第18話 皆で使う分
朝の焚き火のそばで、ロイがノアの紙を覗き込んだ。
昨夜の走り書きが、一番上にあった。
――ヴァルツの荘 西の端 川の北
――飯と寝床と仕事はある
――入った日から、借りが増える
「気になるのか」
ロイが聞いた。
ノアは、少し考えた。
「近づかない方がいいなら、近づかなければいいんですよね」
「まあ、そうだな」
ロイは、それ以上は聞かなかった。
ちょうどその時、マルタが子供二人の手を引いて、焚き火の横を通りかかった。
ローデンへ出る前に、エルマのところへ子供を預けに行くところだった。
マルタの足が、一瞬だけ止まった。
すぐに、また歩き出した。
ノアは、紙を畳んでいて気づかなかった。
鍋をかき混ぜていたミラだけが、少しだけマルタの背中を見た。
◇ ◇ ◇
「これ、もう駄目だね」
ミラが、桶を一つ持ち上げて言った。
赤い縄を巻いた、共用の桶だった。
底の板の継ぎ目から、水が細く漏れている。
ダグが、畑へ出る前に桶を受け取った。
底を指で押し、板の合わせ目を覗き込む。
「……継ぎ直せんこともないが」
ダグは、しばらく桶を回していた。
それから、首を振った。
「板が腐りかけてる。直しても、すぐまた漏れる。新しいのがいる」
ダグは桶をミラに返して、畑へ出ていった。
ミラは、桶を火場の横に置いた。
そこには、他にもいくつか並んでいた。
客用の小屋に敷いた藁は、踏まれて薄くなっている。
共用の薪は、昨日の分でほとんど尽きていた。
火場で使う火かき棒も、先が曲がっている。
一つ一つは、大したことではなかった。
だが、全部直そうとすると、物が要る。
物を買うには、麦か銅貨が要る。
◇ ◇ ◇
「新しい桶、買うんでしょ」
ミラが聞いた。
「たぶん」
「藁もいるよ」
「うん」
「薪は、割ればいいけど。割る人の手もいる」
「うん」
「それと、ロイさんの食べる分も」
ノアは、台帳を開いた。
泊まりの代。
飼い葉の代。
見回りの兵が置いていく銅貨。
ロイの食べる分は、そこから出すと決めていた。
まだ、いくらかは残っている。
だが、人が増えるほど、皆で使う物も増える。
桶は、九人の頃より早く傷む。
藁は、泊まる人が増えるほど早く減る。
宿の実入りだけでは、いずれ追いつかなくなる。
◇ ◇ ◇
夕方、ヨルクとマルタがローデンから戻ってきた。
二人とも、小さな麦の袋を抱えていた。
ヨルクは、いつものように自分の家族の分を量って取った。
残りを、ミラの方へ押そうとした。
「ヨルクさん」
ノアが、それを止めた。
「毎回ヨルクさんが出すの、違う気がします」
ヨルクは、少し困った顔をした。
「でも、うちもここで暮らしてる。水も、火も使ってる」
それも、間違ってはいなかった。
その横で、マルタは自分の袋を胸に抱えたまま立っていた。
誰も、マルタに何も言わなかった。
子供が二人いる。
一日の麦は、三人が食べる分だった。
ノアは、二人を見比べた。
ヨルクが出すことも、おかしくない。
マルタが出さないことも、おかしくない。
今は、出せる人が、出したい時に出しているだけだった。
決まりでは、なかった。
◇ ◇ ◇
その夜、ノアは焚き火のそばでミラに言った。
「ここで暮らしてる人から、少しずつ出してもらった方がいいのかな」
「何を?」
「麦とか。銅貨とか。外で働いて、手間賃をもらった人から、少しだけ」
ミラは、鍋をかき混ぜる手を止めた。
「じゃあ、エルマさんは?」
「……エルマさん?」
「今日、マルタさんの子供、朝からずっと見てたよ。自分の子もいるのに」
ノアは、黙った。
「ハンナさんは、みんなの服、繕ってる。泉の当番に出てる人もいる。道の枝を払ってる人もいる。火場の灰を掻いてるのは、だいたいゲルトさん」
