↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
5/30

第4話 捨て置かれた土地

翌朝。


ノアとミラが窪地へ降りていくと、焚き火のそばでダグが顔を上げた。


「戻ったか」


「戻りました」


「……生きてたな」


「生きてました」


ダグは、ノアの後ろのミラを見て、それからもう一度ノアを見た。


「それで、どうなった」


「水、使えることになりました」


ダグの手が止まった。


「……本当に話をつけたのか?」


「はい」


ノアは袋から紙を取り出し、広げて見せた。


ダグは紙に目を落とした。


しばらく眺めてから、顔を上げる。


「何て書いてある」


「今まで村が使ってた分は、邪魔しない。こっちも、暮らしに要る分は汲んでいい。泉を汚さない。泉の周りでは、お互い手を出さない。だいたい、そんな感じです」


「……それを、向こうが呑んだのか」


「向こうも、来年の水が欲しかったので」


ダグは、よく分からないという顔をした。


だが、それ以上は聞かなかった。


代わりに、焚き火の方を振り返る。


「おい。水、汲みに行っていいそうだ」


天幕の方から、小さなどよめきが上がった。


子供が一人、桶を抱えて走り出そうとして、母親に襟首を掴まれる。


ミラが一歩前へ出た。


「あと、鍋。返してもらいに来たんだけど」


ダグの妻――ハンナというらしい――が、きれいに洗われた鍋を持ってきた。


「助かったよ。子供たち、久しぶりに温かいもんが腹いっぱい入った」


ミラは鍋を受け取り、少しだけ照れたように目を逸らした。


「……ならいいけど」


◇ ◇ ◇


水の心配がなくなった。


それだけで、話すことが変わった。


今日どうやって生き延びるか、ではない。


ここでどうやって暮らすか、だ。


「まず、屋根だな」


ダグが言った。


「雨が来たら、天幕じゃもたん。子供が冷える」


「そうですね」


ノアは頷いた。


それから、真顔で聞いた。


「家って、どうやって建てるんです?」


ダグが、ゆっくりとノアを見た。


「……お前、本当に何ができるんだ?」


「字なら書けます」


「字で屋根は乗らんぞ」


「そうなんですよね」


ミラが横から付け足す。


「あと、数えるのもできるよ」


「数えるのは、俺たちもできる」


「……だよね」


ダグは大きく溜め息をついた。


だが、その顔は、少しだけ笑っているようにも見えた。


「いいか。まず、まっすぐな木を選ぶ。細すぎても太すぎても駄目だ。地面は低いところを避けて、少し高い場所をならす。雨の水がどっちへ流れるか、先に見ておく」


「なるほど」


「なるほどじゃない。お前も運ぶんだ」


「運びます」


ノアは木を運んだ。


重かった。


三本目で、肩が上がらなくなった。


「……もう限界か」


「たぶん」


「情けない領主だな」


「よく言われます」


ミラは離れたところで、黙って自分を指差していた。


◇ ◇ ◇


昼を過ぎた頃。


ミラが、木陰で紙に何か書いているノアを見つけた。


「何書いてるの?」


「誰が何できるか」


ミラは紙を覗き込んだ。


もちろん、読めない。


「読んで」


「ダグさん。畑。木の加工も少し」


「うん」


「ハンナさん。縫い物と、保存食」


「うん」


「トビ。馬と家畜。前の村で世話してたって」


トビは、泉へ一緒に行った若い男だった。


「ゲルトさん。石積み。昔、村の井戸の石を組んだことがある」


「あのおじいちゃん?」


「うん。エルマさん。縫い物と、子供の面倒」


ミラは少し黙って聞いていた。


「……いつ聞いたの、そんなの」


「木を運びながら。休んでる時とか」


「運んでなかったじゃん、ほとんど」


「だから聞く時間があった」


ミラは呆れたように笑った。


それから、紙の上ではなく、窪地の方へ目を向けた。


「ねえ。ゲルトさん、朝から何も食べてないよ」


「え」


「若い人たちに先に回してた。あと、子供の寝る場所。先に決めた方がいい。今の天幕、風が入る側に寝かせてる」


ノアは紙を見た。


ゲルトの名前の横には、「石積み」としか書いていない。


「……それ、書いてなかった」


「書くものじゃないでしょ」


ミラはそう言って、鍋を抱えてゲルトの方へ歩いていった。


ノアはしばらく紙を眺めていた。


それから、端に小さく書き足した。


――子供の寝床、風の当たらない側。


◇ ◇ ◇


それから、三日が過ぎた。


木の骨組みが三つ立った。


枝葉と古布を重ねた屋根が、そのうち二つに乗った。


壁はまだ半分しかない。


焚き火の場所が決まった。


荷物を置く場所が決まった。


泉までの道には、九人が何度も往復した踏み跡ができた。


村と呼べるものではなかった。


家と呼ぶにも、少し足りなかった。


それでも。


岩と、低木と、風しかなかった土地に、煙が上がっていた。


人の声がしていた。


誰かが、そこで暮らしていた。


◇ ◇ ◇


四日目の昼。


「ノア」


ミラが、手を止めて丘の方を見た。


「誰か来る」


丘の上に、人影が見えた。


馬が三騎。


それと、徒歩の男が一人。


作業をしていたダグたちの手が止まる。


ダグが、そっと棒を手元へ引き寄せた。


子供たちが天幕の中へ押し込まれる。


徒歩の男には、見覚えがあった。


