしたら、字が読めなくても分かるでしょ」


ノアは、しばらくミラを見ていた。


それから、紙に書き足した。


――皆の物 火場の横


――客用の物 馬の杭の横


「縄も巻いとく? 皆の桶には、赤い縄とか」


「赤い縄、ある?」


「ハンナさんが持ってる」


ノアが書いた紙の上の三つの分け方は、その日のうちに、窪地の三つの場所になった。


◇ ◇ ◇


夕方、ヨルクとマルタがローデンから戻ってきた。


いつものように、小さな袋を一つずつ抱えていた。


焚き火のそばで、誰かが言った。


「その麦は、皆の鍋に入るのか」


ヨルクが、足を止めた。


「前に、一度入れてただろう」


「入れた。俺が入れると決めて、入れた」


言った男は、仕事待ちの一人だった。


ローデンは二人まで。


南東は、次の話がまだ来ていない。


働きたくても、今は働く先がない男だった。


「働いた者の麦は、働いた者の物です」


ノアが言った。


「入れるかどうかは、本人が決めます」


男は、何か言いかけた。


ノアは続けた。


「働く先がまだない人の分は、別に探します。ヨルクさんの袋から取る話じゃないです」


男は、口を閉じた。


泊めることはできる。


だが、養うことはできない。


それは、西から人が来た最初の夜から、変わっていなかった。


◇ ◇ ◇


夜になって、ハンナとエルマがノアのところへ来た。


「夜中に、知らない人が子供の寝床のそばを通るの」


エルマが言った。


「悪いことをしようとしてるんじゃない。用を足しに行くだけなんだろうけど、暗いと、どこが誰の寝床か分からないから」


ハンナが付け足した。


「それと、火。消さずに寝る人がいる。昨日の夜、客用の火が、朝まで燃えてた。風が強かったら、屋根に飛んでたよ」


ノアは、書き足した。


――火は決めた場所で焚く


――寝る前に消す


それから、ハンナとエルマと一緒に、暗くなりかけた窪地を歩いた。


子供の寝床の脇を通らなくて済むよう、夜に使う道を決めた。


「用を足す場所も、決めた方がいいね」


エルマが言った。


「その道の先にしましょう」


用を足す場所も、その道の先に決めた。


そちらは、紙には書かなかった。


道が決まっていれば、字が読めなくても、歩けば分かる。


◇ ◇ ◇


翌朝、ノアは泉の紙を持ってローデンへ行った。


ベルントは、ノアの顔を見るなり言った。


「で、結局何人残った」


「二十一人です。前からの九人と、残ると決めた人が十二人」


「仕事を待っとる連中は」


「その日によって、いたりいなかったりです。南東へ働きに出たり、戻ってきたり」


ベルントは、腕を組んだ。


「……二十一か」


しばらく、黙っていた。


「なら、今はそれでいい」


「ありがとうございます」


「また増えたら来い」


「はい」


ベルントは、泉の方角を顎で示した。


「泉のまわりの手入れは、決まった日に、そっちから人を出せ。水はけの溝の泥さらいと、道の枝払いだ。うちの者と、交互でいい」


「分かりました」


ベルントは、少しだけ口の端を上げた。


「お前は、来いと言えば本当に来るな」


「来ると言ったので」


◇ ◇ ◇


窪地に戻ると、ノアは紙に一つずつ書いた。


長い言葉は、使わなかった。


――人の物は、勝手に使わない


――皆の物は、決めた場所へ戻す


――火は、決めた場所で焚く。寝る前に消す


――家畜は、泉の下で水を飲ませる


――泉を汚さない。泉の当番を出す


――揉め事で、刃物を抜かない。抜いた者は、ここには置かない


――困ったことは、勝手に決めずに話す


刃物の決まりを書く時、ノアは少し手を止めた。


ここには、斧も、槍も、護身の小刀を持っている者もいる。


旅をするなら、持っていない方がおかしい。


持つなとは、言えない。


だが、抜いた後で止めることは、ノアにはできない。


だから、抜いた時点で、ここにはいられなくなる。


