第19話 帰ってこない人
丘を一つ越えたところで、ヨルクが口を開いた。
「この前のヴァルツってところ」
マルタの足が、少しだけ遅くなった。
「知ってるのか」
マルタは、しばらく答えなかった。
二つ目の丘の坂にかかったところで、ようやく言った。
「……夫が、昔そこで働いたことがあるの」
「出稼ぎか」
「戦が来る前。畑の暇な時期に、何度か」
マルタは、坂の上の方を見ながら話した。
「飯は出たって。寝るところもあったって。仕事も、ちゃんとあったって」
「悪くないじゃないか」
「……帰ってきた時、言ってたの。働いたのに、まだ借りがあるって言われたって」
ヨルクは、黙った。
「私は、行ったことない。どういうところかも、知らない。夫も、あまり話さなかった」
マルタは、それ以上は言わなかった。
夫とは、東へ逃げる途中の夜にはぐれた。
死んだところは、見ていない。
生きているのかどうかも、分からない。
◇ ◇ ◇
ローデンでの仕事は、いつもと同じだった。
水はけの溝の泥をさらい、掘り起こした石を畑の端へ運ぶ。
日が傾く前に、ベルントがそれぞれに麦の袋を渡した。
ヨルクに一つ。
マルタに一つ。
いつもなら、二人はそのまま丘を越えて帰る。
その日は、村の入口に荷車が一台停まっていた。
牛に引かせた、大きな荷車だった。
荷台の脇で、男が二人、ベルントと話していた。
「人足が要る。西街道の普請だ。若いのを何人か出してもらえんか」
「うちに人は余っとらん」
ベルントは、腕を組んだまま首を振った。
「若いのは、獅子の陣に取られとる。残っとるのは年寄りと女だ」
男たちは、残念そうに肩をすくめた。
マルタは、その荷車を見ていた。
荷台の板の端に、焼き印が押してあった。
丸の中に、横に一本線が入っている。
マルタの足が、止まった。
同じ印を、知っていた。
夫が出稼ぎから帰ってきた時、持って帰ってきた木の椀。
その底に、同じ形が焼きつけてあった。
村を逃げ出す時、あの椀も荷に入れた。
今も、窪地の寝床の脇に置いてある。
子供たちの粥を、毎朝それによそっている。
◇ ◇ ◇
「マルタ?」
ヨルクが振り返った。
マルタは、荷車の男たちの方へ歩いていった。
「あの」
男の一人が、顔を向けた。
「この印の人たちは、ヴァルツの人ですか」
男は、荷台の焼き印に目をやった。
「そうだが」
「リード村のペーターって人を、知りませんか。昔、ヴァルツで働いてたんです」
男は、しばらくマルタを見ていた。
それから、もう一人の男を呼んだ。
腰に革の袋を下げた、痩せた男だった。
痩せた男は、袋から紐で綴じた小さな帳面を出して、指で頁をめくった。
「……リード村。ペーター」
指が止まった。
「あんたは」
「妻です」
痩せた男は、帳面から顔を上げた。
「亭主のことで、話がある」
◇ ◇ ◇
「夫を、知ってるんですか」
「知ってる」
痩せた男は、帳面を閉じた。
「戦が始まってからも、一度こっちへ来てる。その後、西街道の普請に回った」
マルタの手が、麦の袋を強く握った。
戦が始まってからも、ここへ来ていた。
少なくとも、戦が始まった後までは生きていた。
「今は、どこに」
「詳しい帳面は、普請場の帳場にある。ここに持ってるのは、人足集めの控えだけだ」
「普請場は」
「西街道の、橋の向こうだ」
横で聞いていたヨルクが、言った。
「今から行ったら、今日は戻れないだろ」
「今からなら、この荷車で行ける」
痩せた男は、荷車を顎で示した。
「明日の昼に、こっちへ戻る荷がある。それに乗れば、夕方には帰れる」
マルタは、答えなかった。
子供たちの顔が、浮かんでいた。
◇ ◇ ◇
「明日、本当に戻れますか」
マルタが聞いた。
「戻る荷がある」
「昼ですか」
「遅くても、昼過ぎにはこの村へ戻る」
