第7話 二組目の屋根
二組目が来たのは、それから四日後の昼過ぎだった。
丘の上に、荷車が一台。
馬が一頭。
人が四人。
畑にいたダグが顔を上げ、それから黙って鍬に戻った。
ノアは、台帳を閉じて立ち上がった。
「二組目ですね」
横で薪を割っていたミラが、手を止めた。
「嬉しそうだね」
「嬉しいので」
「まだ泊める場所ないよ」
「……一組目の時も、なかったよ」
「一組目の時は、晴れてたの」
ミラは、西の空を見た。
雲が、低く垂れ込め始めていた。
◇ ◇ ◇
荷車を引いてきたのは、五十くらいに見える行商人の男だった。
後ろに、荷担ぎらしい若い男が二人。
もう一人、痩せた中年の男が、荷車の後ろを押していた。
「ローデン村で聞いた。丘の向こうに、泊めてくれる所があると」
「泊める、というか」
ノアは、自分の後ろを振り返った。
骨組みの小屋が三つ。
屋根が乗っているのは、二つ。
三つ目だけ、屋根がなかった。
「場所をお貸ししてます。水と火と、荷車を置く所です。食事は出ません」
「それでいい。飯は持ってる」
男は頷いた。
「それで、いくらだ」
「お金でも構いませんが、できれば食べる物の方が助かります」
男の顔が、少し曇った。
「食い物は、宿代に出せるほどは余ってない。この先の宿場までの分と、少しだけだ」
「お金は」
「少しならある。だが、それも向こうで仕入れに使う分だ」
男は、申し訳なさそうに頭を掻いた。
「……払えるのは、ほんの少しだ」
ノアは、少し考えた。
前の一組は、干し肉と豆を置いていった。
それで一日分。
客が来れば、食べる物が入る。
そういうものだと、どこかで思っていた。
「なるほど」
「なるほど?」
「いえ、こっちの話です」
◇ ◇ ◇
話している間に、空が一段暗くなった。
風が、湿った匂いを運んでくる。
ミラが、三つ目の骨組みの前に立っていた。
屋根のない枠の向こうに、灰色の空が見える。
ミラはしばらくそれを見上げてから、ノアの方へ戻ってきた。
「ノア」
「うん」
「今日は、ここでは泊められない」
行商の男が、ミラを見た。
ミラは、男ではなくノアに向かって話した。
「あそこじゃ、雨が全部入る。この前は晴れてたから、布を掛けて寝られただけ」
「屋根のある方は」
「うちの寝床。こっちの屋根に入れたら、今度はうちの誰かが外に出ることになる」
ミラは、はっきり首を振った。
「それは駄目」
ノアは、黙って頷いた。
ミラの言う通りだった。
九人の寝床を削って客を取ったら、それは宿ではない。
行商の男は、空を見上げて溜め息をついた。
「……参ったな」
「ローデン村へ戻るのは」
「丘二つだろう。荷を積んだまま戻ってる間に、降られる」
「先へ進むのは」
男は、荷車の横の馬を見た。
馬は首を垂れて、脇腹を大きく上下させていた。
「こいつが、もう持たん。今日は朝から坂続きだった」
若い男の一人が、不安そうに空を見た。
泊める側も、困っている。
泊まりたい側も、困っている。
ノアは、三つ目の骨組みを見た。
屋根がない。
屋根を作る手が足りない。
ダグとトビは、畑から外せない。
だが、目の前には、手の空いた大人が四人いる。
「あの」
「何だ」
「寝る場所を作るのを、手伝ってもらえませんか」
ノアは、骨組みを指差した。
男たちが、顔を見合わせた。
「宿代の代わりに、です。屋根を作る手が、こっちには足りないので」
行商の男は、しばらく骨組みとノアを見比べていた。
それから、口の端を上げた。
「泊まる場所を、自分で建てろってことか」
「今夜の分は、一緒に作ります」
「……変わった宿だな」
「よく言われます」
