第4話 捨て置かれた土地
翌朝。
ノアとミラが窪地へ降りていくと、焚き火のそばでダグが顔を上げた。
「戻ったか」
「戻りました」
「……生きてたな」
「生きてました」
ダグは、ノアの後ろのミラを見て、それからもう一度ノアを見た。
「それで、どうなった」
「水、使えることになりました」
ダグの手が止まった。
「……本当に話をつけたのか?」
「はい」
ノアは袋から紙を取り出し、広げて見せた。
ダグは紙に目を落とした。
しばらく眺めてから、顔を上げる。
「何て書いてある」
「今まで村が使ってた分は、邪魔しない。こっちも、暮らしに要る分は汲んでいい。泉を汚さない。泉の周りでは、お互い手を出さない。だいたい、そんな感じです」
「……それを、向こうが呑んだのか」
「向こうも、来年の水が欲しかったので」
ダグは、よく分からないという顔をした。
だが、それ以上は聞かなかった。
代わりに、焚き火の方を振り返る。
「おい。水、汲みに行っていいそうだ」
天幕の方から、小さなどよめきが上がった。
子供が一人、桶を抱えて走り出そうとして、母親に襟首を掴まれる。
ミラが一歩前へ出た。
「あと、鍋。返してもらいに来たんだけど」
ダグの妻――ハンナというらしい――が、きれいに洗われた鍋を持ってきた。
「助かったよ。子供たち、久しぶりに温かいもんが腹いっぱい入った」
ミラは鍋を受け取り、少しだけ照れたように目を逸らした。
「……ならいいけど」
◇ ◇ ◇
水の心配がなくなった。
それだけで、話すことが変わった。
今日どうやって生き延びるか、ではない。
ここでどうやって暮らすか、だ。
「まず、屋根だな」
ダグが言った。
「雨が来たら、天幕じゃもたん。子供が冷える」
「そうですね」
ノアは頷いた。
それから、真顔で聞いた。
「家って、どうやって建てるんです?」
ダグが、ゆっくりとノアを見た。
「……お前、本当に何ができるんだ?」
「字なら書けます」
「字で屋根は乗らんぞ」
「そうなんですよね」
ミラが横から付け足す。
「あと、数えるのもできるよ」
「数えるのは、俺たちもできる」
「……だよね」
ダグは大きく溜め息をついた。
だが、その顔は、少しだけ笑っているようにも見えた。
「いいか。まず、まっすぐな木を選ぶ。細すぎても太すぎても駄目だ。地面は低いところを避けて、少し高い場所をならす。雨の水がどっちへ流れるか、先に見ておく」
「なるほど」
「なるほどじゃない。お前も運ぶんだ」
「運びます」
ノアは木を運んだ。
重かった。
三本目で、肩が上がらなくなった。
「……もう限界か」
「たぶん」
「情けない領主だな」
「よく言われます」
ミラは離れたところで、黙って自分を指差していた。
◇ ◇ ◇
昼を過ぎた頃。
ミラが、木陰で紙に何か書いているノアを見つけた。
「何書いてるの?」
「誰が何できるか」
ミラは紙を覗き込んだ。
もちろん、読めない。
「読んで」
「ダグさん。畑。木の加工も少し」
「うん」
「ハンナさん。縫い物と、保存食」
「うん」
「トビ。馬と家畜。前の村で世話してたって」
トビは、泉へ一緒に行った若い男だった。
「ゲルトさん。石積み。昔、村の井戸の石を組んだことがある」
「あのおじいちゃん?」
「うん。エルマさん。縫い物と、子供の面倒」
ミラは少し黙って聞いていた。
「……いつ聞いたの、そんなの」
「木を運びながら。休んでる時とか」
「運んでなかったじゃん、ほとんど」
「だから聞く時間があった」
ミラは呆れたように笑った。
それから、紙の上ではなく、窪地の方へ目を向けた。
「ねえ。ゲルトさん、朝から何も食べてないよ」
「え」
「若い人たちに先に回してた。あと、子供の寝る場所。先に決めた方がいい。今の天幕、風が入る側に寝かせてる」
ノアは紙を見た。
ゲルトの名前の横には、「石積み」としか書いていない。
「……それ、書いてなかった」
「書くものじゃないでしょ」
ミラはそう言って、鍋を抱えてゲルトの方へ歩いていった。
ノアはしばらく紙を眺めていた。
それから、端に小さく書き足した。
――子供の寝床、風の当たらない側。
◇ ◇ ◇
それから、三日が過ぎた。
木の骨組みが三つ立った。
枝葉と古布を重ねた屋根が、そのうち二つに乗った。
壁はまだ半分しかない。
焚き火の場所が決まった。
荷物を置く場所が決まった。
泉までの道には、九人が何度も往復した踏み跡ができた。
村と呼べるものではなかった。
家と呼ぶにも、少し足りなかった。
それでも。
岩と、低木と、風しかなかった土地に、煙が上がっていた。
人の声がしていた。
誰かが、そこで暮らしていた。
◇ ◇ ◇
四日目の昼。
「ノア」
ミラが、手を止めて丘の方を見た。
「誰か来る」
丘の上に、人影が見えた。
馬が三騎。
それと、徒歩の男が一人。
作業をしていたダグたちの手が止まる。
ダグが、そっと棒を手元へ引き寄せた。
子供たちが天幕の中へ押し込まれる。
