第20話 帳面の向こう側
ローデンを抜けて、西街道に出た。
前に落ちて、直った橋を渡る。
その先で、道の様子が変わった。
路肩に、切り出した石が積み上げてある。
丸太が、何十本も並べて寝かせてある。
荷車の轍が、何本も重なって土を抉っていた。
さらに進むと、丸太で組んだ小屋が見えてきた。
一つではなかった。
十、二十と、道に沿って並んでいる。
焚き火。
鍋。
道具置き場。
土にまみれた男たちが、石を担ぎ、土を掘り、丸太を運んでいた。
「……こんなにいるんだ」
ノアが言った。
窪地の二十一人が、小さく思えた。
ロイは、しばらく黙って普請場を見回していた。
「足りてないな」
「え?」
「この長さの道を直す人数じゃない」
ロイは、道の先を顎で示した。
「見ろ。あそこの班、石が来るのを待ってる。運ぶ奴が足りないんだ。あっちは、道具が積んであるのに、持つ奴がいない」
言われて見ると、あちこちで手が止まっていた。
石を割る男たちが、座り込んで荷車を待っている。
鍬が何本も、使われないまま立てかけてある。
一つの班が、半分の人数で道を掘っていた。
「人が多く見えるのは、動かずに待ってる奴が多いからだ」
ロイは、そう言った。
◇ ◇ ◇
帳場は、普請場の一番奥の小屋だった。
戸口をくぐると、机の向こうに中年の男が座っていた。
身なりは整っている。
指に、墨の跡があった。
男は、帳面から顔を上げた。
「何の用だ」
「マルタさんという人が、ここに来てると思うんですけど」
男は、少しだけノアを見た。
「いる」
あっさりとした答えだった。
◇ ◇ ◇
マルタは、普請場の炊き出し場で鍋をかき混ぜていた。
鎖も縄も、なかった。
ただ、炊き出し場の脇には、帳場の下で働く男が一人、何をするでもなく立っていた。
マルタは、ノアを見て手を止めた。
「……どうして」
「帰ってこなかったので」
ノアは、それだけ言った。
マルタの顔が、くしゃりと歪んだ。
「子供たちは」
「エルマさんが見てます。二人とも、ちゃんと食べてます」
マルタは、柄杓を握ったまま、しばらく動かなかった。
◇ ◇ ◇
帳場に戻ると、ノアは机の前に立った。
「どうして、帰れないんですか」
「ペーターの借りが残っている」
男は、机の脇の棚から帳面を一冊抜き出した。
慣れた手つきで頁をめくり、机の上でノアの方へ向けた。
マルタにそうした時と、同じ手つきだった。
「ここに書いてある」
ノアは、帳面を覗き込んだ。
指で、行をたどる。
リード村。ペーター。
日付。
働いた日数。
日当。
飯。寝床。道具。
残った借り。
ノアの指が、一行ずつ下へ降りていく。
途中で頁をめくり、また上から追い直す。
男の目が、ノアの指を追っていた。
「……読めるのか」
「読めます」
ノアは、帳面から顔を上げずに答えた。
男は、少しのあいだ黙っていた。
「ヘルマンだ」
男は、そう名乗った。
「ここの帳場と、普請の段取りを預かっている」
「ノアです。東の開拓地の」
「聞いたことがある。人の行き先を知ってる男がいると」
ヘルマンは、ノアの手元の帳面を見た。
それを、裏返しはしなかった。
◇ ◇ ◇
帳面には、二つの時期があった。
一つ目は、戦の前だった。
ペーターは、畑の暇な時期にヴァルツへ来ている。
仕事を回され、飯を食い、寝床を借り、道具を借りた。
日当から、その分が引かれていた。
最後に、少しだけ借りが残っていた。
椀。
その字も、あった。
そして、その後の日付がない。
仕事の区切りで、ペーターは帰っている。
「前は、借りが残ってても帰れたんですよね」
ノアが聞いた。
戸口の外で、帳場の男に付き添われて立っていたマルタが、小さく頷いた。
「……はい。最初の時は、帰ってきました」
ノアは、ヘルマンを見た。
ヘルマンは、少し黙った。
「戦の前は、な」
「今は、違うんですか」
