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第23話 入口

その夜の鍋の後、ノアは皆の前で帳面を開いた。


「今夜、皆の分から出した麦は、これだけです。今日来た人たちの分です」


焚き火のまわりが、静かになった。


「ローデンにも南東にも、新しい人を送れなくなりました。だから、皆の分に入れてもらえる麦も減ってます。明日から、同じようには出せません」


誰も、何も言わなかった。


ダグが、焚き火を見たまま腕を組んだ。


ハンナが、鍋の底を見た。


減っていく分を、皆が自分の目で見ていた。


◇ ◇ ◇


マルタが、焚き火の端でノアを呼び止めた。


子供二人は、もう眠っていた。


「……私が、戻らなければ」


ノアは、すぐには答えなかった。


焚き火に、枝を一本入れた。


「マルタさんを帰すって決めたのは、ヴァルツです」


「でも」


ノアは、ローデンとオスカーのことを書いた紙を出した。


「そのあとで、借りのある人間がいるって話を流したのも、マルタさんじゃない。マルタさんが帰ってきたことと、他の人の仕事が止まったことは、決めた人が違います」


マルタは、しばらく紙を見ていた。


字は、読めない。


それでも、目を離さなかった。


「……うん」


小さく言った。


それから、子供たちの寝床の方へ戻っていった。


◇ ◇ ◇


「ヴァルツに、言えばいいんじゃないか」


焚き火の向こうで、ダグが言った。


「妙な話を流すな、って」


ノアは、少し考えた。


「何を言うんです?」


「何をって」


「ヴァルツは、ベルントさんに人を雇うなって言ってません。オスカーさんにも言ってません」


ノアは、紙の二行を見た。


「借りのある人が混じってる。そう言っただけです」


「だが」


「止めるって決めたのは、ベルントさんとオスカーさんです」


ノアは、首を振った。


「二人とも、自分の村と自分の荷の方が大事で、それは当たり前です。僕に、止めるなって言える理由はないです」


ダグは、しばらく黙っていた。


「……面倒な話だな」


「はい」


ロイが、火に枝をくべた。


「道を塞がれたなら、別の道を探すしかない」


「別の道」


「ただな」


ロイは、ノアの紙に目をやった。


「ベルントを説き伏せても、オスカーを説き伏せても、次の村でまた同じ話をされるぞ。荷車は、どこへでも行く」


ノアは、顔を上げた。


「次の村でも」


「お前が三つ目の村を見つけたら、そこにも荷車が行く。四つ目にもな」


◇ ◇ ◇


夜が更けても、ノアは紙を広げていた。


これまでの紙を、全部出した。


流民が最初に来た夜に書いた、三つの欄。


名前。


できること。


家族。


動ける範囲。


ローデン。日帰り。二人。麦。


南東。七日。荷運び。道の補修。


誰を、どこへ。


紙の上では、いつも人が先だった。


まず人が来る。


ノアが話を聞く。


合う仕事を探す。


この人ならどうですか、と雇う側へ持っていく。


雇う側は、それで楽だった。


ノアが聞いて、ノアが選んだ人が来る。


ベルントも、オスカーも、それで回っていた。


ノアは、荷車の男たちの話を思い返した。


ローデンの人間でも、南東の人間でもない。


ノアのところから来る人間。


そこだけを、言っていた。


ノアは、紙の上の字を見た。


全部、自分が書いた字だった。


全部の人が、ノアの紙を通って、仕事へ行っていた。


だから、ノアの紙ごと止めればよかった。


一人ずつ疑う必要は、なかった。


「……僕が、入口になってたんだ」


横に、ミラが座った。


いつから見ていたのかは、分からなかった。


「何が?」


「ここに来た人は、みんな、僕の紙を通って仕事へ行ってた。だから、僕のところから来る人、ってまとめて止められる」


ミラは、少し考えた。


「ふうん」


ノアは、夕方の男の顔を思い出した。


ほっとした、あの顔。