それなら、ノアにも決められた。


◇ ◇ ◇


ノアは、書いた紙を共用の火場の柱に打ちつけた。


「読めない」


誰かが、すぐに言った。


ノアは、紙を見た。


それから、焚き火のまわりの顔を見た。


「……そうですよね」


ノアは、ミラを見た。


ミラは、鍋の手を止めずに言った。


「ゆっくり言って」


ノアは、一つずつ読み上げた。


一つ読むたびに、それが窪地のどこの話なのかを指で示した。


火場。


泉の方角。


馬の杭。


読み終えた後、ニルが柱の前に立って、紙を見上げていた。


「僕、読めるやつなら教える」


「どれが読める?」


ノアが聞くと、ニルは紙の上をしばらく見て、指を差した。


「……これ、火?」


「そう」


「じゃあ、これだけ教える」


ニルは、火の字の横に、炭で小さく火の形を描いた。


炎が三つ、上に伸びている。


それを見たリゼが、泉の決まりの横に、水の形を描いた。


波が二本。


字の読めない誰かが、それを見て頷いた。


◇ ◇ ◇


翌日。


大きなことは、何も起きなかった。


薪を使う前に、ダグに声をかける男がいた。


赤い縄の桶が、夕方には火場の横に戻っていた。


客用の火は、寝る前に誰かが灰をかけていた。


ミラが、火場の横に並んだ桶を見て言った。


「ちょっと、村っぽくなったね」


「村なのかな」


「領主が言う?」


「書類の上ではね」


「それ、ずっと言ってるね」


◇ ◇ ◇


夕方。


荷を置く場所のことで、二人の男が言い争いを始めた。


「そこは俺が先に置いてた」


「置いてなかっただろう」


声が大きくなった。


片方が、相手の胸を突いた。


突かれた男がよろけて、焚き火の石に踵をぶつけた。


周りの者が、慌てて二人の間に入った。


刃物は、誰も抜かなかった。


しばらくして、二人ともノアの前に来た。


「こいつが悪い」


「違う。こいつが先に」


「ノア、決めてくれ」


ノアは、二人の話を聞いた。


どこに、いつ、誰が荷を置いたか。


聞いていくと、二人とも少しずつ思い違いをしていた。


荷の置き場所を、分け直した。


二人は、不満そうな顔のまま、それぞれの寝床へ戻っていった。


その後ろに、もう一人立っていた。


「ノア、うちの子が、隣の家の子に――」


その後ろに、また一人。


「桶の当番のことなんだが――」


ノアは、一人ずつ話を聞いた。


聞き終わる頃には、日が落ちていた。


ノアは、柱の紙を見上げた。


――困ったことは、勝手に決めずに話す


「……話せって決めたの、僕だけど」


横にいたミラが、頷いた。


「うん」


「聞く人が僕一人だと、これ、回らないね」


ミラは、少しだけ呆れた顔をした。


「今気づいたの?」


◇ ◇ ◇


焚き火のそばに、ダグが座った。


「一つ、言っとく」


「はい」


「人が増えた。夜中まで、全員知ってる顔じゃない。旅の者も泊まる。物も増えた」


ダグは、火を見ていた。


「誰かが悪いって話じゃない。だが、何か起きた時に、誰が起きてる」


ノアは、答えられなかった。


九人の頃は、要らなかった。


夜中に何か起きれば、誰かが起きた。


誰が起きても、全員が知っている顔だった。


ノアは、紙を出した。


人数を割る。


夜の長さを割る。


一人が起きていられる時間を、並べていく。


表は、作れた。


だが、その先が書けなかった。


誰と誰を組ませればいいのか。


何人いればいいのか。


起きている者は、何を見ていればいいのか。


揉め事が起きた時、どう止めればいいのか。


知らない男が夜中に歩いていた時、声をかけるべきか、放っておくべきか。


「ダグさんは、分かりますか」


「畑なら分かる」


ダグは、首を振った。


「そういうのは、知らん」


焚き火の向こうで、トビも首を振った。


◇ ◇ ◇