横で、ミラが無言で自分を指差した。
◇ ◇ ◇
屋根を一晩で葺くことはできない。
今夜を凌ぐものが要った。
「荷車の覆い、外せる?」
ミラが聞いた。
行商の男が、顔をしかめた。
「外したら、荷が濡れる」
「荷も下ろして、布の下に入れるの。人と一緒に」
ミラは、荷車を指差した。
「空の荷車なら、濡れても困らないでしょ」
男は少し考えてから、頷いた。
荷を覆っていた厚手の布は、油を染ませてあって、雨を弾くらしかった。
「それ、あの骨組みの上に張って。平らに張ったら駄目。水が溜まって落ちてくるから。こっち側を高くして、あっちへ流して」
若い男二人が、布を持って骨組みに上がる。
「縄は?」
「荷を縛ってたのがある」
「じゃあそれで四隅留めて。風で煽られないように、下の方はきつく」
ノアは、骨組みの下で布の端を押さえていた。
言われた通りに縄を回し、言われた通りに結ぶ。
「ノア、そこ緩い」
「結んだけど」
「結んだだけで締めてない」
「……締めた」
「さっきよりはまし」
雨除けの布が、骨組みの上に斜めに張られた。
若い男たちが荷台から荷を下ろし、布の下へ運び込んでいく。
ミラは、その下に入って見上げた。
「水は、あっちの溝に落ちる。荷は一番奥。濡らしたくないものほど奥に積んで。寝床はその手前。入口の側は濡れるから、何も置かないで」
それから、焚き火の場所を決め、客用の水桶を一つ出した。
馬の方を見ると、トビが畑から戻ってきていた。
雨が近いので、ダグと二人で早めに引き上げてきたらしい。
トビは、行商の男の馬の首を撫でてから、男に聞いた。
「飼い葉は、持ってるか」
「今夜の分なら、荷車に積んである」
「ならいい」
トビは、馬の脚を一本ずつ持ち上げて確かめた。
「うちには、馬に食わせる物がないから」
ミラが、ちらりとトビの方を見た。
何も言わなかったが、少しだけ眉が寄っていた。
◇ ◇ ◇
雨は、夜になって降り出した。
張った布の上で、雨粒がずっと鳴っていた。
隙間から風が入る。
床は土のままで、湿った冷たさが上がってくる。
毛布も敷物も、客が自分で持ってきたものだけだった。
それでも、布の下は濡れなかった。
夜中に一度、ミラが様子を見に行った。
戻ってきたミラに、ノアが聞いた。
「どうだった」
「寝てた。四人とも」
「そっか」
「いびき、うるさかった」
「それは、宿の責任じゃないね」
「泊めたのはこっちだけどね」
◇ ◇ ◇
翌朝。
雨は小降りになっていたが、止んではいなかった。
街道の土はぬかるみ、荷車の車輪が沈むほどだった。
「今日は、動けんな」
行商の男が、空を見て言った。
ノアは道を見て、それから男を見た。
「今夜も泊まりますか」
「……そうなるな」
「なら、二晩目の分も手伝ってもらえますか」
男は、三つ目の骨組みを見た。
「そういうことか」
「はい」
男は、荷車の方を振り返って、顔をしかめた。
「ただ、飼い葉がもうない。昨日の分で終わりだ」
ちょうど畑へ出ようとしていたトビが、足を止めた。
馬を見て、それから、丘の斜面を見る。
低木の間に、雨を吸った草が伸びていた。
「草なら、そこら中に生えてる」
トビは、馬の手綱を長い縄に結び替え、斜面の杭に繋いだ。
「飼い葉ほど腹にはたまらんが、一日くらいなら持つ」
馬は、すぐに草を食み始めた。
「二日は?」
ノアが聞いた。
トビは、少し考えてから首を振った。
「重い荷を引くなら、草だけじゃ足りん」
トビは馬の首を一度叩いて、ダグの方へ戻っていった。
ミラが、その背中を見送ってから、ノアを見た。
ノアは、紙の端に小さく書いた。
――馬 飼い葉
