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第24話 仕事の印

「仕事が歩いてくるの?」


ミラが言った。


「そうじゃなくて」


ノアは、オスカーの仕事の紙を膝の上に置いた。


荷運び。三人。


七日ほど。


食事あり。


寝床、荷置き小屋の二階。


今までは、この紙をノアが読んだ。


ノアが人を選んだ。


ノアが一人ずつ説明して、送り出した。


「この紙を、仕事を探してる人が自分で見られたら」


ノアは、紙の上を指でなぞった。


「何の仕事で、何人で、何日で、何がもらえるか。それを見て、行きたい人が自分で決める。そしたら、僕が人を選ばなくていい」


「ノアが選ばないの?」


「うん」


ミラは、紙を見た。


「……でも、読めないよ」


「うん」


そこで止まるのは、分かっていた。


窪地の大半は、字が読めない。


柱に打ちつけても、ただの墨の線だった。


「結局、僕が一人ずつ説明しないと同じか」


ノアは、紙を下ろした。


火場の横に、桶が並んでいた。


赤い縄の桶。


縄のない桶。


火かき棒の柄には、炭の炎。


泉の桶には、二本の波。


マルタの椀の底には、丸に一本線。


誰も、字は読んでいない。


それでも、どれが何かは、皆が知っていた。


「……字じゃなくても、分かるものはある」


◇ ◇ ◇


ノアは、使い終わった紙を一枚裏返した。


炭で、形を描いた。


二本の線。


その上に、小さな槌。


その下に、棒で描いた人の形を三つ。


その下に、丸から短い線が何本も出た形を五つ。


「何これ」


ミラが覗き込んだ。


「これが、仕事の種類。道を直す仕事」


ノアは、二本の線と槌を指した。


「これが人。これが日。お日さま」


「……うん」


ノアは、それだけ説明して、紙の端を手で隠した。


別の所に、描き直した。


二本の線と槌。


人の形を二つ。


お日さまを三つ。


「これは?」


ミラは、少し首を傾げた。


「道の仕事。……人が、二人?」


「うん」


「三日」


ミラは、自分で言ってから、瞬きをした。


「読めた」


「読めたね」


ノアは、次の段に数を書こうとした。


手間賃の数。


炭の先が、紙の上で止まった。


十二、と書いても、読めない者には伝わらない。


数の字を覚えさせるのでは、字を覚えさせるのと同じだった。


「数、どうしよう」


ミラは、ノアの顔を見た。


「字は読めなくても、三つあるなら三つって分かるでしょ」


当たり前のことを言う顔だった。


「宿でも、お客さんが銅貨を三枚置いたら、三枚だって分かったよ。字なんか、誰も見てない」


ノアは、紙の上の人の形を見た。


三つ。


お日さまが、五つ。


数の字は、どこにもなかった。


それでも、数は読めた。


「……数えればいいんだ」


◇ ◇ ◇


その夜のうちに、ノアは形を決めた。


何もかもを絵にするのではなかった。


要るのは、仕事の話だけだった。


どこで。


何を。


何人。


何日。


一日にいくら。


飯は出るか。


寝るところはあるか。


どの仕事でも、聞くことはほとんど同じだった。


だから、並びを決めた。


一番上に、場所の印。


その下に、仕事の印。


その下に、人の数だけ人の形。


その下に、日の数だけお日さま。


その下に、お日さまを一つだけ描いて、その横に銅貨の丸を並べる。一日で、これだけ。


麦で払う仕事なら、丸の代わりに麦の穂を描く。


一番下に、飯が出るなら椀。寝床があるなら、三角の屋根の小屋。出ないなら、描かない。


並びは、いつも同じにする。


一度覚えれば、次の札も読める。


ノアは、描き上げた札をミラの前に置いた。


「じゃあ、これ」


ミラは、上から順に指でたどった。


途中で一度だけ止まって、椀の形を見た。


「ご飯、出るんだ」


「うん」


「なら、いいね」


◇ ◇ ◇


二枚目の札を描こうとして、ノアの手が止まった。


同じ札を、窪地にも、ローデンにも、南東にも置く。


十人の仕事なら、どの札にも人の形を十。


「……これ、全部のところに十人って出したら駄目だ」


「なんで?」


「十人要るところに、どこからも十人ずつ来る」


ミラは、少し考えた。


「二十人来る?」


「もっと来るかも」


六日歩いて来て、仕事がないと言われた男の顔が、頭をよぎった。


札を広げるだけでは、また同じことが起きる。


ノアは、紙の端に書いた。


――十人


――窪地 三


――村 二


――村 二


――南東 二


――村 一


「置く場所ごとに、分けるんだ」


