第17話 戻ってきた男
結局、ノアはその夜のうちに表を作った。
誰を組ませればいいかは、分からなかった。
だから、人数と時間だけを割った。
起きていられる大人の名前を並べ、夜を三つに分け、順番に当てていく。
誰かが二度続けて当たることはない。
どの番も、同じ長さ。
数の上では、公平だった。
「とりあえず、これで」
ノアはそう言って、最初の番の二人に表の中身を口で伝えた。
ヨルクと、その妻だった。
◇ ◇ ◇
夜更け。
火場の横で、ヨルクは膝を抱えて座っていた。
昼は、ローデンで水はけの溝の泥をさらっていた。
妻は、少し離れたところで子供たちの寝床の方を気にしていた。
子供たちは、先に寝かされていた。
ヨルクの首が、ゆっくりと前に落ちた。
丘の上から、男が一人、下りてきた。
足音を忍ばせているわけではなかった。
普通に歩いていた。
男は、火場の横を通り、客用の小屋の前を通り、焚き火のそばまで来た。
誰も、止めなかった。
男は、焚き火の前で足を止めた。
眠りかけたヨルクを見下ろす。
「……見張りは、いないのか」
ヨルクが、跳ね起きた。
「だ、誰だ」
その声で、寝床の方がざわめいた。
一番に出てきたのは、トビだった。
馬が来るかもしれない夜は、いつも浅く眠っている。
続いて、ノアが寝床から顔を出した。
焚き火の明かりに、男の顔が浮かんでいた。
剣は、持っていなかった。
首から、小さな木札を下げていた。
ミラが、ノアの後ろから覗き込んだ。
「……あの人、前に来た人じゃない?」
男は、ノアを見た。
「また、世話になる」
ロイだった。
「見つかりました?」
ノアが聞くと、ロイは焚き火のそばに荷を下ろした。
「話は、朝でいいか」
「いいです」
ロイは、焚き火から少し離れたところに横になった。
ヨルクは、もう眠れないようだった。
◇ ◇ ◇
朝。
表の不満は、日が昇るとすぐに出た。
「昨日の夜、起きてたのに、今日もローデンだ」
ヨルクが、目の下を黒くして言った。
「明け方の番に入ってたんだが、俺は日の出と一緒に南東の話を聞きに行くつもりだった」
仕事待ちの男が言った。
ヨルクの妻が、ぽつりと言った。
「子供だけで寝かせるの、落ち着かなかった」
ノアは、表を見た。
誰も、二度続けて当たっていない。
どの番も、同じ長さ。
数の上では、何も間違っていなかった。
それでも、誰も楽になっていなかった。
◇ ◇ ◇
朝の鍋の後、ロイが焚き火のそばに座った。
ノアも、その向かいに座った。
「村の人は」
ロイは、少し黙ってから答えた。
「何人かは、見つかった」
「良かったです」
「南東の集落で、荷運びをしてる奴らがいた。オスカーって男のところだ。あんたの名前を出したら、話が早かった」
ロイは、焚き火の枝を一本つついた。
「別の村に身を寄せてる家もあった。もっと東へ行ったって話の家もある。まだ、どこにいるか分からん奴もいる」
「村へは」
「戻れん」
ロイは、短く言った。
「戻っても、畑をやる人数が足りん。家も、半分は住める状態じゃない。皆、ばらばらのところで食っていく方を選んでた」
ノアは、頷いた。
「じゃあ、これからは?」
ロイは、また黙った。
長い沈黙だった。
「……分からん」
主はいない。
軍もない。
給金もない。
村は、前の形ではもうない。
村の者たちの行き先は、少しずつ分かった。
自分の行き先だけが、まだなかった。
ロイは、顔を上げた。
「ここで、何か仕事はあるか」
◇ ◇ ◇
「何ができますか」
ノアは、いつものように聞いた。
ここへ来た人には、みんなこれを聞いてきた。
ロイは、少し眉を寄せた。
「……兵隊だ」