「……あの人たち、僕が仕事を見つけてたから、来たんだよね」


ミラは、すぐには否定しなかった。


「うん。たぶん」


焚き火が、小さく爆ぜた。


「でも、仕事を止めたのは、ノアじゃないよ」


「うん」


◇ ◇ ◇


ノアは、オスカーが最初に持ってきた紙を出した。


――荷運び 三人


――牛馬の世話 一人


――道の補修 四人


――七日ほど


――食事あり 手間賃あり


その下に、ミラが聞き出して、ノアが書き足した行がある。


――寝床 荷置き小屋の二階


――子供 不可


――家族 一家族分なら小屋あり


今までは、この紙を見て、誰を送るかを考えていた。


ノアが選んで、ノアが送った。


「……僕が選ばなかったら?」


ミラが、ノアを見た。


「どういうこと?」


「この仕事があるって、みんなが知ってたら」


ノアは、そこで言葉を止めた。


仕事がある。


何人。


何日。


何が出て、何がもらえるか。


それを皆が知っていれば、ノアが選ばなくても、行ける者が自分で決めて行ける。


ノアの紙を、通らなくても。


だが、すぐに壁があった。


窪地の大半は、字が読めない。


この紙を柱に打ちつけても、読めるのは、ノアとほんの数人だけだった。


だから、ノアが一人ずつ話してきた。


ノアは、袋からもう一枚出した。


普請場から写してきた数字だった。


――普請方 → ヴァルツ 人足一人一稼働日 十二


――ヴァルツ → 人足 日当 六


ヘルマンが、指を折って言ったこと。


人を集める。


どういう仕事か、何日か、飯は出るかを、一人ずつ説明する。


人足の多くは、字が読めん。


だから、読める者が間に立つ。


その手間に、金がかかる。


「字が読めないと、結局、誰かが一人ずつ説明しないと駄目か」


ノアは、呟いた。


ミラは、何も答えなかった。


立ち上がって、火場の横へ行った。


誰かが、赤い縄の桶を泉の道の脇に置きっぱなしにしていた。


ミラはそれを拾って、火場の横の列に戻した。


縄の方を、手前に向けて。


「全部読めなくても、これが皆の物って分かるけどね」


説明のつもりで言ったのではなかった。


片付けのついでだった。


ノアは、赤い縄を見た。


火かき棒の柄の、炭の炎。


泉の桶の、二本の波。


ヴァルツの荷車の、丸に一本線。


マルタは、字が読めない。


それでも、縄の色で、焼き印で、分かった。


◇ ◇ ◇


ノアは、紙に目を戻した。


仮に、読めない人にも仕事が伝わる形があったとしても。


伝える仕事が、今はない。


ローデンは、止まっている。


南東も、止まっている。


ノアは、写してきた数字を見た。


十二。


西街道の普請場。


石が来なくて座り込んでいた班。


持つ者のいない鍬。


次の検分までに数を揃えろ、と当主は言っていた。


集めろ、と。


あそこは、人が足りていなかった。


今も、人を欲しがっている。


夜番の交代で、ロイが焚き火のそばを通った。


「ロイさん」


「なんだ」


「西街道って、まだ人が足りないんですよね」


「見ただろ」


「あの普請、お金を出してるのは誰なんですか」


ロイは、足を止めた。


「普請方だ。紙に、そう書いてあったろう」


「普請方って」


「獅子の方の役人だ。落とした土地の道を直させてる。兵と荷を通すためにな」


ノアは、紙の上の十二を見た。


「獅子のところは、人を集めるのに、ヴァルツへお金を払ってるんですよね」


「そうなるな」


「一人一稼働日、十二枚。人足に渡るのは、六枚」


ロイは、ノアの顔を見た。


何を考えているのか、測るような目だった。


ノア自身にも、まだ分かっていなかった。


◇ ◇ ◇


「……待って」


ミラの声だった。


ノアが、振り返った。


「何?」


「今、獅子って言った?」


ミラの顔が、はっきりと強張っていた。


「西街道の普請、獅子の方がお金を出してるんだって」


