第22話 止まった仕事
朝、マルタは木の椀に粥をよそった。
上の子の分。
下の子の分。
最後に、自分の分を鍋の底からさらった。
椀の底には、丸に一本線の焼き印がある。
下の子は、椀を両手で抱えて、少しずつ粥をすすった。
焼き印のことは、何も知らない。
知っているのは、毎朝これで食べる、ということだけだった。
マルタも、何も言わなかった。
ただ、椀を洗う時、指で一度だけ底をなぞった。
◇ ◇ ◇
帰ってきた次の日、マルタはどこへも行かなかった。
子供二人が、袖から手を離さなかった。
ヨルクが一人でローデンへ出て、ベルントに言付けを持っていった。
マルタは戻った。明日から、また来る。
休んだ日のことは、あとで自分から話しに行く。
ノアが、そう頼んだ。
その翌朝、マルタは子供二人をエルマのところへ連れていった。
「今日は、帰ってくる?」
下の子が、袖を引いた。
マルタは、しゃがんで目の高さを合わせた。
「帰ってくるよ」
「夕方?」
「夕方」
子供は、いつもより少し長く袖を握っていた。
それから、手を離した。
◇ ◇ ◇
ローデンの入口で、ベルントが待っていた。
腕を組んで立っているのは、いつも通りだった。
ただ、二人が溝の方へ行こうとすると、呼び止めた。
「待て」
ヨルクとマルタは、足を止めた。
ベルントは、マルタの顔を見た。
「戻ったんだな」
「はい。……何日も、すみませんでした」
「休んだ分は、払わん。それだけだ」
ベルントは、溝の方を顎で示した。
「今日の分は、いつも通りやってくれ。明日からも、今まで通りでいい」
マルタの肩から、少し力が抜けた。
だが、ベルントは腕を解かなかった。
「ノアに、伝えてくれ」
「何をだ」
ヨルクが聞いた。
「新しい人間は、しばらく寄越さんでくれ」
ヨルクは、瞬きをした。
「人が要らなくなったのか?」
「そうじゃない」
ベルントは、少し黙った。
畑の方を見た。
刈り入れを待つ麦が、色づきかけていた。
「……西から、話が来た」
「西?」
「一昨日、また人足集めの荷車が来てな」
マルタの肩が、小さく動いた。
「あそこの土地には、借りを残して逃げた人間がいる。そういう話をして帰っていった」
誰も、何も言わなかった。
ベルントは、マルタの方へ向き直った。
「俺は、お前が逃げたとは思っとらん」
はっきりした声だった。
「ヨルクから聞いた。旦那のことを聞きに行って、帰れなくなったんだろう。それは分かっとる」
「……はい」
「だがな」
ベルントは、村の方を見た。
家の戸口で、女が二人、こちらを見ていた。
目が合うと、戸の中へ引っ込んだ。
「村の者は、そうは聞いとらん。人を雇って、あとから、そいつには借りがある、引き渡せ、なんて話を畑まで持ち込まれるのは困る」
ベルントは、言いにくそうに続けた。
「刈り入れが近い。その最中に揉め事は抱えられん。お前らとの約束は続ける。顔を知っとるからな」
ベルントは、腕を組み直した。
「だが、新しい顔は増やさん」
◇ ◇ ◇
夕方、二人は麦の袋を抱えて戻ってきた。
いつもと同じ量だった。
マルタは、袋をエルマに預けて、子供二人を抱き寄せた。
ヨルクが、ノアのところへ来た。
「次の人は、要らないそうだ。人は足りてないが、こっちからは増やさないって」
ノアは、紙から顔を上げた。
刈り入れの頃に、脚を痛めた男と老人の娘を日帰りで出せないか。そう考えて、名前を二つ選んだばかりだった。
ヨルクが、ベルントの話をそのまま伝えた。
荷車。
借りを残して逃げた人間。
新しい顔は増やさない。
いつの間にか、マルタが子供を離して、こちらへ来ていた。
「私のせい?」
ノアは、首を振りかけて、止めた。
「ベルントさんに、何て言われました?」
マルタは、少し考えてから答えた。
「お前が逃げたとは思ってない、って」
「他には」
「……村の人は、そうは聞いてないって」
ノアは、それを紙に書いた。
――ローデン 今の二人は続ける
――新しい人は、しばらく止める
――理由 西の荷車の話 借りを残して逃げた人間がいる
書きながら、普請場の帳場で当主に聞かれたことを思い出していた。
お前のところに、そんなに人が来るのか。
◇ ◇ ◇
翌朝、ノアはヨルクたちと一緒にローデンへ行った。
ベルントは、ノアの顔を見るなり言った。
「来ると思ってたぞ」
前にも、同じことを言われた。
「マルタさんのこと、話しに来ました」
「聞こう」
ノアは、順に話した。
マルタ本人は、ヴァルツで何も借りていない。
借りは、夫のペーターの帳面にある。
マルタは、働く約束をしていない。
普請場の帳場で、その帳面を見せてもらった。
最後には、ヴァルツの当主が自分で、女は帰せと言った。
マルタの分は消せ、と。