畑へ出る前に、ダグが三つ目の骨組みの前に立った。
屋根のある二つの小屋を指差し、次に骨組みを見上げる。
「同じようにやれ。横木は、ここと、ここ」
「はい」
「そこは縄で結べ。蔓でもいい。そっちは詰めすぎるな。枝を渡したら、上に草と樹皮を重ねる。下から順に、上の段を少しかぶせろ。逆にやると、雨が中に入る」
「下から、少しかぶせる」
ノアは、紙に書いた。
ダグは、それを横目で見た。
「書いて覚えるのか」
「書かないと忘れるので」
「……好きにしろ」
ダグはそれだけ言って、トビを連れて畑へ出ていった。
◇ ◇ ◇
屋根に取りかかる前に、覆い布を骨組みから外した。
下ろした荷を骨組みの隅に寄せて積み直し、その上から布を掛ける。
小雨の中で、荷の山だけが濡れずに残った。
屋根作りは、ノアと、客の四人でやった。
若い男二人が林から枝を運び、痩せた男が縄を綯い、行商の男が枝を受け取って横木に渡す。
ノアは、ダグの言ったことを紙で確かめながら、それを結んでいった。
誰も、大工ではなかった。
ただ、人手があった。
ミラは時々、下から口を挟んだ。
「そこ塞いだら、出入りできないよ」
「あ」
「それと、今の向きだと、雨がこっちの入口に流れてくる」
「逆か」
「逆」
昼過ぎには、ゲルトがやってきた。
枝の束を一つ、黙って持ち上げる。
「ゲルトさん、無理しないでください」
「石よりは軽い」
ゲルトはそう言って、一束だけ運んで、また石垣の方へ戻っていった。
その日の夕方、雨は上がった。
横木は渡し終わった。
枝も、半分ほど乗った。
草と樹皮は、端の方に少しだけ。
◇ ◇ ◇
三日目の朝。
街道の土は、どうにか乾き始めていた。
若い男たちが荷を積み直し、覆い布を掛けて縄を回していた。
「そろそろ出る」
行商の男が、荷車に馬を繋ぎながら言った。
「屋根、途中で悪いな」
「いえ。十分です」
ノアは、骨組みを見上げた。
二日前は、屋根がなかった。
今は、半分に枝が渡り、端に屋根の形が見え始めている。
「宿代は」
男が、懐に手を入れかけた。
「もう、いただきました」
ノアは、屋根を指差した。
男は、しばらく屋根を見ていた。
それから、笑った。
「次に来る時には、全部乗ってるといいな」
「たぶん、乗ってます」
「たぶん、か」
「たぶん、です」
荷車が、丘を越えていった。
◇ ◇ ◇
残りは、数日かけて少しずつ仕上げた。
ノアが、朝と夕方に。
トビが、畑仕事の後に。
ゲルトが、石積みの合間に、一束ずつ。
ダグは一度だけ、畑の帰りに屋根を見上げて、樹皮の重ね方を二か所直させた。
畑は、一日も止まらなかった。
客が発って、五日目の夕方。
最後の樹皮が、屋根のてっぺんに乗った。
床は土のまま。
壁は、まだ半分しかない。
隙間風も入る。
毛布もない。
食事も出ない。
それでも、屋根はあった。
◇ ◇ ◇
ノアとミラは、三つ目の小屋の前に並んで立っていた。
客は、いなかった。
「これで、雨でも一組は泊められる」
ノアが言った。
「一組だけね」
ミラが言った。
「一組は、泊められる」
「言い直さなくていいよ」
ミラは小屋の中に入り、屋根を見上げて、壁の隙間に手をかざした。
「……風除け、あと布一枚あったらいいんだけど」
「布は、次の客に聞いてみる」
「払えなかったら?」
「張るのを手伝ってもらう」
ミラは、呆れたように笑った。
その夜、ノアは台帳を開いた。
――泊まり 一組
ノアは「一組」に線を引いて、横に「二組」と書いた。
その下に、一行書き足した。
――二組目 宿代 屋根
さらにその下に、もう一行。
――客用寝床 一