「それ以外で」
ロイは、口を開きかけて、閉じた。
もう一度開きかけて、また閉じた。
兵隊としてやってきたことを、別の仕事として考えたことがないようだった。
その時、焚き火の向こうで、また声が上がった。
「だから、今夜は無理だって」
別の仕事待ちの男が、柱の前で表を指差していた。
ノアの作った夜番表を写した紙だった。
「次の番、俺と、あいつの家族の爺さんが一緒だ。爺さん、夜中に起きたら朝まで咳が止まらねえんだよ」
ロイの目が、柱の紙に向いた。
立ち上がって、紙の前まで歩いていった。
黙って、それを読んだ。
名前。
番の順。
時間。
ロイは、振り向いた。
「これ、誰が組んだ」
「僕です」
「人数だけで割ったのか」
「はい」
ロイは、少し間を置いた。
「……そうか」
責める声ではなかった。
だが、その一言だけで、ノアには分かった。
何かが、はっきり間違っている。
◇ ◇ ◇
ロイは、焚き火のそばに戻ってきた。
「明日、ローデンへ行くのは誰だ」
「ヨルクさんと、マルタさん」
「南東の話を聞きに、朝早く出る奴は」
「あの人と、兄弟の二人」
「家族でここにいるのは」
ノアは、紙を見ながら答えていった。
「夜に起きてるのが、苦にならない奴は」
「……それは、聞いてないです」
ロイは、焚き火の向こうを見回した。
「旅の者は、どこで寝る」
「客用の小屋です」
「子供の寝床は」
「あっちの奥。夜は、その脇を通らない道を決めてます」
ロイは頷き、炭のかけらを拾った。
ノアの表の裏に、書き始めた。
線は太く、字は大きかった。
名前。
番の順。
見る場所。
それ以上のことは、書かなかった。
「次の日に重い仕事がある奴は、夜に入れない。同じ家から、二人いっぺんに出さない。子供が寝てる家は、どっちか一人は寝床に残す」
ロイは、名前を並べ替えていった。
「前からここにいる奴と、新しく来た奴を、一人ずつ組ませる。新しい奴は、どこに何があるか知らん。前からの奴は、知らん顔の見分けがつく」
「見る場所は」
「火場と、客用の小屋の前。それと、子供の寝床へ行く道の入口。三つだけでいい。全部見ようとすると、全部見えなくなる」
書き終えた表は、ノアのものより短かった。
番の長さも、揃っていなかった。
爺さんの名前は、どこにもなかった。
ノアは、それをしばらく見ていた。
「……こういうの、慣れてるんですか」
ロイは、炭を置いた。
「小隊を預かってた」
◇ ◇ ◇
ロイの言う小隊は、二十人ほどだったという。
誰を見張りに立たせるか。
誰を寝かせるか。
荷を誰に守らせるか。
隊の中で揉め事が起きたら、誰が最初に止めに入るか。
兵隊の仕事は、戦うことだけではなかった。
戦わない時間の方が、ずっと長い。
「それ、ここで使えます」
ノアが言った。
ロイは、ノアを見た。
「兵は、いないんだろ」
「いません」
「なのに?」
「兵じゃなくても、人は寝ますから」
ロイは、何か言いかけて、変な顔をした。
言い返す言葉が見つからないようだった。
「……しばらく、これをお願いできますか」
ノアは、ロイの書いた表を指した。
「夜番と、人をどこに置くかと。旅の人が来た時の、最初の対応も」
「行く場所が決まるまでなら」
「それでいいです」
「食う分は、自分で――」
「食べる分は、こっちから出します」
ロイの眉が、動いた。
「……雇うのか」
「夜番がいないと、客を泊められないので」
ノアは、台帳を開いた。
泊まりの代。
飼い葉の代。
見回りの兵が置いていく銅貨。
全員を養えるほどではないが、一人分なら出せる。
「宿の分から、出します」
ロイは、しばらくノアの手元の台帳を見ていた。