その次の日の昼。


丘の上に、馬が三騎見えた。


見回りの兵なら、いつものことだった。


ここ最近は、三日に一度は誰かが寄っていく。


だが、先頭の男の乗り方に、ノアは見覚えがあった。


磨かれた胸当て。


背筋の伸びた姿勢。


前に一度、泉の取り決めの紙を自分で読んでいった男だった。


男は、窪地の手前で馬を止めた。


しばらく、何も言わなかった。


火場の横の桶の列。


柱に打ちつけられた紙。


客用の小屋の前の旅人。


畑で鍬を振るう、知らない顔。


「……増えたな」


「少し」


「少しか?」


男は、馬から降りた。


「兵は」


「いません」


「人は」


ノアは、少し止まった。


前に同じことを聞かれた時は、すぐに答えられた。


九人。


「……日によって違います」


男の眉が、わずかに動いた。


「どういう意味だ」


「ローデンへ毎日働きに行く人がいます。南東へ、何日か働きに出る人もいます。仕事を待ってる人と、泊まっていく旅の人と、見回りの兵の人たちと。今朝と今夜で、数が違います」


「ここに住んでいる者は」


「それなら数えられます。二十一人」


男は、もう一度窪地を見回した。


「……そういう場所になったか」


男は、柱の紙の前まで歩いていった。


黙って、それを読んだ。


最後の一行まで。


火の形と、水の形の落書きも、一度だけ見た。


「刃物を抜いた者は、ここには置かない」


「はい」


「追い出す兵もいないのにか」


「抜いたら、ここでは泊められないし、仕事も繋げない。それだけです」


男は、しばらく紙を見ていた。


それから、ノアの方へ向き直った。


「まだ、どこにも付いていないのか」


「はい」


男は、それ以上は聞かなかった。


馬に戻り、手綱を取った。


◇ ◇ ◇


丘の向こうの詰所で、上官が報告書に目を落としていた。


以前の紙が、横に置いてあった。


――開拓領主 ノア


――人員 九


――兵力 なし


今度の紙には、こう書いてあった。


――定住者 二十一


――流民・旅人の一時滞在あり


――ローデン村との労働往来あり


――南東方面との人員往来あり


――商人・見回りの兵の利用あり


――兵力 なし


上官は、二枚を見比べた。


「人員は、何人だ」


巡察の男は、少し間を置いた。


「……日によって変わります」


上官は、しばらく黙っていた。


「兵力は」


「ありません。前と、同じです」


上官は、最後の一行を指でなぞった。


変わっていないのは、そこだけだった。


◇ ◇ ◇


夜。


ノアは、焚き火のそばで紙を見ていた。


柱の決まりを写した紙。


その下の余白に、一語だけ書いてあった。


――夜番


その横は、空いたままだった。


ミラが、隣に座った。


「決まらない?」


「誰を立たせればいいか、分からない」


「ダグさんじゃ駄目なの?」


「畑がある。夜起きてたら、昼に鍬が持てない」


「トビ?」


「馬が来たら、見る人がいなくなる」


「……じゃあ、ノア?」


「僕が起きてても、何か起きた時に止められない」


ミラは、黙った。


誰かを夜に立たせれば、その人が昼にできる仕事が減る。


それに、立たせるなら、揉め事を止められる人でないと意味がない。


ノアは、空欄を見ていた。


◇ ◇ ◇


同じ頃。


南東から続く道を、一人の男が歩いていた。


荷は、背中の袋一つ。


腰に、旅用の小刀。


剣は、持っていなかった。


首から下げた小さな木札が、歩くたびに胸元で揺れていた。


男は、丘の上で足を止めた。


窪地に、いくつもの火が灯っているのが見えた。


以前ここへ来た時より、火の数が増えていた。


男は、しばらくそれを見下ろしていた。


それから、丘を下り始めた。


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