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第21話 同じ数字

翌朝、ノアは焚き火のそばで紙を広げていた。


昨夜、普請場から写してきた数字を整えたものだった。


ミラが、鍋をかき混ぜながら横に座った。


もちろん、読めない。


「それ、マルタさんの旦那さんの?」


「うん。ペーターさんの帳面」


ノアは、指で行をたどった。


「働いた日は、日当が六枚。そこから飯で二枚、寝床で一枚、道具で一枚引かれる。残りが二枚。その日は、借りが二枚減る」


「うん」


「次の日は、待ち。石が来なくて、仕事がなかった日。日当は出ない。でも、飯と寝床の分は付く。借りが三枚増える」


ミラの手が、止まった。


「それが、ずっと?」


「三日働いて、六枚減ってる。でも、その間に二日待ちがあって、そこで六枚増えてる」


ミラは、少し考えた。


「じゃあ、五日いたのに、何も減ってないの?」


「そうなる」


ミラは、鍋をかき混ぜる手をもう一度動かしてから、また止めた。


「その待ちって、本人が休んだわけじゃないんだよね?」


「うん。人が足りなくて、荷が来ない日」


「待てって言ってるのは、向こうなんでしょ」


ノアは、紙から顔を上げた。


「……そうだね」


「仕事できないのに、泊まってる分は払うの?」


「そうみたい」


「帰ったら駄目なのに?」


ノアは、黙った。


ミラは、鍋の中を見ながら、ゆっくり言った。


「帰れないから、泊まるんでしょ。泊まるから、借りが増えるんでしょ。借りが増えるから、帰れないんでしょ」


ノアは、紙の上の数字を見た。


二枚減る。


三枚増える。


二枚減る。


三枚増える。


数字で見ていたものが、ミラの言葉で一つの輪になった。


◇ ◇ ◇


それでも、ノアはまだ決めなかった。


「一人の帳面を見ただけで、何が分かる」


当主にそう言われた。


ペーターだけが、たまたま待ちの多い現場に回されたのかもしれない。


ペーターだけが、道具代の多い現場だったのかもしれない。


他の人足は、ちゃんと返し終わって帰っているのかもしれない。


「他の人も見ないと、分からない」


ノアは、紙を畳んだ。


ヴァルツで何が起きているのかを、全部調べるつもりはなかった。


マルタを帰してもらうのに足りる分だけ、比べられる例があればいい。


二人か、三人でいい。


◇ ◇ ◇


一人目は、窪地の中にいた。


前に、西から三人で来て「ヴァルツの荘には近づかない方がいい」と言った者たちのうち、男が一人まだ残っていた。


行く先を探して、南東の次の話を待っている。


「ヴァルツで働いてた時のこと、覚えてますか」


ノアが聞くと、男は少し嫌そうな顔をした。


「……だいたいなら」


「働いた日は、日当をもらえましたか」


「もらった。飯と寝床の分を引かれて、手元にはほとんど残らなかったが」


「仕事がなかった日は」


「あった。雨の日とか、荷が来ない日とか」


「その日は、何かもらえました?」


「何も。飯は出た」


「飯代は」


男は、少し黙ってから答えた。


「借りに付いた」


ノアの手が、止まった。


「借りが残った時は、どうなりました」


「次の仕事に回された。荘の畑から、荘の外の普請へ。帰りたいと言ったら、借りを返してからだと言われた」


「それで、どうやって出たんですか」


男は、少し目を逸らした。


「逃げた。次の普請へ移される途中で」


◇ ◇ ◇


二人目は、ロイが連れてきた。


「西から来た奴の中に、ヴァルツの普請にいたって奴がいた」


ロイは、若い男を一人焚き火の前に座らせた。


痩せていて、手の皮が厚かった。


「俺は、話を聞いただけだ。細かいことは、お前が聞け」


ロイはそう言って、少し離れたところに腰を下ろした。


若い男は、ノアの質問に一つずつ答えた。


日当は、七枚だった。


飯は二枚。


寝床は一枚。


道具は、壊した時だけ付いた。


「待ちの日は」


「あった。多かった。人が足りなくて、荷を運ぶ奴が来ないんだ」


「その日の飯と寝床は」


「付いた」


「借りが残った時は」


「別の現場へ回された。そこでも、また待ちがあった」


「そこからは」


若い男は、少し黙った。


「……途中で抜けた。夜のうちに」


それから、焚き火を見た。


「働いてるのに、減らないんだ。最初は、自分の数え方が悪いんだと思ってた」


◇ ◇ ◇


その夜、ノアは紙に三人分を並べた。


――ペーター


――働いた日 二枚減る 待ちの日 三枚増える


――荘の男