「そうじゃなくて」


ミラは、ノアの隣に座り直した。


「ノア、獅子のところに行くつもり?」


「獅子の方が出してる仕事のことで――」


「それ、同じじゃない?」


ノアは、答えに詰まった。


ミラは、宿にいた頃から、ずっと噂を聞いてきた。


商人から。


酔った兵から。


ここへ来てからは、泊まっていく旅人から。


「あの獅子でしょ?」


ミラの声は、低かった。


「一人で城門を壊したって。矢も効かないって。逆らった領主が、土地ごと消えたって。西の軍も、全部潰したって」


「全部が本当かは」


「分かってるよ。半分くらい、話が大きくなってるのも」


ミラは、焚き火を見た。


「でも最近は、獅子って呼ばない人もいるの」


「……何て」


「災いの王、って」


ノアは、黙った。


「この前泊まってった旅の人が言ってた。あれは獅子なんかじゃない。災いが王様になったようなもんだって」


ミラは、膝の上で手を握った。


「今までは、向こうが勝手に来ただけだったでしょ。泉の時も、見回りの人も」


「うん」


「こっちから行くのは、なんか違うよ」


◇ ◇ ◇


ノアは、すぐには言い返さなかった。


ミラの怖さを、軽いものだとは思わなかった。


ローデンの軒先には、獅子の旗がある。


見回りの兵は、三日に一度は寄っていく。


それでも窪地は、今までどこにも付いていなかった。


巡察の男にも、そう答えた。


「獅子に会いに行くんじゃないよ」


ノアは、ゆっくり言った。


「本人に会えるとも思ってない。西街道の仕事を出してる人と、話せないかなって」


「どう違うの」


「仕事を探してる人は、ここにいる。向こうは、人が足りない。ヴァルツにお金を払ってまで、人を集めてる」


ノアは、写してきた紙を見た。


「だったら、話だけでもできないかなって」


ミラは、しばらく黙っていた。


理屈は、分かっているようだった。


「……私は、嫌だけど」


ミラは、そう言った。


止める、とは言わなかった。


行くな、とも言わなかった。


ただ、嫌だ、とだけ言った。


「うん」


ノアは、頷いた。


◇ ◇ ◇


「でも、どうやって話すの」


しばらくして、ミラが聞いた。


「普請方の人なんて、知らないでしょ」


「知らない」


ノアは、少し考えた。


獅子の陣へいきなり行っても、誰にも会えない。


ヴァルツを通さずに、普請方へ話を持っていく道が要る。


窪地から、獅子の方へ伸びている細い線。


「前に来た、字が読める人」


ミラが、瞬きをした。


「……兵は、って聞く人?」


「うん」


泉の取り決めの紙を、自分で読んでいった男。


柱の決まりを、最後の一行まで読んでいった男。


窪地を見て、どこかへ報告を持ち帰っている男。


名前も、知らなかった。


「あの人なら、誰に話を持っていけばいいか、知ってるかもしれない」


ミラは、何も言わなかった。


◇ ◇ ◇


夜は、更けていた。


今日来た八人も、客用の小屋の前で火を囲んでいた。


今夜の分の粥は、もう食べ終えていた。


明日の仕事は、なかった。


ノアの前には、紙が三枚並んでいた。


――ローデン 新しい人 止める


――南東 新しい人 止める


――西街道 人足が足りない 一人一稼働日 十二


その横に、オスカーの仕事の紙。


字の読めない者には、ただの墨の線だった。


少し離れたところで、誰かが泉の桶を戻していた。


縄の色を見て、迷わず赤い縄の列に置いた。


ノアは、それを見ていた。


赤い縄。


紙。


もう一度、赤い縄。


ノアは、新しい紙を一枚出した。


まだ、何も書いていなかった。


「……仕事の方から、人を探せないかな」


ミラは、答えなかった。


少し不安そうな顔で、ノアの横に座っていた。


焚き火の向こうで、夜番が替わった。


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