第6話 飯の出ない宿
畑にする土地から、石がなくなり始めていた。
ダグが鍬を入れ、トビが掘り返した石を拾う。
拾った石は、ゲルトが畑の端に積んでいく。
いずれ、低い石垣になるらしい。
ノアは、少し離れた木陰で台帳を広げていた。
――麦 二袋と、先にもらった一袋の残り
――九人 一日あたり
――種 麦・豆 別包み
一日に九人が食べる量を、麦の量から引いていく。
もう一度、引いていく。
何度やっても、同じところで止まった。
三日後に飢えることは、なくなった。
だが、収穫まではまるで届かない。
ノアは台帳を閉じて、畑の方へ歩いていった。
「ダグさん」
「何だ」
「麦、収穫の前に尽きます」
ダグは鍬を止めなかった。
「知ってる」
「知ってたんですか」
「種を蒔いて、刈り取るまで何か月かかると思ってる。麦三袋で足りるわけがない」
ノアは、少し考えた。
「またローデン村で働けば――」
「その間、畑は誰がやる」
ノアは止まった。
ダグは鍬を振り下ろし、土を返した。
「今、蒔かなきゃ間に合わん。俺とトビが村に出てる間、ここは止まる。止まった分だけ、収穫が遅れる。遅れた分だけ、また麦が要る」
「……」
「働きに出れば、今日は食える。だが、先が食えなくなる」
ダグは、ようやく手を止めて、ノアを見た。
「どっちかしか選べんぞ」
◇ ◇ ◇
その日、ノアは何度も「誰が何できるか」の紙を開いた。
ダグ。畑。
トビ。家畜と、畑の手伝い。
ゲルト。石積み。長くは働けない。
ハンナ。保存食と縫い物。
エルマ。縫い物と、子供の面倒。
ミラと自分の名前は、そもそも書いていなかった。
書くとしたら、ミラは台所と暮らしの回し。
自分は、「字と、数」くらいだ。
誰を外へ出しても、ここで何かが止まる。
前の時は、誰を出すかを選べばよかった。
今回は、選べる人がいない。
夕方、ミラが紙を覗き込んだ。
もちろん、読めない。
だが、ノアの顔を見れば、だいたいのことは分かったらしい。
「今回は、余ってるものないね」
「ないね」
ノアは、紙を畳んだ。
売れる物はない。
借りても、返す当てがない。
獣を獲れる者もいない。
焚き火の前で、ノアは長いあいだ黙っていた。
ミラも、それ以上は何も言わなかった。
◇ ◇ ◇
二日後。
丘の向こうから、ロルフが歩いてきた。
「よう」
「こんにちは」
「畑、始めたか」
ロルフは石垣になりかけた石の列を見て、それからノアを見た。
「長から伝言だ。西の街道の橋が落ちた」
「橋?」
「陣で聞いた話だがな。直すのに、まだ何日かかかるらしい。それで、向こうへ抜けたい連中が、うちの村の脇道を回り始めてる」
ノアは頷いた。
「荷車も、馬も通る。村じゃ全部は泊められん。泊める家もないし、荷車を置く場所もない」
「それで」
「長が、何組かに言っちまった」
ロルフは、ばつの悪そうな顔をした。
「丘の向こうに、水と空き地だけはある、ってな」
ミラが、洗っていた鍋から顔を上げた。
「……ここのこと?」
「他にあるか」
ロルフは肩をすくめた。
「来るかもしれんぞ。来ないかもしれんがな」
◇ ◇ ◇
来た。
その日の、日が傾き始めた頃だった。
丘の上に、荷車が一台。
馬が二頭。
人が三人。
行商らしい中年の男と、若い男が二人。
荷車は泥にまみれ、馬の脚も汚れていた。
中年の男が、ノアたちを見つけて近づいてきた。
「ここが、ローデン村で聞いた場所か」
「たぶん、そうです」
「一晩、休ませてもらえないか。馬も荷も、限界でな」
ノアの口が、勝手に動いた。
「お泊まりは、三名様で――」
言いかけて、止まった。
振り返る。
骨組みの小屋が三つ。
屋根が乗っているのは、二つ。
焚き火。
荷物置き場。
九人分の、生活。
横で、ミラが言った。
「部屋ないよ」
「うん」
「毛布もないよ」
「うん」
「ご飯も出せないよ。こっちの分でぎりぎりなんだから」
「うん」
「馬、どこに繋ぐの?」
「……」
「雨降ったらどうするの?」
ノアは、黙って自分たちの土地を見た。
どう見ても、宿ではなかった。
行商の男が、二人のやり取りを見て苦笑した。
「飯は要らん。食う物は、自分たちで持ってる」
ノアが、男を見た。
「毛布もある。欲しいのは、水と火と、荷車を止めておける場所だ。あとは、野宿よりましならそれでいい」
「野宿よりまし、ですか」
「街道の脇で寝てみろ。夜通し、荷を見張ってなきゃならん。人がいるところで寝られるだけで、ずいぶん違う」
ノアは、少し考えた。
飯は、出せない。
部屋も、毛布もない。
だが、水はある。
火を起こす場所もある。
荷車を止める空き地は、いくらでもある。