それから、短く言った。
「……分かった」
◇ ◇ ◇
焚き火の横で、ニルがロイの表を覗き込んでいた。
「ロイさん、字読めるの?」
「少しな」
「ノアみたいに?」
「あいつみたいには無理だ」
ロイは、表の名前の一つを指で叩いた。
「兵隊やってると、名前と数くらい読めないと困る。誰がどこの番か分からなくなる」
ニルは、目を輝かせた。
「じゃあ、名前と数が読めたら、夜番の表、読める?」
「読めるな」
ニルは、自分の名前が表にないか、端から端まで探し始めた。
もちろん、なかった。
少しして、ノアがロイに紙を差し出した。
「ローデンに行く日を、表に合わせて書いておいてもらえますか。ベルントさんとの約束で――」
ロイは、紙を押し返した。
「それは、お前が書け」
「……はい」
「約束事は、お前の字の方がいい」
◇ ◇ ◇
その夜。
ロイの組んだ夜番が、始まった。
最初の番には、ロイ自身が入った。
組ませたのは、前からいるトビだった。
何も、起きなかった。
番が替わる時、次の二人は、火場の横でちゃんと待っていた。
夜中に一度、旅の男が用を足しに立ったが、決めた道を歩いて、決めた場所へ行って、戻った。
客用の火は、日付が変わる前に誰かが灰をかけた。
ノアは、朝まで一度も起きなかった。
朝、ミラがノアの顔を見て言った。
「ノア、夜中に起きなかったね」
「起きなかった」
「前の夜は、三回くらい寝床から顔出してたでしょ」
「……数えてたの?」
「それくらい分かるよ」
◇ ◇ ◇
昼前、仕事待ちの男が二人、ロイのところへ来た。
「南東の次の話、俺の方が先に来てた」
「違う。俺の方が先に名前を言った」
ロイは、怒鳴らなかった。
二人の話を、順番に最後まで聞いた。
いつ来たか。
誰に名前を言ったか。
その時、他に誰がいたか。
ロイは、ノアの台帳を思い出したように、焚き火の方を振り返った。
「来た日は、ノアが書いてる。それで決める」
ノアが紙を見て、日付を読み上げた。
一人が、黙って頷いた。
もう一人が、不満そうに腕を組んだまま、別の話を始めた。
「で、南東へ行ったら、いくらもらえるんだ。前の連中より多いのか」
ロイは、首を振った。
「それは、俺じゃない。ノアに聞け」
男は、そのままノアの方へ歩いていった。
その日の夕方までに、ロイの前には三度、人が来た。
二度は、ロイがその場で片付けた。
一度は、ノアへ回した。
ノアの前に列ができることは、なかった。
◇ ◇ ◇
ダグは、最初の数日、ロイに近寄らなかった。
「……兵隊か」
ロイが戻った朝、ダグが最初に言ったのはそれだけだった。
ダグは、兵隊だった人間をすぐには信用できなかった。
だが、ロイは剣を持っていなかった。
誰かに命令するような口もきかなかった。
夜番の最初の番には、いつも自分が入った。
客の馬を繋ぐ場所を決める時、ロイは先にトビを探した。
「ここでいいか」
飼い葉をどれだけ出すかも、トビに聞いた。
「今夜は、このくらいか」
トビが「もう少し」と言えば、ロイはそうした。
「そこは風が抜ける」と言えば、杭の場所を変えた。
そんなやり取りが、何日か続いた。
ある夜、客の馬が一頭、夜中に落ち着かなくなった。
ロイは馬の方を一度見て、それから、寝床の方へ声をかけた。
「トビ、悪い。見てもらえるか」
トビが起きてきて、馬の首を撫でた。
ロイは、それ以上は何も言わなかった。
馬には手を出さず、火場の横の自分の番へ戻っていった。
翌朝、ハンナがダグに言った。
「ロイさん、馬のことは、ずっとトビに聞いてるね」
ダグは、しばらく黙っていた。
畑の向こうで、トビが客の馬の脚を見ていた。