――働いた日 少し減る 待ちの日 飯と寝床が付く


――普請の若い男


――働いた日 四枚減る 待ちの日 三枚増える


条件は、少しずつ違った。


道具代の付き方も違った。


数字も、すべて同じではなかった。


ノアは、三人分を一行ずつ読み上げていった。


ミラは、黙って聞いていた。


聞き終わってから、言った。


「同じじゃん」


「数字は違うよ」


「そうじゃなくて」


ミラは、ノアの紙の方を指で差した。


字は読めない。


だが、ノアが読み上げた順番は覚えていた。


「また、待ちの日で増えてる。この人も、帰れないまま次へ行ってる」


ミラは、焚き火を見た。


「それ、借りを返してるっていうより、ずっとそこにいさせられてるだけじゃない?」


ノアは、三人分の行を見比べた。


減って、増えて、減って、また増える。


増え方の形が、同じだった。


借りを返せなかったのは、ペーターだけではなかった。


ヴァルツの仕組みそのものが、借りの残りやすい形になっていた。


そして、人が足りなくなるほど待ちの日が増え、待ちの日が増えるほど、人足の借りも増えていく。


◇ ◇ ◇


数日後、ノアはもう一度、西街道を歩いていた。


隣には、ロイがいた。


懐には、三人分を並べた紙が入っていた。


普請場の奥の帳場で、ヘルマンが顔を上げた。


「また来たのか」


「少し、分かったことがあって」


ヘルマンは、嫌な顔はしなかった。


ただ、机の上の紙を、今度は伏せた。


ノアは、自分の紙を机に置いた。


「この人と」


指で、一行目を差す。


「この人と」


二行目。


「ペーターさん」


「……違う人間だな」


「はい。細かい条件は、少しずつ違います」


ノアは、紙の上で指を動かした。


「でも、同じところで増えてます」


ヘルマンは、黙って紙を見ていた。


◇ ◇ ◇


「マルタさんの帳面も、見せてもらえますか」


ヘルマンは、少し間を置いてから、帳面を一冊引き寄せた。


リード村。ペーター。


その下に、新しい行が足されていた。


――女房 マルタ


――飯 二


――寝床 一


日付が、マルタがここへ来た日から、今日まで並んでいた。


一日も欠けずに。


「マルタさん、ここに来た時より、借りが増えてますね」


ヘルマンは、否定しなかった。


「炊き出しを、手伝ってますよね」


「ああ」


「その分の日当は、付いてないです」


「あの女とは、働く約束をしていない」


「でも、飯と寝床は付いてます」


ヘルマンは、答えなかった。


ノアは、帳面の行を指でたどった。


「帰れないから、ここに泊まってるんですよね」


「借りがあるからだ」


「泊まった分は」


「借りに付く」


「それで増えたから、また帰れない」


ヘルマンは、黙った。


ノアは、帳面から顔を上げた。


「これ、いつ終わるんですか」


◇ ◇ ◇


ヘルマンは、当主を呼びに行った。


当主は、その日も普請場にいた。


次の検分までに数を合わせるために、現場を見て回っていたらしい。


帳場に入ってくるなり、当主はノアを見て言った。


「またお前か」


「はい」


当主は、ノアの紙を手に取った。


自分で読んだ。


三人分の行を、上から下まで。


「ペーターさんだけじゃ、ありませんでした」


ノアは言った。


「働いた日に少し減って、待ちの日に増えて、借りが残って、次の現場に回される。三人とも、同じでした」


当主は、紙から目を上げなかった。


「それと」


ノアは、ヘルマンの帳面のマルタの行を指した。


「マルタさんは、ここへ仕事をしに来たわけじゃないですよね」


当主の目が、帳面へ動いた。


「旦那さんのことを聞きに来ただけです。働く約束はしていません。日当も付いていません」


「……それで」


「なのに、帰してもらえなくて、ここに泊まって、飯を食べて、その分が借りに足されて、借りが増えたから、また帰れない」


ノアは、指で帳面の日付を数えた。


「これを続けたら、ずっと増えませんか」


◇ ◇ ◇


当主は、紙を机に置いた。


「亭主の借りが、消えるわけではない」


「それは、ペーターさんの帳面に残せばいいと思います」


「女は」


「マルタさんは、何も借りるって言ってません」


当主は、ノアを見た。


「だから、何だ」


声は、変わらなかった。


「お前の紙が正しかろうと、ここではそう書く。そう決めている。お前に、それを変える力があるのか」


ノアは、少し考えた。


変える力は、なかった。


兵も、いない。


金も、ない。