「借りの残った者を帰せば、戻ってこない。村が焼けた、逃げた、死んだ。回収できん借りが、帳面に溜まる一方になった」
ヘルマンは、机の上で指を組んだ。
「だから、今は借りが残っている者は帰さない。次の仕事に回す」
「本人がいなかったら」
「家に残る」
「それも、最初からの決まりですか」
ヘルマンは、答えなかった。
ノアは、帳面に目を戻した。
最初の時には、なかった決まりだった。
ペーターが初めてここへ来た頃には、少なくとも。
途中で、変わっていた。
◇ ◇ ◇
二つ目の時期は、戦の後だった。
ペーターは、一度ここへ戻ってきている。
村も家族も分からないまま、金も食べ物もなく、知っている場所へ来た。
割に合わないと分かっていても、飯と寝床と仕事だけは確かにある場所へ。
それから、西街道の普請に入っていた。
ノアは、そこから日付を一日ずつ追っていった。
「この日、ペーターさんは一日働いてますよね」
「そうだ」
「日当が、六枚」
「そうだ」
「飯が二枚。寝床が一枚。道具が一枚」
ノアは、指を折った。
「残るのは二枚。この日は、借りが二枚減ってます」
「そうなるな」
ノアは、次の行へ指を下ろした。
「次の日は、日当がありません」
ヘルマンの目が、わずかに動いた。
「待ちだ。その日は、石が来なかった」
「飯が二枚。寝床が一枚。借りが三枚、増えてます」
ノアは、次の行を見た。
働いた日。
二枚、減る。
働いた日。
二枚、減る。
待ちの日。
三枚、増える。
待ちの日。
三枚、増える。
働いた日。
二枚、減る。
ノアは、しばらく帳面の上で指を止めていた。
「……五日いて、一枚も減ってない」
誰も、何も言わなかった。
ノアは、さらに頁をめくった。
同じ並びが、続いていた。
働いた日の横に、待ちの日が点々と挟まっている。
待ちの日が続いた週は、借りが目に見えて戻っていた。
「働いてないから、返せないんじゃないですね」
ノアは、帳面から顔を上げた。
「働けない日にも、借りだけ増えるから、返せないんだ」
ヘルマンが、低く言った。
「待ちは、こっちが望んでるわけじゃない。人が足りんのだ。荷を運ぶ者がいなければ、石は来ない。石が来なければ、割る者は待つしかない」
「人が足りないから、待ちが出る」
ノアは、ゆっくり言った。
「待ちが出るから、借りが増える」
ヘルマンは、何も言い返さなかった。
◇ ◇ ◇
帳面を戻そうとした時、ノアの目が机の端に向いた。
紙が、何枚か重ねて置いてあった。
伏せては、いなかった。
一番上の紙に、見出しが見えた。
――西街道普請 人足手当
その下に、数字が並んでいる。
――人足一人 一稼働日 銅貨十二
その横に、もう一枚。
別の筆跡で、書き込みがあった。
――契約 三十
――報告 三十
――検分時 二十四
――次回までに合わせよ
ノアは、帳面を戻す手を止めた。
「これは?」
ヘルマンが、紙の方を見た。
ほんの一瞬、手が動きかけた。
だが、紙を伏せはしなかった。
もう、読まれていた。
「普請方から来た紙だ」
「こっちは、一人一稼働日で十二枚って書いてあります」
「そうだ」
「ペーターさんの日当は、六枚でした」
ヘルマンは、少し黙った。
「この差は、何ですか」
「手配の分だ」
「手配?」
ヘルマンは、ノアの顔を見た。
本当に知らないのか、と確かめるような目だった。
「人を集める。どういう仕事か、どれだけ払うか、飯は出るか、何日か。それを一人ずつ説明する。約束を書く。人数を揃える。ここまで連れてくる。帳面をつける。揉めたら間に入る」
ヘルマンは、指を折っていった。
「人足の多くは、字が読めん。普請方の出した紙を見ても、何も分からん。だから、読める者が間に立つ。その手間に、金がかかる」
「……普通のことなんですか」
「どこでもやっている。うちだけじゃない」
ノアは、紙の上の十二と、帳面の六を見比べた。
普請方から、人を揃える手間の分を受け取る。
人足からは、飯と寝床と道具の分を引く。
