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第5話 九人分の明日

その砦は、三日前から門を閉ざしていた。


降伏の勧告は、すでに届いている。


返事は、まだ出していなかった。


城壁の上では、兵たちが声を潜めて話していた。


「一人で城門を吹き飛ばしたらしい」


「魔法も効かなかったって聞いた」


「騎士団が、壁ごと飛ばされたとか」


「……武器を捨てた奴には、手を出さなかったとも聞いたぞ」


誰も、それ以上は言わなかった。


砦の主は、戦うと言った。


城壁は高い。


備えもある。


ここで屈すれば、周りの領主たちに笑われる。


兵たちは、黙って聞いていた。


頷く者は、少なかった。


四日目の朝。


砦の前に、一人の男が立った。


馬を降り、門の正面まで歩いてくる。


剣は、腰に下げたままだった。


抜かない。


構えもしない。


ただ、そこに立っている。


城壁の上から、弓兵が弦を引いた。


だが、矢は放たれなかった。


誰も、号令をかけなかった。


長い沈黙があった。


やがて。


門の閂を外す音が、内側から響いた。


誰が命じたのかは、分からなかった。


門が、ゆっくりと開いていく。


城壁の上で、誰かが呟いた。


「……獅子だ」


隣の兵が、首を振った。


「災厄だって話だ」


◇ ◇ ◇


降った砦の一室に、地図が広げられていた。


側近が、淡々と報告を続けている。


「本日の砦で、この一帯の南側は片付きました。周りの村のうち三つが、使者を出してきております」


男は地図を見ていた。


「西の街道は、橋が一つ落ちております。直すには十日ほど」


「西の諸侯は」


「集まって話し合っているようです。まだ、まとまってはおりません」


男は、それ以上何も言わなかった。


側近は次の紙をめくった。


「次の進軍先についてですが――」


報告は、しばらく続いた。


男は一度も口を挟まず、地図の上の印を目で追っていた。


最後の紙を手に取ったところで、側近が言った。


「それと、先日報告にあった空白地ですが――」


◇ ◇ ◇


その空白地では、九人が鍋を囲んでいた。


鍋の中身は、薄かった。


「あと三日」


ミラが、空になりかけた袋を覗き込んで言った。


「切り詰めて?」


ノアが聞く。


「切り詰めて、三日」


焚き火のそばが、静かになった。


ノアとミラがエルダから持ってきた分。


ダグたちが逃げてくるときに抱えてきた分。


合わせても、九人で食べれば、あっという間だった。


水はある。


屋根も、どうにかできた。


焚き火の場所も、荷物を置く場所も決まった。


だが、食べ物がない。


「畑なら作れる」


ダグが言った。


「土も、悪くはない。石をどけて耕せば、使える」


「じゃあ――」


「でも、今日蒔いて、明日食えるわけじゃない」


ダグは、鍋を見た。


「収穫まで、何か月もかかる。その間、食う物がいる」


ノアは頷いた。


それから、懐から紙を取り出した。


四日前に書いた、「誰が何できるか」の紙だった。


「売れるものは?」


ミラが首を振る。


「ないよ。お金もほとんど残ってない」


「作物も、商品もない」


「うん」


ノアは、紙の上の名前を一つずつ眺めた。


畑。


木の加工。


縫い物。


家畜。


石積み。


「……人手なら、ある」


「人手?」


「働ける人が、九人のうち何人かいる」


ノアは、紙から顔を上げた。


「ローデン村って、畑があったよね」


「あったね。家畜もいた」


「若い人が、獅子の陣に見張りや荷運びで出されてるって言ってた」


ミラが、少し考える。


「……人が、足りてないってこと?」


「かもしれない」


ノアは紙を畳んだ。


「聞きに行ってみる」


◇ ◇ ◇


翌日。


ノアとミラ、ダグの三人で、丘を二つ越えた。


ローデン村の畑は、前に来たときと同じように広がっていた。


だが、よく見ると様子が違う。


畑の端に、掘り起こした石が山のまま放ってある。


家の脇を通る溝には、泥が溜まって水が淀んでいた。


働いているのは、年寄りと女ばかりだった。


「……また、お前か」


ベルントは、ノアの顔を見るなり言った。


「またです」


「今度は何だ。泉の話なら、ちゃんと守っているぞ」


「知ってます。馬、下で飲ませてくれてるって」


ベルントは鼻を鳴らした。


「それで」


「食料を、分けてもらえないかと思って」


ベルントの眉が寄った。


「ただで、か?」


「いえ」


「うちにも、余っとるわけじゃない」


「ですよね」


ノアは、畑の端の石の山を見た。


溝の泥を見た。


「あの溝、泥がだいぶ溜まってますね」


ベルントが、ノアの視線を追った。


「……雨が来る前に浚いたいんだがな。水はけが悪いと、畑が水に浸かる」


「あっちの石は?」


「新しく畑を広げるつもりで、掘り起こしたところだ。運び出す手がない」


「若い人は」


「半分は、獅子の陣に出ておる。見張りだの、荷運びだの。いつ戻るかも分からん」


ベルントは、溜め息をついた。


「残っとる者だけじゃ、手が回らん」


ノアは、少しだけ黙った。


