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第3話 二通の約束

泉を挟んで、睨み合いが続いていた。


こちらは、ノアとミラ、ダグと若い男の四人。


武器らしい武器は、ダグの持つ棒が一本だけ。


向こうは五人。


剣と槍と弓を持ち、革鎧を着ている。


数えるまでもなく、勝負にならない。


「領主だと?」


先頭の男が、ノアの広げた地図を見下ろした。


年は三十前後。


頬に古い傷がある。


「はい。一応」


「どこの領主だ。誰に任された」


「役所です。開拓の申請をして」


「役所」


男は鼻で笑った。


「王国はもうない。王都も落ちた。そんな紙で、昨日まで使っていた水を取られてたまるか」


後ろの男たちが、槍の石突きで地面を鳴らす。


ミラがノアの袖を強く握った。


ダグは、棒を持つ手に力を込めている。


ノアは、地図を丸めた。


それから、男たちの足元に並んだ桶を見た。


一つ、二つ、三つ……。


数えるのをやめた。


五人で使う量ではない。


「あの」


「何だ」


「その桶、何人分です?」


男が眉をひそめた。


「……何?」


「五人で飲む量じゃないですよね」


男は、しばらく答えなかった。


後ろの一人が、小声で何か言いかける。


先頭の男が片手で制した。


「……三十と少し。それと、馬が何頭か」


「三十人」


「村がある。北東に、丘を二つ越えた先だ」


「なるほど」


ノアは頷いた。


「つまり、この泉を取られるのが困るんですね」


「当たり前だ」


男が吐き捨てる。


「村の井戸は、夏になると細る。昔から、ここの水で足りない分を補ってきた。それを今さら、紙を持ったよそ者に取られてたまるか」


ノアは少し考えた。


「じゃあ」


「何だ」


「今まで通り、使えばいいんじゃないですか」


泉の周りが、静かになった。


男たちが顔を見合わせる。


ダグまで、ノアを見た。


ミラが小さく呟く。


「……また始まった」


先頭の男が、目を細めた。


「お前、さっき自分の土地だと言っただろう」


「はい。言いました」


「なら、なぜ使わせる」


「僕らは二人です。ダグさんたち全員を入れても九人。この泉、全部は使いません」


ノアは泉を見た。


岩の間から、途切れることなく水が湧いている。


「溢れた分は、そのまま流れていってますし」


「……それだけか」


「それだけです」


善意で言っているつもりは、ノアにはなかった。


追い出したところで、ノアの手に入るものは何もない。


水は余る。


代わりに、北東の村と、揉め事が一つ残る。


損しかない。


それだけの話だった。


◇ ◇ ◇


だが、男は剣の柄から手を離さなかった。


「信用できるか」


「何がです?」


「今はそう言う。お前たちが九人のうちはな」


男は、ノアの背後の窪地の方を顎で示した。


「だが、開拓民ってのは増えるもんだ。十人が五十人になり、百人になる。そうなったら、この泉じゃ足りなくなる」


「……」


「その時になって、『ここは俺の土地だ』と言って、俺たちを追い出すんだろう」


ノアは、黙った。


少しだけ、考える。


この男たちが怒っているのは、今日の水のことではない。


今日の水なら、今この場で汲めばいい。


五人もいれば、九人を追い払うのは簡単だ。


それでも剣を抜かないのは――。


欲しいのは、今日の水ではないからだ。


「……ああ」


ノアは小さく声を漏らした。


「明日の水が欲しいんですね」


男が、わずかに目を見開いた。


「来月も、来年も。人が増えても、使える保証が」


「……だったら何だ」


「じゃあ、その約束をしましょう」


「約束?」


「今まで通り使っていい。人が増えても、勝手に取り上げない。そういう約束です」


男はしばらくノアを睨んでいた。


やがて、剣の柄から手を離した。


「……俺たちだけでは決められん」


「誰が決めるんです?」


「村の長だ」


男は、仲間に桶を担がせた。


「来い。話は長の前でしろ」


◇ ◇ ◇


ダグが、ノアの腕を掴んだ。


「おい。本気で行く気か」


「話をしに行くだけです」


「向こうの村だぞ。何をされるか」


「戻っても、水の問題は残りますから」


「……お前、本当に変わってるな」


ダグは溜め息をつき、桶を若い男に持たせた。


「俺たちは戻る。汲んだ水を待ってる者がいる」


「お願いします」


ノアが歩き出すと、当然のようにミラも並んだ。


「ミラは戻ってても」


「行くに決まってるでしょ」


「危ないかもしれない」


「だからでしょ」


ミラは前を向いたまま言った。


「ノア一人で行かせたら、何を約束してくるか分からないもん」


「……信用ないなあ」


「信用はしてないよ」


ミラは、ちらりとノアを見た。


「ノアが言ったんでしょ。信用しなくても大丈夫なようにしとけって」