借りが残れば、次の仕事へ回す。
人と仕事の間に立つこと。
それ自体が、商売になっていた。
ノアは、窪地のことを思い出した。
オスカーに人を送った時も、ベルントに人を回した時も。
ノアは、何も受け取っていなかった。
受け取るものだと、考えたこともなかった。
◇ ◇ ◇
「明日の朝、旦那様が来る」
ヘルマンが、机の紙を束ねながら言った。
「その紙の件でな。検分で数が合わなかった。人の数と、道の進み具合を見に来られる」
「旦那様?」
「ヴァルツの当主だ」
ヘルマンは、ノアを見た。
「マルタのことは、俺の一存では決められん。明日、旦那様に言え」
◇ ◇ ◇
その夜、ノアとロイは普請場の端の焚き火を借りた。
少し離れたところで、マルタが炊き出しの後片付けをしていた。
帳場の下の男が、今夜も炊き出し場の脇に立っていた。
片付けを終えたマルタが、焚き火の方へ少しだけ寄ってきた。
「あの子たち、朝、ちゃんと食べてますか」
「食べてます」
ノアは言った。
「エルマさんが、マルタさんの椀で粥をよそってました」
マルタは、何か言おうとして、口を閉じた。
底に焼き印の入った、あの椀。
帳面の上では、借りの一行になっている椀。
マルタは、小さく頷いて、炊き出し場の方へ戻っていった。
ロイが、火に枝をくべた。
「数えたのか」
「数えました」
「どうだった」
「五日いて、一枚も減らない週がありました」
ロイは、しばらく黙っていた。
「兵隊の給金も、似たようなもんだった。装具の分を引かれて、手元にはほとんど残らん」
「帰れましたか」
「戦が終われば、帰れた」
ロイは、首の木札を指で弾いた。
「帰る場所があればな」
◇ ◇ ◇
翌朝、日が昇って間もなく、普請場に馬が三頭入ってきた。
先頭の男は、四十を過ぎたくらいに見えた。
上等な外套を着ていたが、飾り気はなかった。
馬を降りると、すぐに帳場へは向かわなかった。
道を歩いた。
掘りかけの場所を見た。
石を割る班の前で足を止め、何人いるか数えた。
荷車の列を見た。
立てかけてある鍬の本数を、指で数えた。
ヘルマンが、後ろについて歩きながら答えていった。
「この班は」
「八人の予定でしたが、今は五人です」
「残りは」
「二人は熱を出して寝ております。一人は、三日前にいなくなりました」
「荷は」
「運ぶ者が足りず、昼まで石が来ない日があります」
当主は、道の先を見た。
「次の検分は、二十日後だ」
「はい」
「それまでに、帳面と現場の数を揃えろ。人が足りないなら、集めろ」
「集めてはおります。ですが」
「集めろ」
当主の声は、大きくなかった。
ヘルマンは、それ以上言わなかった。
当主は、ちゃんと現場を見ていた。
何人足りないかも、何が止まっているかも、正確に分かっていた。
その上で、集めろ、と言った。
◇ ◇ ◇
帳場へ戻る途中で、当主はノアとロイに目を留めた。
「あれは」
ヘルマンが、低い声で事情を話した。
ペーターの女房。
東の開拓地。
人の行き先を知っている男。
当主は、ノアの前で足を止めた。
「開拓地の領主か」
「一応」
「用件は」
「マルタさんを、帰してもらえませんか」
「借りを返せば、帰れる」
「いくらですか」
当主は、横のヘルマンを見た。
ヘルマンが、低い声で答えた。
「銅貨で、百四十枚」
ノアは、黙った。
昨日、帳面の一番下で見た数字と同じだった。
窪地の皆の分にある銅貨を全部集めても、その十分の一にも届かない。
「……マルタさん本人の借りじゃないですよね」
「家の借りだ」
「昔は、借りが残っても帰れたと聞きました」
「昔とは、違う」
当主は、普請場を見渡した。
「戦で、家を失った者がどれだけいると思う。金のない者、食う物のない者、仕事のない者。西からも北からも、毎日流れてくる」
当主の声は、落ち着いていた。
「飯を先に食わせる者がいなければ、そいつらは働く前に死ぬ。寝床も、道具も、こちらが先に出している。出した分を、帰るたびに踏み倒されたらどうなる」