こちらは、食べる物が足りない。


向こうは、働く手が足りない。


「じゃあ」


「何だ」


「こっちから、人を出します。溝と石、片付けます。その代わり、食べる物を分けてください」


ベルントは、ノアを見た。


それから、後ろに立っているダグを見た。


ダグの手を見た。


畑仕事をしてきた者の手だった。


「……何人出せる」


ノアは、紙を広げた。


「ダグさん。トビ。ゲルトさん。それから、ハンナさんとエルマさんも――」


「待って」


ミラが、ノアの袖を引いた。


「ゲルトさん、そんなに長く働かせられないよ。この前だって、朝ごはん抜いて石運んでたんだから」


「……そうだった」


「それに、ハンナさんとエルマさんまで出したら、子供は誰が見るの?」


ノアは、紙を見た。


名前の横には、「石積み」「縫い物」「子供の面倒」と書いてある。


できることは、書いてあった。


その人がいなくなったら、何が回らなくなるかは、書いていなかった。


ノアは、三つの名前に線を引いた。


「ダグさんと、トビ。それと、僕」


ダグが、横目でノアを見た。


「お前は、一人分には数えんぞ」


「半分くらいで」


「三分の一だな」


ミラが、小さく吹き出した。


ベルントは、呆れたように首を振った。


「……五日だ。五日で、溝と石を片付けろ」


「代わりに?」


「働く三人の昼飯は、こっちで出す。それと、麦を一袋、先に持っていけ」


「先に?」


「五日の間に、そっちの九人が干上がったら、溝も石も片付かんだろう」


ベルントは、指を折った。


「残りは、仕事が終わってからだ。九人が、しばらく食うだけの麦。それと、塩を少し」


ノアが頷きかけたところで、ミラが口を開いた。


「食べる分だけじゃ駄目」


全員が、ミラを見た。


「種も要る。全部食べたら、畑に蒔く分がなくなるでしょ」


ノアは、少し黙った。


「……そこまで入れてなかった」


「今、忘れてたでしょ」


「食べる方ばかり考えてた」


ダグが、横からノアを見た。


「お前、本当に畑を作る気あるのか」


「作る気はあります」


「気だけじゃ生えんぞ」


ベルントが、声を上げて笑った。


低い、大きな笑い声だった。


「いいだろう。麦の種と、豆の種を少し付けてやる。これも、仕事が終わってからだ」


「助かります」


ベルントは笑いを収めて、ノアを見た。


「今度は、紙に書かんのか」


「今回は、五日で終わる話なので」


「泉の時は、書いたろう」


「泉は、来年も続く話でしたから」


ベルントは、しばらくノアの顔を見ていた。


「……紙がないと落ち着かん男かと思ったがな」


「そういうわけでもないです」


◇ ◇ ◇


五日間、ノアたちは溝の泥を浚い、石を運んだ。


二日目の朝、溝のそばにロルフが立っていた。


陣での務めを終えて、戻ってきたところらしかった。


ロルフは、泥に膝まで浸かったダグを見た。


ダグも、ロルフを見上げた。


泉で、棒と剣を挟んで睨み合った二人だった。


ロルフは何も言わず、壁に立てかけてあった鋤を手に取った。


溝に降りて、ダグの隣で泥を掻き出し始めた。


ダグも、何も言わなかった。


二人は並んで、日が暮れるまで泥を掻いた。


ノアも溝に入った。


泥は重かった。


昼前には、腕が上がらなくなった。


「三分の一どころか」


ダグが言った。


「五分の一だな」


「……よく言われます」


溝の上から、ミラの声が降ってきた。


「言われてないでしょ、それは」


◇ ◇ ◇


五日目の夕方。


ロルフが荷車を引いて、開拓地まで麦を運んできた。


麦の袋が二つ。


塩の小さな壺が一つ。


それと、布に包んだ種。


ダグは布を開き、種を一つかみ、掌に乗せた。


しばらく、黙ってそれを見ていた。


「……これなら、畑を始められる」


低い声だった。


ハンナが、ダグの肩に手を置いた。


子供たちが、麦の袋の周りを走り回っていた。


◇ ◇ ◇


その夜。


ミラは、久しぶりに中身の詰まった鍋をかき混ぜていた。


ノアは焚き火の明かりで、新しい紙を広げていた。


今度は、「誰が何できるか」ではない。


――麦 二袋と、先にもらった一袋の残り


――九人 一日あたり


ミラが、横から覗き込んだ。


もちろん、読めない。


「何書いてるの?」


「麦が、何日もつか」


「種の分、ちゃんと書いてる?」


ノアは手を止めた。


「……まだ」


ノアは、一行書き足した。


――種 麦・豆 別包み


ミラは溜め息をついて、鍋に戻った。


◇ ◇ ◇


翌朝。


ノアは、畑にする予定の土地の前に立っていた。


ダグとトビが、石を掘り起こしている。


まだ、何も生えていない。


種を蒔いても、収穫はずっと先だ。


それでも、数日前とは違った。


数日前は、いつ食べ物がなくなるかしか、分からなかった。


今は、その先に、収穫がある。


外から見れば、九人だった。


報告書に書けば、それで終わる数字だ。


だが、ノアの台帳の上では、その九は、毎日食べる口の数だった。


九人分の、明日だった。


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