「ここまで、ですか」
「この村までだ。ここからは、自分で歩け」
マルタは、しばらく荷車の焼き印を見ていた。
それから、ヨルクの方へ向き直った。
自分の麦の袋を、差し出した。
「これ、持って帰って」
「……子供たちに?」
「うん」
マルタは、袋をヨルクの手に押しつけた。
「エルマさんに、明日には帰るって伝えて。明日の夕方には、必ず」
ヨルクは、袋を受け取ったまま、マルタの顔を見た。
「俺も行こうか」
「駄目」
マルタは、すぐに首を振った。
「ヨルクさんにも、子供がいるでしょ。明日も、ローデンの仕事がある」
「だが」
「話を聞いて、帰るだけだから」
マルタは、荷車の方を振り返った。
「村の長のところへ、ちゃんと人集めの話をしに来てる人たちでしょ。盗賊じゃない。夫の帳面が、そこにあるって言うんだから」
ヨルクは、何か言いかけて、やめた。
マルタは、荷車の後ろに乗った。
牛が動き出した。
ヨルクは、麦の袋を二つ抱えて、村の入口に立っていた。
荷車が、西の道へ小さくなっていった。
◇ ◇ ◇
夕方。
丘の上に、人影が一つ現れた。
ヨルクだった。
エルマのところで遊んでいたマルタの子供二人が、立ち上がった。
「お母さんは?」
上の子が聞いた。
ヨルクは、しゃがんで二人と目の高さを合わせた。
「明日、帰るって」
「明日?」
「うん。明日の夕方には、必ずって」
下の子は、しばらくヨルクの顔を見ていた。
それから、丘の上を見た。
ヨルクは、エルマにマルタの麦の袋を渡した。
「夫のことで、分かったことがあるらしい。ヴァルツの普請場まで、一晩だけ行った。明日の昼頃に戻る荷車で帰るそうだ」
エルマは、袋を受け取った。
「……ヴァルツ?」
焚き火のそばで話を聞いていたノアが、顔を上げた。
「ヴァルツの普請場、ですか」
「西街道の、橋の向こうだそうだ」
ヨルクは、道中でマルタから聞いた夫の話も伝えた。
出稼ぎ。
飯と寝床と仕事。
働いたのに、まだ借りがあると言われた、という話。
ノアは、黙って聞いていた。
袋の中には、ヴァルツのことを書いた走り書きがある。
――入った日から、借りが増える
鍋のそばで、ミラが言った。
「マルタさん、この前、ヴァルツって聞いた時に、足止めてた」
ノアが、ミラを見た。
「……そうなんだ」
「ノアとロイさんが話してた時。すぐ歩いてったけど」
ノアは、焚き火を見た。
気にはなった。
だが、マルタは自分で決めて行った。
帰りの荷車も確かめた。
子供の麦も、預けていった。
明日の夕方には帰る、と自分で言った。
大人が自分で決めたことを、ノアが止める話ではなかった。
「……明日、待ちましょう」
◇ ◇ ◇
西街道の橋を越えた先に、ヴァルツの普請場はあった。
マルタが荷車を降りた時には、もう日が暮れかけていた。
意外なほど、普通の場所だった。
丸太で組んだ小屋が、いくつも並んでいる。
焚き火があり、鍋があった。
土にまみれた男たちが、椀を手に粥をすすっていた。
笑い声も、聞こえた。
鎖で繋がれている者は、いなかった。
見張りが槍を構えて立っている、ということもなかった。
飯は、食わせてもらえる。
寝る場所も、ある。
仕事も、くれる。
聞いていた通りだった。
◇ ◇ ◇
帳場は、一番奥の小屋だった。
中には机が一つあり、その上に、分厚い帳面が何冊も積まれていた。
机の向こうに、中年の男が座っていた。
身なりは、整っていた。
指に、墨の跡があった。
「リード村のペーターの女房か」
帳場の男は、人足集めの男から話を聞くと、帳面を一冊引き寄せた。
慣れた手つきで、頁をめくる。
「あった」
男は、帳面をマルタの方へ向けた。
マルタには、読めなかった。
並んだ字と、並んだ数字。
それが、夫のことだと言われても、どこが夫なのかも分からない。