ノアは、窪地の札の人の形を、三つに描き直した。


「ここからは、三人。行く人が決まったら、一つずつ線を引いて消す。全部消えたら、ここからはおしまい」


「字、いらないね」


「数えられればいい」


どこかで誰も手を挙げなければ、その分をよそへ回せばいい。


ノアは、札を見下ろした。


これを作る。


写す。


置く場所へ持っていく。


人の形を消す。


条件が変われば、描き直す。


終わったら、外す。


人を選ばない。


誰かの日当を預からない。


働けると保証もしない。


ノアが扱うのは、札だけだった。


◇ ◇ ◇


「でも、それ、ただじゃできないよね」


ミラが言った。


紙がいる。


炭がいる。


写す手間がいる。


村まで歩く日がいる。


札を置かせてもらう場所がいる。


人の形に線を引く誰かがいる。


ノアは、袋から、普請場で写してきた紙を出した。


――普請方 → ヴァルツ 人足一人一稼働日 十二


――ヴァルツ → 人足 日当 六


ヴァルツは、人一人ごとに取っていた。


一人来れば、一人分。


十人来れば、十人分。


人が、そのまま値になっていた。


「人じゃなくて、札で取る」


ノアは言った。


「一か所に、一回置く。それで取る。一人来ても、十人来ても、同じ」


「置いてくれる村には?」


「そこからも少し渡す。場所を貸して、線を引いてもらう分」


ミラは、ふうん、と言った。


それから、焚き火の方を見た。


「でも、出す仕事がないよね」


ノアは、三枚の紙を見た。


ローデン、止める。


南東、止める。


西街道、人足が足りない。


◇ ◇ ◇


翌朝、見回りの兵が寄った時に、ノアは言付けを頼んだ。


前に来た、字の読める人に話がある。


仕事の話だ、と。


兵は、少し妙な顔をしたが、頷いた。


ミラは、それを少し離れたところで見ていた。


何も言わなかった。


ノアが戻ってくると、鍋をかき回しながら、一言だけ言った。


「一人で行かないでね」


◇ ◇ ◇


その夜、ノアはロイに頼んだ。


普請方に会えることになったら、一緒に来てほしい。


ロイは、焚き火に枝をくべる手を止めなかった。


「断る」


ノアは、黙った。


「ヴァルツの帳場なら行く。あれは、ただの商売人だ」


ロイは、首の木札に指をかけた。


「普請方は、獅子の役人だ。俺は、獅子に負けた側の兵だぞ。柵の後ろで最後まで戦って、剣を置いて、向こうに縄を解いてもらった」


「……はい」


「その連中の小屋へ、頭を下げに行けというのか」


ノアは、それ以上言えなかった。


ロイの言うことは、筋が通っていた。


鍋の向こうで、ミラが柄杓を置いた。


「ロイさん」


ロイが、顔を上げた。


「頭、下げなくていいから。ついてってあげて」


ロイは、答えなかった。


「ノア、一人だと、平気で向こうの真ん中まで行っちゃうから」


ミラは、ノアの方を見なかった。


「私は、行ってほしくないんだけど。行くなら、ロイさんがいてくれる方がいい」


ロイは、しばらくミラを見ていた。


それから、長い息を吐いた。


「……小屋の中には、入らんぞ」


「うん」


「戸の外で待つ。それでいいなら、行く」


「ありがとう」


言ったのは、ミラだった。


◇ ◇ ◇


巡察の男が来たのは、二日後だった。


「仕事の話だと聞いた」


馬から降りずに、男は言った。


ノアは、札を一枚見せた。


男は、しばらくそれを見ていた。


上から、下まで。


柱の決まりを読んだ時と同じ目だった。


「……字がないな」


「読めない人に見せるので」


「西街道の普請方に会いたい、と」


「はい。仕事を出してる人に」


男は、札をノアへ返した。


「上へは、上げる。会うかどうかは、向こうが決める」


「はい」


◇ ◇ ◇


その間、八人は窪地に残った。


皆の分だけで、全員を食わせることはできなかった。


持っている者は、自分の分を出した。


何もない者には、窪地の者が少しずつ分けた。


男たちは、薪を拾い、泉から水を運んだ。


鍋は、日に日に薄くなった。


ノアは、皆の分の帳面をつけるたびに、減っていく行を数えた。


◇ ◇ ◇


返事は、さらに三日後に来た。


西街道の普請場の東の外れ。


普請方の小屋。


ノアとロイは、ヴァルツの帳場とは反対の側から、普請場に入った。


小屋の前には、杭が束ねて積んであった。


どの杭の頭にも、同じ焼き印があった。


四角の中に、斜めの線が一本。


ノアは、それをしばらく見ていた。


ロイは、約束通り戸の外に立った。


小屋の中にいたのは、埃をかぶった上着の男だった。


机の上には、紙の束。


石の数。


道の長さ。