ミラは、焚き火の向こうを見た。
「外で麦をもらってない人は、何も出してないことになるの?」
ノアは、しばらく焚き火を見ていた。
ノアの考えだと、外で稼いだ者だけが出すことになる。
中で暮らしを回している者は、何も出していないように見えてしまう。
「……なりますね」
「なるでしょ」
◇ ◇ ◇
ノアは、紙を広げ直した。
線を、二本引いた。
――外で手間賃をもらう人
――受け取った後、無理のない分を皆の分へ
――中で皆の仕事をする人
――子供を見る 泉の当番 道の手入れ 皆の物の手入れ
――その仕事を、皆の分として数える
全員から、同じだけは取らない。
麦を出す人もいる。
銅貨を出す人もいる。
手を出す人もいる。
それぞれが、違う形で少しずつ支える。
ノアは、もう一行書き足した。
――手間賃は、まず本人の物
ヨルクやマルタがローデンでもらう麦は、ベルントからまとめてノアが受け取るのではない。
二人が受け取る。
その後、二人が皆の分として出した物だけを、ノアが預かる。
ノアが触るのは、そこからだった。
◇ ◇ ◇
翌朝。
マルタは、いつものように子供二人をエルマのところへ連れていった。
「今日も、帰ってくる?」
下の子が、マルタの袖を引いた。
マルタは、しゃがんで子供の頭を撫でた。
「帰ってくるよ」
「夕方?」
「夕方」
子供は、それで手を離した。
マルタは、ヨルクと並んで丘の方へ歩いていった。
南東へ七日働きに出られなかった理由を、ノアは改めて見ていた。
――子供二人 小さい
――日帰りなら
紙に書いたのは、それだけだった。
だが、その二行の中身は、毎朝ここで繰り返されていた。
◇ ◇ ◇
出がけのヨルクには、銅貨を少し預けていた。ローデンで、桶と藁を買ってきてもらうためだった。
銅貨は、宿の実入りから出した。
その日の昼、ノアはロイのところへ行った。
「ロイさんの食べる分なんですけど」
「ああ」
「宿の代から出すって言いましたけど、これからは、皆の分から出すことにしたいです」
「皆の分?」
「ここで暮らしてる人が、少しずつ出す分です。ロイさんの夜番も、皆のための仕事なので」
ロイは、少し考えた。
「出どころが変わっても、食えるならいい」
それだけだった。
◇ ◇ ◇
夕方。
ヨルクとマルタが、丘を下りてきた。
ヨルクの背に、新しい桶が一つ括りつけてあった。
マルタは、藁の束を抱えていた。
桶を下ろすと、ミラが赤い縄を持ってきた。
ハンナから分けてもらった、残りの縄だった。
ミラは桶の胴に、ぐるりと縄を巻いた。
マルタが、それを見ていた。
「これ、皆の?」
「うん。赤いのは皆の」
マルタは、それ以上聞かなかった。
縄の色だけで、分かったらしかった。
火場の横には、火かき棒や灰掻きが並んでいた。
その柄に、ミラが炭で小さく印を描いていった。
炎が三つ、上に伸びている形。
柱の決まりの紙で、ニルが火の字の横に描いたのと同じ形だった。
「これ、ニルの?」
横で見ていたリゼが言った。
「借りた」
「じゃあ、泉の桶には、リゼの描くやつ?」
「描いてくれる?」
リゼは、炭を受け取って、泉へ持っていく桶の縁に、波を二本描いた。
◇ ◇ ◇
その夜、マルタは、新しい桶を使った後、迷わず火場の横に戻した。
赤い縄が巻いてある方を、手前に向けて置いた。
ノアは、それを少し離れたところから見ていた。
前にも、マルタはロイの木札の焼き印を見て、どこの村の印かを言い当てた。
字は、読めない。
だが、形なら分かる。
縄の色でも、焼き印でも、炭の炎でも。
◇ ◇ ◇
ノアは、台帳に新しい欄を作った。
――皆の分
――麦 ヨルク
――銅貨 宿の代から
――使った物