「働いた日が、これだけ。日当が、これ。食った分が、これ。寝床の分が、これ。道具の分が、これ」
男は、指で行を追いながら、読み上げていった。
「椀」
マルタの肩が、小さく動いた。
「……椀?」
「働きに来る者には、椀と匙を貸す。持って帰った者は、その分が借りに付く」
マルタは、黙った。
窪地の寝床の脇にある、あの木の椀。
子供たちの粥をよそう、あの椀。
「夫は、働いたって言ってました」
「働いてる。その分も、ちゃんと引いてある」
男は、一番下の行を指で叩いた。
「引いて、残ったのがこれだ」
マルタには、その数字がどれほどのものなのか、分からなかった。
分かったのは、残っている、ということだけだった。
◇ ◇ ◇
「夫は、今どこにいるんですか」
マルタが聞いた。
帳場の男は、別の帳面を開いた。
「戦が始まって、しばらくしてから一度戻ってきた。村がどうなったか分からん、家族ともはぐれた、と言っていたそうだ」
マルタの指が、膝の上で握られた。
「それで、西街道の普請に入った。その後、もっと西の普請場へ回された」
「そこでは」
「そこから先の帳面は、ここにはない」
男は、帳面を閉じた。
「向こうの帳場で、どうなってるかは知らん」
夫は、生きていた。
少なくとも、はぐれた夜より後に、ここまで来ていた。
家族を探していた。
それ以上のことは、分からなかった。
◇ ◇ ◇
「それで」
帳場の男は、最初の帳面をもう一度開いた。
「亭主には、これだけ残っている」
「それは、夫の借りでしょう」
マルタは言った。
「家の借りだ」
男の声は、変わらなかった。
「亭主は、家のために働きに来た。家族を食わせるために、ここで飯を食い、ここで寝て、ここで道具を借りた。その借りは、家の借りだ」
「でも、私は」
「ここでは、そう書く」
男は、帳面の上に手を置いた。
「そう書いてある」
マルタには、言い返す言葉がなかった。
字は、読めない。
数字も、読めない。
帳面にそう書いてあると言われれば、それが本当かどうか、確かめる手立てがなかった。
マルタは、少し黙ってから言った。
「……分かりました。でも、今日はもう遅いので。明日の荷車で帰ります」
帳場の男は、帳面を閉じた。
「その話は、明日しよう」
それだけだった。
止められは、しなかった。
マルタは、小屋の一つに寝床を貸してもらった。
藁の上に横になって、窪地の子供たちのことを考えた。
明日の朝には、荷車に乗る。
夕方には、帰る。
◇ ◇ ◇
窪地の二日目は、普通の朝から始まった。
マルタの子供二人は、エルマのところで朝の粥を食べた。
下の子は、何度か丘の方を見た。
「夕方には戻るんでしょう」
エルマは、そう言って二人の頭を撫でた。
ヨルクは、いつものようにローデンへ出ていった。
昼に戻る荷車のことを、気にしていた。
◇ ◇ ◇
夕方。
丘の上に、人影は現れなかった。
日が落ちかけても、現れなかった。
上の子が、エルマの袖を引いた。
「お母さん、今日だよね」
「……そう聞いてるよ」
エルマは、子供を膝に引き寄せた。
ヨルクが、ローデンから戻ってきた。
一人だった。
「荷車は、来なかった」
ヨルクは、ノアに言った。
「昼過ぎまで村で待ったんだが、ヴァルツの荷は来なかった」
ノアは、丘の方を見た。
荷車が遅れたのかもしれない。
雨で道が悪くなったのかもしれない。
話が長引いたのかもしれない。
理由は、いくらでも考えられた。
だが、ノアは紙を出して、一行書いた。
――マルタ 帰る日 今日の夕方
その横は、空いたままだった。
◇ ◇ ◇
同じ頃。
普請場の荷車置き場で、マルタは帳場の男に行く手を塞がれていた。
「昼の荷車は」
「もう出た」
「乗るって言いましたよね」
「借りの話が、まだ終わっていない」