人の数。


男は、顔を上げずに言った。


「人足の話だと聞いた。何人連れてきた」


「連れてきてません」


男の手が止まった。


「……何?」


「人を連れてくる話じゃないので」


男は、そこで初めてノアを見た。


それから、戸口の外のロイを見た。


もう一度、ノアを見た。


「では、何の話だ」


「今、人を集めるのに、ヴァルツへ一人一稼働日十二枚払ってますよね」


男の目が、細くなった。


「どこで聞いた」


「見ました。ヴァルツの帳場で。契約三十、検分の時に二十四」


男は、しばらく黙っていた。


「人足に渡っているのは、一日六枚です。残りが、人を集めて、字の読めない人に説明する手間の分だって、帳場の人が言ってました」


「……それで」


「人は、まだ足りてないですよね」


男は、答えなかった。


答えないことが、答えだった。


◇ ◇ ◇


ノアは、札を机に置いた。


「これで、仕事を出しませんか」


「何だこれは」


「仕事を探すための紙です」


「字がないぞ」


「字が読めない人に見せるので」


ノアは、上から順に指した。


「ここが、場所。ここが、仕事。人の数。日の数。一日の手間賃。飯。寝床」


男は、札を手に取った。


上の段で、指が止まった。


「……これは、うちの焼き印か」


「表の杭にあったので。まだ勝手に描いただけです」


男は、少しの間、黙ってそれを見ていた。


「これで、人が来るのか」


「分かりません」


「分からん?」


「まだ、やったことがないので」


男は、眉を寄せた。


「何人集められる」


「それも、分かりません」


「では、お前は何を請け負う」


「募集を出します」


ノアは言った。


「この札を作って、置く場所に置いて、人の形を消して、終わったら外します。それだけです」


◇ ◇ ◇


「僕は、人を保証しません」


男が、口を開きかけた。


ノアは、先に続けた。


「誰を雇うかは、そちらで決めてください。来た人を見て、使えないと思ったら断ってください」


「……」


「働いた分は、本人へ直接払ってください。僕を通さないで」


「お前は、何も持たんのか」


「僕が扱うのは、この札だけです」


男は、しばらくノアの顔を見ていた。


借りも、飯も、寝床の世話も、この若者は抱えない、と言っている。


人も、手間賃も、自分の手を通さない、と言っている。


「……で、お前はいくら取る」


「この紙を置く分です」


「置く分?」


「一か所に、一回の募集で、銅貨十枚。そのうち二枚は、札を置いてくれた場所へ渡します」


「十人来ても?」


「同じです」


「一人しか来なくても?」


「同じです」


男は、指で机を叩いた。


何かを数えているようだった。


戸の外で、ロイが小さく息を吐いた。


◇ ◇ ◇


「ヴァルツとの約束は、約束だ」


やがて、男が言った。


「あれを止めるつもりはない」


「止めなくていいです」


ノアは言った。


「足りない分を、別に集めるだけなら」


男は、壁に貼られた紙を見た。


ノアの位置からも、字が見えた。


――次回検分


その横に、日の数。


もう、十日もなかった。


「……試しに、一度だけだ」


男は言った。


「東の区間の土運び。十人。五日」


男は、自分の紙に書きながら続けた。


「日当は八枚。うちから、本人に払う。飯は朝と夜、こっちで出す。寝床は、普請場の小屋だ」


十二枚から、手配の分が抜けていた。


それでも、ヴァルツの六枚よりは多かった。


ノアは、何も言わなかった。


条件を決めるのは、この男だった。


ノアは、それを良くも悪くもしない。


聞いたままを、札にするだけだった。


「来なかったら、それまでだ」


「はい」


「置く場所は、五か所だな。五十枚」


男は、銅貨を数えて机に置いた。


「来たら、次の話もする」


小屋を出る時、男が戸口のロイに目をやった。


「西の兵だったな」


立ち方で分かる、という顔だった。


ロイは、答えなかった。


男も、それ以上は聞かなかった。


◇ ◇ ◇


普請場を抜ける間、ロイは、土を運ぶ人足たちの首元を見ていた。


木札を下げている者がいると、その焼き印に目をやった。


どれも、ロイの村の印ではなかった。


窪地へ戻る道で、ロイが言った。


「値切られなかったな」


「人が何人来ても、札の値段は変わらないので」


ロイは、少し考える顔をした。


「来なけりゃ、損をするのは向こうだぞ」


「来なかったら、次の話はないです」


ロイは、少し笑った。


「商売人だな」

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