「……分からんことに、口を出さんのはいい」
それだけだった。
兵隊だった男への警戒が、なくなったわけではない。
ただ、それだけは認めた。
◇ ◇ ◇
その夜、ノアは台帳の人の欄に、一行書き足した。
――ロイ
その横に、何を書くか、少し考えた。
元兵士、とは書かなかった。
――夜番 人の置き方 揉め事の最初
――西の土地に詳しい
それから、もう一行。
――食べる分 宿の代から
◇ ◇ ◇
数日が過ぎた。
新しく来た者に、寝床の場所を教えるのはロイになっていた。
西から来た者には、まずロイが話を聞いた。
村の名前や、通ってきた道を、ロイはすぐに地図の上の場所に置き換えた。
「その辺りなら、川の東の村だ。そこから南東へ出るなら、峠道を使う」
ノアの紙の上で「平原の南」とだけ書いてあった場所に、村の名前が書き足されていった。
誰も、「まだいるのか」とは聞かなかった。
ロイも、「いつまで置いてもらえる」とは聞かなかった。
ある朝、リゼがミラの袖を引いて聞いた。
「ロイさんは?」
「泉の当番の組、決めてるよ」
「じゃあ、あとで行く」
リゼはそう言って、泉の方へ走っていった。
◇ ◇ ◇
夜。
夜番の最初の番を終えたロイが、焚き火のそばに腰を下ろした。
ノアは、まだ紙を広げていた。
「変な土地だな」
ロイが言った。
「よく言われます」
「兵もいないのに、人ばかり増える」
「僕も、困ってます」
ロイは、少しだけ口の端を上げた。
笑ったのかもしれなかった。
しばらくして、ロイが言った。
「ここに来る奴は、どこにも行けない奴ばかりなのか」
ノアは、紙から顔を上げた。
「行くところがある人は、だいたい行きます」
「……そうか」
ロイは、首の木札に指をかけた。
外しはしなかった。
ただ、しばらく指で撫でていた。
◇ ◇ ◇
次の日の昼、丘の上から三人が下りてきた。
西から来たという。
ロイが、最初に話を聞いた。
どの村から来たか。
どの道を通ってきたか。
何人で出て、何人でここまで来たか。
一通り聞いて、ロイはノアを呼んだ。
「行く先を探してるそうだ。お前の方だ」
ノアが話を聞いていると、三人のうちの一人、中年の女が言った。
「……西へ戻る人がいたら、言っといてほしいんです。ヴァルツの荘には、近づかない方がいいって」
ノアは、瞬きをした。
聞いたことのない名前だった。
横で、ロイの顔色が変わった。
「ヴァルツなら、知ってる」
ノアが、ロイを見た。
「西の端の、川の北だ。小さな騎士家の荘だった。戦の時は、早いうちに旗を降ろした。獅子の側だ」
ロイは、女を見た。
「あそこで、何があった」
女は、少し言いにくそうにした。
「……飯は、食わせてもらえるんです」
「それなら」
「寝る場所もある。仕事もくれる」
女は、そこで言葉を切った。
隣の男が、続けた。
「出る時に、金を払えって言われる」
ノアは、首を傾げた。
「泊まり代ですか」
「違う」
男は、首を振った。
「入った日から、借りが増える」
◇ ◇ ◇
夜。
ロイが組んだ夜番の、最初の交代が済んだ。
窪地には、いくつもの火があった。
知らない旅人も、寝ていた。
それでも、前より静かだった。
ノアは、焚き火のそばで紙を二枚広げていた。
一枚は、人の欄。
――ロイ
――夜番 人の置き方 揉め事の最初
――西の土地に詳しい
もう一枚は、今日の昼に書いた走り書きだった。
――ヴァルツの荘 西の端 川の北
――飯と寝床と仕事はある
――入った日から、借りが増える
ノアは、二枚を並べて見ていた。
何が引っかかっているのかは、まだ分からなかった。
焚き火の向こうで、夜番が替わった。