当主は、ノアを見た。
「次に来た者に、何を食わせる」
ノアは、答えなかった。
「お前は、何人養える?」
ノアの頭に、窪地の焚き火が浮かんだ。
西から十六人が来た最初の夜。
今夜だけなら、場所はある。
食べ物は、出せない。
泊めることはできる。
養うことは、できない。
「……養えてません」
ノアは、正直に言った。
「泊めるだけで、食べさせてはいません」
「なら、分かるだろう」
「そうですね」
ノアは、頷いた。
当主の言うことは、間違っていなかった。
ここには、飯と寝床と仕事が、確かにある。
それで、今日を生き延びている者たちがいる。
窪地には、寝る場所はある。仕事へ繋ぐこともできる。
だが、食べ物までは出せない。
ノアは、懐から紙を出した。
昨日、ペーターの帳面を追いながら写した数字だった。
「でも」
当主が、紙に目をやった。
「この人たち、いつ借りを返し終わるんですか」
「働けば返る」
「働いた日に二枚減って、待ちの日に三枚増えます」
ノアは、紙の上の数字を指でなぞった。
「ペーターさんの帳面だと、五日いても、一枚も減ってない週があります。この数字だと、ほとんど減ってないです」
普請場の音が、少し遠くなったような気がした。
ヘルマンが、当主の横顔を見た。
当主は、紙からノアの顔へ目を戻した。
「一人の帳面を見ただけで、何が分かる」
「ペーターさんの分だけです」
「そのペーターは、途中で消えた。だから残っている」
当主は、ノアの紙から目を離した。
「女房は、帰さん」
それから、ロイの方を一度だけ見た。
「お前たちに借りはない。止める理由もない。好きに帰れ」
当主は、帳場の方へ歩いていった。
ヘルマンが、その後に続いた。
戸口をくぐる前に、ヘルマンは一度だけノアの方を振り返った。
何も言わなかった。
◇ ◇ ◇
帰り道。
西街道の橋を渡った。
ノアは、ずっと黙っていた。
マルタは、連れて帰れなかった。
炊き出し場を離れる時、マルタは鍋の前から一度だけこちらを見た。
それだけだった。
丘の手前で、ロイが言った。
「どうする」
ノアは、すぐには答えなかった。
懐の紙を出して、歩きながら見た。
ペーターの帳面を写した数字。
働いた日と、待ちの日。
その下に、もう一行。
――普請方 一人一稼働日 十二
――人足の日当 六
ノアは、しばらくその二行を見ていた。
「仲介料が、気になるのか」
ロイが言った。
「仲介って、普通なんですか」
「俺は兵隊だったから、詳しくない」
ロイは、少し考えてから続けた。
「ただ、字が読めない奴が仕事を探すなら、誰か通すだろ。読める奴を」
「……読めないから」
ノアは、紙を見たまま呟いた。
窪地の火場の横に並んだ、赤い縄の桶。
火かき棒の柄の、炭の炎。
泉の桶の、二本の波。
マルタが見分けた、木札の焼き印。
ノアは、紙を懐に戻した。
◇ ◇ ◇
窪地に着いたのは、日が暮れてからだった。
焚き火のそばで、ミラが待っていた。
「マルタさんは?」
「まだ、帰せませんでした」
ミラは、何も言わなかった。
エルマの寝床の方で、子供が二人、寄り添って眠っていた。
寝床の脇に、底に焼き印の入った木の椀が置いてあった。
ノアは、焚き火のそばに座って、紙を広げた。
写してきた数字を、整えて書き直した。
――普請方 → ヴァルツ 人足一人一稼働日 十二
――ヴァルツ → 人足 日当 六
――働いた日 飯二 寝床一 道具一 残り二
――待ちの日 日当なし 飯二 寝床一 借り三増
ノアは、それを長いあいだ見ていた。
ペーターの帳面は、一冊だけだった。
普請場には、何十人もいた。
「……他の人も、同じなのかな」
誰に言うでもなく、ノアは呟いた。
前にヴァルツの名前を書いた時、ノアは、近づかない方がいいなら近づかなければいい、と思った。
今は、違った。
調べる理由が、あった。