――桶 一
――藁 一束
――ロイ 食べる分
泊まりの代と、飼い葉の代と、見回りの兵の銅貨も、これからは皆の分の方へ書くことにした。
宿も、窪地の皆で回している。
焚き火のそばで、ミラが覗き込んだ。
もちろん、読めない。
「それ、みんなに見せるの?」
「一応」
「見ても分からない人、多いよ」
ノアは、柱の紙のことを思い出した。
前にも、同じことを言われた。
「……じゃあ、言います」
◇ ◇ ◇
夕食の鍋を囲んだ時、ノアは皆の前で台帳を開いた。
「皆の分のことです」
焚き火のまわりが、少し静かになった。
「今、皆の分にあるのは、麦がこれくらい。銅貨がこれくらい。今日、桶を一つと、藁を一束買いました。ロイさんの食べる分も、ここから出します」
ノアは、一つずつ読み上げた。
何にいくら使ったか。
何が残っているか。
外で手間賃をもらう人は、受け取った後に、無理のない分だけ皆の分へ。
中で皆の仕事をする人は、その仕事を皆の分として数える。
手間賃は、まず本人の物。
言い終わると、仕事待ちの男の一人が聞いた。
「それ、税ってことか?」
ノアは、少し困った。
「たぶん、似たようなものです」
「領主に払うのか」
「僕にじゃないです」
ノアは、火場の横の赤い縄の桶を指した。
「あれとか。泉の道とか。客用の藁とか。皆が使う物に、です」
鍋の向こうで、ミラが言った。
「領主なのに、自分の分ないの?」
「桶、一人で使わないし」
誰かが、小さく笑った。
◇ ◇ ◇
鍋の後、ノアは改めて、家族ごとの人数を紙で確かめていった。
無理のない分を決めるには、人数だけでは足りない。誰が働けて、誰を養っているのかも知る必要があった。
マルタの欄には、こう書いてあった。
――母親
――子供二人
ノアは、焚き火の向こうのマルタに聞いた。
「旦那さんは」
マルタは、少し黙った。
子供二人は、もうエルマの寝床の方で眠っていた。
「……村を出る時は、一緒でした」
マルタは、焚き火を見ながら言った。
「逃げる途中の夜に、はぐれました。人が多くて、暗くて。朝になったら、いなかった」
「それから」
「分かりません」
マルタは、膝の上で手を組んだ。
「生きてるのか、どこにいるのか。探しに戻ろうにも、この子たちを連れては」
それ以上は、言わなかった。
頼れる親類の行方も、分からない。
今は、マルタが働かなければ、三人とも食べられない。
ノアは、紙に書き足した。
――夫 逃げる途中ではぐれる 行方知れず
書きながら、ロイのことを少しだけ思い出した。
ロイも、村の者を探して南東まで歩いた。
マルタには、探しに行く足がなかった。
◇ ◇ ◇
翌日の夕方、マルタは自分の袋から麦をほんの少しだけ量って、皆の分の袋へ入れた。
多くはなかった。
ヨルクが出した分の、半分にも足りなかった。
ノアは、何も言わなかった。
子供二人だから多く、とも言わなかった。
子供がいるから出さなくていい、とも言わなかった。
「……これで、いいですか」
マルタが聞いた。
「無理のない分なら」
ノアはそう言って、台帳の皆の分の欄に、マルタの名前と量を書いた。
◇ ◇ ◇
翌朝。
いつもの朝だった。
ヨルクとマルタが、ローデンへ出る支度をしていた。
マルタは、子供二人をエルマのところへ連れていった。
下の子が、また袖を引いた。
「今日も、帰ってくる?」
マルタは、笑った。
「夕方にはね」
子供が手を離した。
マルタは、ヨルクと並んで丘へ向かった。
火場の横に、赤い縄の桶が並んでいた。
火かき棒には、炭の炎。
泉の桶には、二本の波。
ノアは、丘を越えていく二人の背中を見送った。
いつもの、日帰りの仕事だった。
何も、変わったことはなかった。