九人が暮らしている。
人の気配がある。
――食事を出さなければいい。
出せないものは、出さない。
出せるものだけを、出す。
「場所だけ、お貸しするのはどうですか」
「場所?」
「水は使ってください。火も起こしていいです。荷車と馬を置く場所も決めます。食事は出せません。その代わり、お代もその分だけで」
男は、ノアの顔をまじまじと見た。
「……宿の人間みたいな口をきくな」
「宿で働いてたので」
「今は?」
ノアは、少し考えた。
「今も、たぶん」
◇ ◇ ◇
ノアが条件を並べ始めた、その横で。
ミラは、もう動いていた。
「馬は、あっち。畑から一番遠いとこ。踏まれたら困るから」
ミラは若い男の一人に指を差した。
「荷車は、その手前。夜は馬のそばに置いといた方が、見張りが一人で済むでしょ」
「え、あ、はい」
「火は、こっちの焚き火と分けて。風下に作って。煙がうちの寝床に流れてこないように」
もう一人の若い男が、慌てて頷く。
「寝るなら、骨組みだけの小屋の中。屋根はないけど、壁が半分あるから、風は少しましになる。布があったら、上に掛けていいよ」
「……布なら、荷車に」
「じゃあ掛けて。それと」
ミラは、水桶の並んだ場所へ歩いていき、一つを持ち上げた。
「これ、お客さん用。うちの桶には手をつけないで。水が要ったら、これで泉まで汲みに行って」
ノアは、書きかけた条件の紙を見下ろした。
――水、使用可。
――火、場所を指定。
――馬、荷車、置き場所を指定。
――住民の食料には触れない。
――揉め事、禁止。
紙に書いたことは、全部、ミラがもう口で済ませていた。
書いていないことまで、済ませていた。
ノアは、紙を畳んだ。
「ミラ」
「何?」
「泊まる方は、任せる」
ミラは振り向きもせずに言った。
「最初からそのつもり」
◇ ◇ ◇
「で、お代のことですけど」
ノアは、行商の男に向き直った。
「何がいい。金か」
「金も助かります。でも、できれば食べる物の方が」
男は、少し意外そうな顔をした。
「食い物か。宿が、客から?」
「飯が出ない宿なので」
男は声を上げて笑った。
それから荷車を探り、小さな包みをいくつか持ってきた。
銅貨が数枚。
干し肉が一束。
豆が、両手に一杯分ほど。
「こんなもんでどうだ」
「十分です」
ノアは受け取ったものを数え、頭の中で台帳に書き込んだ。
横を、薪を抱えたミラが通り過ぎていく。
「これ、宿なの?」
「泊まるなら、たぶん」
「宿で働いてた人が言う台詞じゃないよ」
「働いてた宿には、部屋があったから」
「そういう問題じゃない」
◇ ◇ ◇
夜。
焚き火が二つ、少し離れて燃えていた。
一つは九人の火。
もう一つは、客の火。
トビが、畑仕事の後で馬の脚を見に行った。
泥を落とし、蹄を確かめる。
行商の若い男が、その手つきを感心したように眺めていた。
子供たちは、ハンナに寝床へ押し込まれながら、何度も馬の方を振り返っていた。
ミラは一度、客の焚き火のそばまで行き、薪が足りているかを確かめて戻ってきた。
ノアは、寝る前に台帳を開いた。
受け取ったものを、一つずつ書き入れた。
◇ ◇ ◇
翌朝。
行商の一行は、日が昇ると同時に荷車を出した。
「悪くなかった」
中年の男が言った。
「橋が直るまでは、また通るかもしれん」
「その時は、またどうぞ」
「飯は出ないんだろう」
「出ません」
男は笑って、手を振った。
荷車が丘を越えて、見えなくなった。
ノアは台帳を開いた。
銅貨。干し肉。豆。
九人の一日分の量と、並べてみる。
ミラが、横から覗き込んだ。
「これで、何日増えた?」
ノアは、指で数字を追った。
「一日分くらい」
ミラは黙った。
「……全然足りないじゃん」
「うん」
橋が直れば、この道を回る人は減る。
客が来なければ、何も増えない。
畑だって、うまくいくとは限らない。
何も、解決していなかった。
ノアは、台帳から顔を上げた。
畑では、ダグとトビが、昨日と同じように鍬を振るっていた。
ゲルトが、また一つ石を積んでいた。
誰も、村へ働きに出ていない。
「でも」
ノアは言った。
「畑は、止まってない」
ミラも、畑の方を見た。
しばらく黙ってから、小さく頷いた。
◇ ◇ ◇
ノアは、台帳の新しい行に、一行だけ書き足した。
――泊まり 一組
ミラが覗き込む。
「何て書いたの?」
「泊まり、一組」
「……一組で、わざわざ書くの?」
「一組目だから」
ミラは、何か言いかけて、やめた。
部屋はない。
毛布もない。
看板もない。
食事も出ない。
宿と呼べるものではなかった。
それでも。
最初の一組は、ここで夜を越した。