徒歩の男には、見覚えがあった。
頬に古い傷。
「ロルフさんだ」
「泉の人?」
「うん」
だが、ロルフの隣で馬を進めている男は、見たことがなかった。
磨かれた胸当て。
腰の剣。
背筋の伸びた乗り方。
ロルフたちとは、明らかに違う。
男たちは、窪地の手前で止まった。
馬上の男が、ノアを見下ろした。
「お前が、この土地の領主を名乗っている男か」
「一応」
ミラが小声で言った。
「……そこ、毎回『一応』なんだ」
「毎回そうだから」
男は、そのやり取りには反応しなかった。
「獅子の軍で、この一帯を見回っている者だ」
名前は名乗らなかった。
◇ ◇ ◇
四日前、ノアが水利の取り決めを結んだ、ベルントが村長を務める村――ローデン村。
獅子に降ったその村は、取り決めの中身を、獅子の陣へ届け出ていた。
ロルフが、ばつの悪そうな顔で言った。
「長が、黙っているとあとで面倒になると言ってな。獅子に降った村が、よそと勝手に何か決めたとなれば、な」
「なるほど」
ノアは頷いた。
筋は通っていた。
「それで、確かめに来た」
馬上の男が言う。
「取り決めの紙を見せろ」
ノアは袋から紙を取り出した。
男は馬から降り、それを受け取った。
そして――読んだ。
目が、文字を順に追っていく。
一行目から、最後の署名まで。
誰かに読ませることもなく。
ノアが説明するより先に、読み終えていた。
男は紙から顔を上げた。
「中身に、おかしなところはない」
「ありがとうございます」
「礼を言われる筋合いはない」
男は紙を返しながら、ノアを見据えた。
「聞きたいのは中身ではない。なぜ、獅子に降った村と、勝手に取り決めを結んだ」
「水が必要だったので」
「村が獅子に降っていることは」
「行くまで、知りませんでした」
ロルフが横で、小さく肩をすくめた。
男は、しばらく黙っていた。
◇ ◇ ◇
「兵は」
「いません」
「いない?」
「ここにいるのが全部です。九人」
男は窪地を見回した。
骨組みだけの小屋。
半分の壁。
焚き火。
棒を握ったダグ。
天幕から覗く子供の顔。
「砦を作るつもりは」
ノアも、周りを見回した。
「まず、屋根を作ってるところです」
後ろで、ダグが微妙な顔をした。
「獅子の軍に、敵対するつもりはあるか」
「ないです」
「なら、我々に従うか」
ノアは、少し考えた。
「それも、まだ決めてません」
空気が変わった。
馬上の二人が、手綱を握り直す。
ダグの手に、力が入る。
ミラが、ノアの袖を掴んだ。
ノアは、同じ調子のまま続けた。
「僕は、ここに住みに来ただけなので」
挑発のつもりはなかった。
独立を宣言したつもりもなかった。
本当に、まだ何も決めていない。
それだけだった。
男は、ノアの顔をじっと見ていた。
嘘をついているかどうかを、確かめるように。
やがて、懐から折り畳んだ地図を取り出した。
広げて、指で辿る。
指が止まった場所は、ノアの持っている地図と、同じ場所だった。
「ここは、軍も手を出していない」
「そうなんですか」
「価値がないからな」
ミラが、ぼそりと言った。
「……また言われた」
男はミラを一瞥し、地図を畳んだ。
「軍の命令では、この一帯は当面放置となっている」
◇ ◇ ◇
「敵対しないというなら、今すぐこの土地をどうこうするつもりはない」
男は馬に戻りながら言った。
「ただし。ローデン村は、我々の下にある。今後もあの村と関わるなら、こちらもお前を見る」
「見るだけなら」
ミラが、ノアの脇腹を肘で突いた。
「……余計なこと言わない」
男は、ほんのわずかに眉を動かした。
それが呆れなのか、別の何かなのかは、分からなかった。
男たちが馬首を返す。
最後に、ロルフが振り返った。
「ああ、それとな」
「はい」
「馬は、下の流れで飲ませてる」
ミラが目を丸くした。
ロルフは、それだけ言って、背を向けた。
◇ ◇ ◇
丘の向こうの、小さな詰所。
報告を受けた上官は、机の上の紙に目を落とした。
「ローデン村が、水利の取り決めを結んだ、と」
「はい」
「相手は」
「例の空白地です」
上官が顔を上げた。
「……あそこに、人が入ったのか」
「九人ほどです」
「領主は」
巡察の男は、手元の紙に目をやった。
「ノア、と名乗っています」
上官は、しばらく黙っていた。
それから、報告書を引き寄せた。
――開拓領主 ノア
――人員 九
――兵力 なし
――獅子の軍への敵対意思 現時点では確認されず
――ローデン村との水利取り決めあり
上官は、最後の一行を指でなぞった。
「……捨て置かれていた土地だったはずだ」
巡察の男は、少しだけ間を置いて答えた。
「今は、人が住んでいます」
◇ ◇ ◇
数日前まで、そこには何もなかった。
人も。
家も。
名前も。
だが今、その土地には九人が暮らしている。
そして一枚の報告書には、
「ノア」
という名前が書かれていた。
その短い報告が、さらに北東へ送られることになるのは、もう少し後のことだった。