ベルントは、黙って聞いていた。
聞き終わると、長い息を吐いた。
「……筋は通っとる」
「はい」
「お前が嘘をついとるとも思わん。そういうことで嘘をつく男じゃない」
ノアは、少しだけ肩の力を抜いた。
「だがな」
ベルントは、腕を組み直した。
「俺が納得しても、村で人を雇う話は別だ」
ノアは、黙った。
「マルタの話は分かった。じゃあ、次にお前が連れてくる奴はどうだ」
ベルントは、ノアを見た。
「そいつに、ヴァルツの借りはないのか」
ノアは、答えかけた。
口が、途中で止まった。
荘から来た男と、普請の若い男。
二人とも、ヴァルツの帳面に借りを残したまま抜けてきていた。
荷車の男たちが流した話は、全部が嘘ではなかった。
「……ある人も、います」
ベルントの眉が、わずかに上がった。
「正直だな」
「刈り入れに出そうと思ってた二人には、ないと思います。本人に聞いたので」
「本人が、忘れとったら? 黙っとったら?」
ノアは、黙った。
「ヴァルツだけならまだいい。西の土地は、どこも戦の後だ。どこで誰に何を借りて、何を置いてきたか。俺には分からん」
ベルントは、少し声を落とした。
「お前にも、分からんのだろう」
「……分かりません」
「なら、止める」
責める声ではなかった。
畑の畝を数える時と、同じ声だった。
「刈り入れを落としたら、冬に食う物がない。よそから来た奴の借りの話で、村の畑が一日でも止まったら困る。それだけだ」
◇ ◇ ◇
窪地に戻ると、ノアは紙を広げた。
――ローデン 新しい人 止める
その横に、書きかけて、手を止めた。
――いつまで
分からなかった。
◇ ◇ ◇
オスカーが来たのは、それから四日後の昼だった。
痩せた馬を、今日も引いていた。
「話がある」
焚き火の前に座る前に、オスカーはそう言った。
ノアは、紙を用意していた。
前に、次は五人、と言付けがあった。
その後、条件の紙が届くと、前にも南東へ行った兄弟の二人は、先にもう一度出ていった。
残りの三人を、もう選んであった。
荷を担げる者。
独り身の者。
七日離れても困らない者。
荘から来た男も、その中に入れてあった。
南東の次の話を、ずっと待っていた男だった。
オスカーは、ノアの紙に目もやらなかった。
「悪い。次の話は、一旦止める」
ノアの手が、紙の上で止まった。
「……人が、足りたんですか」
「足りるわけがない」
オスカーは、苦い顔をした。
「ヴァルツの荷車が、人を集めながら東の方まで回ってる。うちの街道も通った。その連中が言っていた。東の開拓地から来る人間には、ヴァルツに借りを残して逃げた奴が混じっている、と」
ノアは、黙った。
「それだけだ。雇うなとも、渡せとも言われとらん」
オスカーは、顎を撫でた。
「だが、借りが本当にあるなら、いつか誰かが取りに来るかもしれん。荷の段取りの最中にそんな連中に来られて、そいつを連れていく、いや渡さん、と揉めたら、荷が止まる」
オスカーは、窪地を見回した。
泉の道。
赤い縄の桶。
仕事を待つ男たち。
「お前が悪い奴だとは思っとらん。お前のところの連中は、よく働いた。塩が足りんと文句を言ったくらいだ」
「……ベンさんですか」
「そうだ」
オスカーは、少しだけ笑った。
すぐに、元の顔に戻った。
「今こっちにいる兄弟は、区切りまで置く。手間賃も、いつも通り本人に払う。だが、新しい者は、しばらく受けない」
「しばらくって」
「揉め事の話が消えるまでだ」
「それは、いつ消えますか」
オスカーは、答えなかった。
「こっちまで、よその領主の借りの取り合いに巻き込まれたくない。それだけだ」
ノアは、少し考えてから聞いた。
「一人ずつ、借りがないか確かめて送ったら、どうですか」
「誰が確かめる」
オスカーは、ノアの紙を指で叩いた。
「借りは、向こうの帳面に書いてある。西の端の、会ったこともない領主の帳場を、一つずつ回るのか」
ノアは、答えられなかった。
西の帳場は、一つではない。
◇ ◇ ◇
オスカーが帰ったあと、ノアは紙に一行足した。
――南東 新しい人 止める
二行が、並んだ。
違う場所。
違う仕事。
違う人。
同じ理由。
「ヴァルツだろうな」
いつの間にか、ロイが後ろに立っていた。
「たぶん」
ノアは言った。
ヴァルツがそう流せと言ったところを、聞いたわけではない。
だが、荷車はローデンにも来た。
南東の街道も通った。
話は、どちらでも同じ形をしていた。
「嘘なら、言い返せるんですけど」
ノアは、紙を見たまま言った。
「マルタさんの旦那さんの借りは、帳面に残ってます。マルタさんを連れて帰ったのは、僕です。荘から来た人も、普請の人も、借りを残したまま抜けてきてます」
「匿った、と言えなくもない」
「言えなくもないです」