「僕のところには、仕事を探しに来る人がいます」


ノアは、そう言った。


「西から来た人が、行く先を聞きに来ます。知ってる場所なら、答えてます」


「それが何だ」


「ヴァルツのことを聞かれたら、僕が見たことを、そのまま答えます」


ノアは、机の上の自分の紙を見た。


「この数字も、聞かれたら説明します」


脅しているつもりは、なかった。


聞かれたら答える。


これまでも、ずっとそうしてきた。


当主の目が、わずかに細くなった。


「……お前のところに、そんなに人が来るのか」


「日によって違います」


「西から来た者が、お前のところを通って、仕事へ行く」


「行く先を探してる人は、だいたい」


当主は、しばらく黙っていた。


ヘルマンが、当主の横顔を見ていた。


普請場は、人が足りなかった。


次の検分までに、数を揃えなければならなかった。


集めろ、と当主は言った。


集める先の一つが、西から東へ流れていく人たちだった。


その人たちが、ノアのところを通っている。


当主は、机の上の帳面を見た。


マルタの行。


飯二枚。


寝床一枚。


それが、日付の数だけ並んでいる。


◇ ◇ ◇


「女を帰せ」


当主が言った。


ヘルマンが、顔を上げた。


「亭主の借りは、そのまま残せ」


「女房の分は」


少し、間があった。


「消せ」


当主は、ノアの方を見なかった。


「今回だけだ」


「はい」


ノアは、それだけ答えた。


当主は、帳場を出ていった。


マルタが正しかったと、認めたわけではなかった。


決まりを、変えたわけでもなかった。


一人の女を留め置いて取れる分と、これ以上話が広がって人が来なくなる分とを、比べただけだった。


◇ ◇ ◇


ヘルマンは、筆を取った。


マルタの行の横に、一本、まっすぐな線を引いた。


飯二枚。


寝床一枚。


日付の数だけ並んでいた行が、線の下に消えた。


ペーターの行は、そのままだった。


ヘルマンは、筆を置いた。


それから、机の端のノアの紙に目をやった。


三人分の行。


減って、増えて、減って、また増える。


ヘルマンは、何か言いかけた。


指の墨の跡を、親指でこすった。


結局、何も言わなかった。


◇ ◇ ◇


炊き出し場で、マルタは鍋の前に立っていた。


帳場の下の男が、炊き出し場の脇を離れていった。


ノアが近づくと、マルタは柄杓を握ったまま振り返った。


「帰れます」


ノアは言った。


マルタは、しばらく何も言わなかった。


柄杓を、鍋の縁に置いた。


◇ ◇ ◇


帰り道。


西街道の橋を渡った。


マルタは、ずっと黙って歩いていた。


夫は、はぐれた夜の後も、生きていた。


ここまで来ていた。


家族を探していた。


もっと西の普請場へ回され、そこから先は分からない。


借りは、帳面に残ったままだった。


丘の手前で、マルタが言った。


「……ごめんなさい」


「何がですか」


「仕事、何日も行けなくて。ローデンの」


「それは、僕がベルントさんに話します」


マルタは、少し黙った。


それから、小さく頷いた。


◇ ◇ ◇


丘の上に、三つの影が見えた。


最初に気づいたのは、マルタの上の子だった。


エルマの横で、ずっと丘を見ていた。


子供が、走り出した。


下の子も、転びそうになりながら後を追った。


マルタも、走った。


丘の斜面の途中で、三人がぶつかるように抱き合った。


誰も、何も言わなかった。


ノアとロイは、少し後ろで足を止めていた。


◇ ◇ ◇


同じ頃。


西街道の普請場で、当主はヘルマンを呼んだ。


「ノア、と言ったな」


「はい」


「どこの領主だ」


ヘルマンは、少し考えてから答えた。


「東の、例の空白地にできた開拓地です。獅子の軍も手を出していない土地だと」


「人が、通るのか」


「西から来た者が、あそこで行く先を聞いて、ローデンや南東へ流れていると聞いております」


当主は、しばらく黙っていた。


普請場の音が、帳場の外から聞こえていた。


「先に、話を回しておけ」


「何と」


当主は、ヘルマンを見た。


「借りのある人間を匿う土地だ、とな」


◇ ◇ ◇


その夜、窪地の寝床で、マルタは子供二人と一緒に眠っていた。


寝床の脇に、木の椀が置いてあった。


朝、それで粥をよそう。


底には、丸に一本線の焼き印がある。


少し離れた焚き火のそばで、ノアは三人分を並べた紙を畳んで、袋に戻した。


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