頬に古い傷。


「ロルフさんだ」


「泉の人?」


「うん」


だが、ロルフの隣で馬を進めている男は、見たことがなかった。


磨かれた胸当て。


腰の剣。


背筋の伸びた乗り方。


ロルフたちとは、明らかに違う。


男たちは、窪地の手前で止まった。


馬上の男が、ノアを見下ろした。


「お前が、この土地の領主を名乗っている男か」


「一応」


ミラが小声で言った。


「……そこ、毎回『一応』なんだ」


「毎回そうだから」


男は、そのやり取りには反応しなかった。


「獅子の軍で、この一帯を見回っている者だ」


名前は名乗らなかった。


◇ ◇ ◇


四日前、ノアが水利の取り決めを結んだ、ベルントが村長を務める村――ローデン村。


獅子に降ったその村は、取り決めの中身を、獅子の陣へ届け出ていた。


ロルフが、ばつの悪そうな顔で言った。


「長が、黙っているとあとで面倒になると言ってな。獅子に降った村が、よそと勝手に何か決めたとなれば、な」


「なるほど」


ノアは頷いた。


筋は通っていた。


「それで、確かめに来た」


馬上の男が言う。


「取り決めの紙を見せろ」


ノアは袋から紙を取り出した。


男は馬から降り、それを受け取った。


そして――読んだ。


目が、文字を順に追っていく。


一行目から、最後の署名まで。


誰かに読ませることもなく。


ノアが説明するより先に、読み終えていた。


男は紙から顔を上げた。


「中身に、おかしなところはない」


「ありがとうございます」


「礼を言われる筋合いはない」


男は紙を返しながら、ノアを見据えた。


「聞きたいのは中身ではない。なぜ、獅子に降った村と、勝手に取り決めを結んだ」


「水が必要だったので」


「村が獅子に降っていることは」


「行くまで、知りませんでした」


ロルフが横で、小さく肩をすくめた。


男は、しばらく黙っていた。


◇ ◇ ◇


「兵は」


「いません」


「いない?」


「ここにいるのが全部です。九人」


男は窪地を見回した。


骨組みだけの小屋。


半分の壁。


焚き火。


棒を握ったダグ。


天幕から覗く子供の顔。


「砦を作るつもりは」


ノアも、周りを見回した。


「まず、屋根を作ってるところです」


後ろで、ダグが微妙な顔をした。


「獅子の軍に、敵対するつもりはあるか」


「ないです」


「なら、我々に従うか」


ノアは、少し考えた。


「それも、まだ決めてません」


空気が変わった。


馬上の二人が、手綱を握り直す。


ダグの手に、力が入る。


ミラが、ノアの袖を掴んだ。


ノアは、同じ調子のまま続けた。


「僕は、ここに住みに来ただけなので」


挑発のつもりはなかった。


独立を宣言したつもりもなかった。


本当に、まだ何も決めていない。


それだけだった。


男は、ノアの顔をじっと見ていた。


嘘をついているかどうかを、確かめるように。


やがて、懐から折り畳んだ地図を取り出した。


広げて、指で辿る。


指が止まった場所は、ノアの持っている地図と、同じ場所だった。


「ここは、軍も手を出していない」


「そうなんですか」


「価値がないからな」


ミラが、ぼそりと言った。


「……また言われた」


男はミラを一瞥し、地図を畳んだ。


「軍の命令では、この一帯は当面放置となっている」


◇ ◇ ◇


「敵対しないというなら、今すぐこの土地をどうこうするつもりはない」


男は馬に戻りながら言った。


「ただし。ローデン村は、我々の下にある。今後もあの村と関わるなら、こちらもお前を見る」


「見るだけなら」


ミラが、ノアの脇腹を肘で突いた。


「……余計なこと言わない」


男は、ほんのわずかに眉を動かした。


それが呆れなのか、別の何かなのかは、分からなかった。


男たちが馬首を返す。


最後に、ロルフが振り返った。


「ああ、それとな」


「はい」


「馬は、下の流れで飲ませてる」


ミラが目を丸くした。


ロルフは、それだけ言って、背を向けた。


◇ ◇ ◇


丘の向こうの、小さな詰所。


報告を受けた上官は、机の上の紙に目を落とした。


「ローデン村が、水利の取り決めを結んだ、と」


「はい」


「相手は」


「例の空白地です」


上官が顔を上げた。


「……あそこに、人が入ったのか」


「九人ほどです」


「領主は」


巡察の男は、手元の紙に目をやった。


「ノア、と名乗っています」


上官は、しばらく黙っていた。


それから、報告書を引き寄せた。


――開拓領主 ノア


――人員 九


――兵力 なし


――獅子の軍への敵対意思 現時点では確認されず


――ローデン村との水利取り決めあり


上官は、最後の一行を指でなぞった。


「……捨て置かれていた土地だったはずだ」


巡察の男は、少しだけ間を置いて答えた。


「今は、人が住んでいます」


◇ ◇ ◇


数日前まで、そこには何もなかった。


人も。


家も。


名前も。


だが今、その土地には九人が暮らしている。


そして一枚の報告書には、


「ノア」


という名前が書かれていた。


その短い報告が、さらに北東へ送られることになるのは、もう少し後のことだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。