男は、穏やかな声で言った。
「帰るって話でした。昨日、明日しようって」
「だから、今日している」
「私は、借りてません」
「亭主が借りている」
「なら、夫に言ってください」
「いないから、家族に言っている」
マルタは、男の顔を見た。
男の表情は、昨日と変わらなかった。
怒鳴りもしない。
手も、上げない。
ただ、荷車置き場の出口の前に立っていた。
「借りをどうするか、決めてからだ。それまでは、ここで働けばいい。飯も出す。寝床もある」
飯は、食わせてもらえる。
寝る場所も、ある。
仕事も、くれる。
マルタは、ようやく分かった。
◇ ◇ ◇
三日目の朝。
マルタは、戻っていなかった。
子供二人は、朝の粥をほとんど食べなかった。
上の子は、黙って丘の方を見ていた。
下の子は、エルマの膝から離れなかった。
エルマが、ノアのところへ来た。
「明日には帰るって、言ったんだよ」
エルマの声は、低かった。
「あの人が、子供を置いて、自分で言った日を守らないなんて、ない」
ノアは、紙を見た。
――マルタ 帰る日 今日の夕方
昨日の日付の行だった。
遅れているのではなかった。
帰れない理由が、あるのだった。
◇ ◇ ◇
ノアは、ロイを呼んだ。
「ヴァルツの普請場まで、どれくらいですか」
「西街道の橋の向こうなら、ローデンから歩いて半日もかからん」
「荷車が、これだけ遅れることは?」
ロイは、少し考えた。
「道が潰れてなければ、普通はない。ここ何日か、雨も降ってない」
ノアは、ヨルクを見た。
「帰りの荷車があるって言ったのは、向こうの人ですよね」
「ああ。明日の昼に、こっちへ戻る荷がある、と。はっきり言ってた」
帰る予定は、最初からあった。
マルタが自分で確かめて、向こうが請け合った予定だった。
ノアは、紙に書き出していった。
――マルタ 日帰りの仕事でローデンへ ここから送り出した
――子供二人 ここに残っている
――エルマさん 予定より長く預かっている
――ローデン 二人の約束が一人になっている
――マルタ 自分で決めた帰る日を過ぎている
書き終えて、ノアは紙を見下ろした。
もう、よその土地の借金の話ではなかった。
◇ ◇ ◇
ノアは、袋から走り書きを出した。
――ヴァルツの荘 西の端 川の北
――飯と寝床と仕事はある
――入った日から、借りが増える
前にこれを書いた時、何が引っかかっているのかは分からなかった。
今は、分かった。
マルタが帰ってこない。
マルタの夫にも、働いたのに借りが残っていた。
「ロイさん」
「なんだ」
「ヴァルツの普請場まで、行けます?」
「道は分かる」
ミラが、鍋の手を止めていた。
「マルタさん、迎えに行くの?」
ノアは、少し考えた。
「まず、話を聞きに」
「話?」
「どうして、帰るって言った人が帰れないのか。旦那さんの借りが、どうしてマルタさんまで止めるのか」
ノアは、紙を畳んだ。
「帳面があるなら、見せてもらいます」
◇ ◇ ◇
出る前に、ロイは夜番の表を組み直した。
自分のいない日の分を、炭で書き足していく。
番の頭には、トビとダグの名前を入れた。
「新しい奴と組ませるのは、今まで通りだ。見る場所も、三つのまま」
ロイは、表を指で追いながら、番の順を一人ずつ口で伝えた。
それから、表をトビに渡した。
「困ったら、ミラに聞け。人のことは、あいつが一番見てる」
トビは、表を受け取って頷いた。
ダグは、表を横から覗き込んで、しばらく黙っていた。
「……分かった」
◇ ◇ ◇
マルタの子供二人は、エルマの横で丘の向こうを見ていた。
昨日も、今日も、母親は戻らなかった。
寝床の脇には、底に焼き印の入った木の椀が、一つ置いてあった。
その横で、ノアとロイが、西へ向かう支度をしていた。