ロイは、焚き火のそばに腰を下ろした。
「うまいやり方だ」
◇ ◇ ◇
人は、止まらなかった。
ローデンが止めても。
南東が止めても。
丘の上には、変わらず人影が現れた。
西から流れてくる者。
東へ行く途中の者。
そして、仕事があると聞いて来た者。
オスカーが来た二日後の夕方に下りてきたのは、八人だった。
子供を二人連れた夫婦と、年の近い男が三人。
それから一番後ろに、杖をついた老婆が一人。
先頭の男が、焚き火の前でノアを探した。
「ここに、仕事を教えてくれる男がいると聞いた」
「……僕です」
「ノアってのは、あんたか」
男は、ほっとした顔をした。
その顔を見て、ノアの胸のあたりが重くなった。
「西の、川の渡しで聞いた。丘の向こうの窪地へ行けば、働ける場所を教えてくれる。ローデンでも、南東の街道でも、家族のことまで聞いて、合うところへ回してくれるって」
間違っては、いなかった。
少し前までなら。
「……前までは、紹介できました」
「前までは?」
「今は、紹介できるところがありません」
男は、しばらくノアの顔を見ていた。
意味が、うまく入らないようだった。
「それで?」
「え?」
「俺たちは、それを聞いてここまで来たんだぞ」
男の声が、少し大きくなった。
「渡しから、六日歩いた。途中の村で、畑の手伝いならいいと言われたのを断ってきた。ここの方が確かだって聞いたからだ。残ってた麦も、道で食った」
男の後ろで、妻が上の子の肩を抱いていた。
上の子は、裸足だった。
下の子は、途中で熱を出したとかで、妻の背でぐったりしていた。
「仕事があるって聞いたから、来たんだ」
「僕が、仕事があるって言ったわけじゃ――」
言いかけて、ノアは口を閉じた。
言ってはいない。
誰にも、来いとは言っていない。
だが、渡しでその話をした誰かは、どこかでそれを聞いた。
聞いた誰かは、ここで仕事を紹介されたか、紹介された誰かを見た。
話は、ノアがやってきたことから生まれていた。
「じゃあ、どこへ行けばいい」
男が言った。
ノアは、紙を見た。
ローデン。止まっている。
南東。止まっている。
他に、確かな行き先はなかった。
「……今は、分かりません」
「分からない?」
男が、一歩前へ出た。
「ここまで来させておいて、分からない?」
焚き火のまわりに、人が集まってきた。
今日来た三人の男たち。
前から仕事を待っている者たち。
荘から来た男も、その中にいた。
「南東の次は、いつなんだ。もう十日も待ってる」
誰かが言った。
声が、重なった。
◇ ◇ ◇
ロイが、焚き火の横から立ち上がった。
男とノアの間に、ゆっくり入った。
手には、何も持っていなかった。
「話すなら、そこで話せ」
男は、ロイを見た。
少しだけ、下がった。
ロイは、それ以上何も言わなかった。
男を追い払いもしなかった。
ノアも、下がらなかった。
「……話、聞かせてください」
男が、眉を寄せた。
「何を」
「どこから来て、何ができるか。家族のこと」
「仕事は、ないんだろう」
「今は、ないです」
ノアは、紙を一枚出した。
「でも、聞かないと、次に何かあった時に分からないので」
男は、しばらく黙っていた。
それから、吐き捨てるように話し始めた。
村の名前。
畑をやっていたこと。
牛を扱えること。
子供が二人。
老婆は身内ではなく、道の途中で一緒になったこと。
ノアは、全部書いた。
書いても、行き先の欄は空いたままだった。
◇ ◇ ◇
「仕事がないなら」
話し終えた男が言った。
「せめて、食わせてくれ」
ノアは、皆の分の帳面を開いた。
麦。
銅貨。
入った分と、出た分。
南東へ働きに出る者が減って、皆の分へ入れてくれる麦も減っていた。
ローデンの二人が入れてくれる分だけでは、桶も、藁も、ロイの食べる分も、追いつかない。
そこへ、八人。
ノアは、指で行をたどった。
一晩なら。
二晩目は、窪地の誰かの分を削ることになる。
ノアは、帳面から顔を上げた。
焚き火のまわりには、窪地の者たちも集まっていた。
ダグ。ハンナ。エルマ。ヨルク。
「皆の分から、今夜だけ、この八人の分を出していいですか」
誰も、すぐには答えなかった。
ハンナが、鍋の方を見た。
ダグが、腕を組んだまま、男の妻の背でぐったりしている子供を見た。
「……今夜だけなら」
ダグが言った。
他に、反対する声はなかった。
ノアは、男に向き直った。
「今夜の分は、出せます」
「明日は」
ノアは、答えなかった。
「明日は、どうなんだ」
「……明日から先も全員分を出せるとは、言えません」
「じゃあ、俺たちはどうするんだ」
「分かりません」
同じ答えだった。
男は、何か言いかけた。
妻が、男の袖を引いた。
男は口を閉じて、焚き火の方へ戻っていった。