ノアは少しだけ笑った。


「言ったっけ」


「言ってた。あの商人に」


◇ ◇ ◇


村は、丘を二つ越えた先にあった。


石と木で組まれた家が、十数軒。


柵に囲まれた畑。


家畜小屋。


子供の声。


どこにでもある、小さな村だった。


五人の男たちが桶を降ろすと、家々から女や子供が出てきて、水を分け始めた。


柵の向こうでは、馬が首を伸ばして水桶を待っている。


「……盗賊じゃなかったんだ」


ミラが小声で言った。


「みたいだね」


「てっきり、そういう人たちかと」


「水を汲みに来てた人たちだよ」


村の中央まで来たところで、ノアは足を止めた。


一番大きな家の軒先に、旗が二本、掲げられていた。


一本は、色褪せた古い旗。


おそらく、この村が昔から掲げてきたものだ。


その隣に、真新しい旗が一本。


布は新しく、刺繍も鮮やかだった。


金色の糸で縫い取られた――獅子。


ミラの足が止まった。


「ノア」


「うん」


「あれって……」


「うん」


先頭の男が振り返った。


「何だ。今さら怖くなったか」


「いえ」


ノアは旗を見上げたまま答えた。


「新しい旗だなと思って」


男は少し黙った。


「……ひと月前にもらった」


◇ ◇ ◇


村の長は、白髪混じりの大柄な男だった。


名をベルントといった。


先頭の男――ロルフというらしい――から事情を聞くと、ベルントは長いあいだ、ノアの顔を眺めていた。


「開拓領主、か」


「はい」


「あの泉の土地に」


「はい」


「……よりによって」


どこかで聞いた言い方だ、とノアは思った。


ベルントは、軒先の旗へ目をやった。


「見ての通りだ。この村は、獅子に降った」


「戦わずに、ですか」


「戦って、どうなる」


ベルントは低く笑った。


「西の城の話は聞いたか。鉄の門を、剣の一振りで吹き飛ばしたそうだ。騎士団が一瞬で壁ごと消えたとも聞いた」


ミラが、小さく息を呑んだ。


「そんなものに、三十人の村で何ができる。使者が来た日に、門を開けた」


「……それで、何か変わりましたか」


「何も」


ベルントは肩をすくめた。


「土地をもらったわけでもない。取り上げられたわけでもない。わしらは昔からここにいて、昔からここで畑を耕している。変わったのは、旗が一本増えたことと、若い者が時々、獅子の陣へ見張りや荷運びに出されることくらいだ」


ロルフたちが武装に慣れているのは、そういうことらしかった。


正規の兵ではない。


だが、兵の端くれとして使われている。


「それで、泉の話だったな」


ベルントが、ノアを見た。


「若いのに聞いた。今まで通り使っていい、と言ったそうだな」


「はい」


「本当か」


「本当です。ただ、口約束だと、そちらも困るんですよね」


ロルフが腕を組んで頷く。


ノアは、袋から紙と筆記具を取り出した。


◇ ◇ ◇


条件は、ノアが一つずつ口にし、ベルントとロルフが一つずつ頷いた。


一つ。


村がこれまで使ってきた分の水を、ノアの側は妨げない。


一つ。


ノアの領地の者も、暮らしに必要な水を泉から汲める。


一つ。


どちらも、泉を塞がない。汚さない。


「それ、一個いい?」


ミラが手を挙げた。


全員がミラを見る。


「馬に、泉で直接水を飲ませてるでしょ。さっき岩のところに、蹄の跡があった」


ロルフが、ばつの悪そうな顔をした。


「……急ぎの時だけだ」


「泉のところで飲ませると、水が濁るし、岸が崩れるよ。下の流れで飲ませて。あっちなら浅いし、馬も飲みやすいから」


ベルントが、ロルフを見た。


ロルフは、しぶしぶ頷いた。


ノアはそれを書き加えた。


一つ。


家畜には、泉ではなく下流で水を飲ませる。


一つ。


泉の周りの掃除と手入れは、両方で受け持つ。


一つ。


どちらかの使う量が大きく増える時は、その時に改めて話し合う。


一つ。


泉の周りでは、互いの者に手を出さない。


ノアは同じ文面を、二枚の紙に書いた。


書き終えると、ベルントが村の奥へ声をかけた。


腰の曲がった老人が、杖をついて出てきた。


「昔、王国の徴税役人とやり取りしていた男だ。村で字が読めるのは、こいつだけでな」


老人は紙を目に近づけ、ゆっくりと読み上げた。


一枚目。


それから、二枚目。


「……同じことが書いてある」


老人がそう言うと、ベルントは頷いた。


そして、紙を見下ろしたまま、ぽつりと言った。


「王国も滅んだ。こんな紙切れに、何の意味がある」


ノアは少し考えてから答えた。


「紙が約束を守るわけじゃありません」


「なら」


「後で『そんなことは言ってない』って、言えなくするだけです。僕も、あなたたちも」


ベルントは、しばらくノアを見ていた。


やがて、小さく鼻を鳴らした。


「……妙な男だ」


「よく言われます」


後ろで、ミラが無言で自分を指差していた。


ベルントは指に墨をつけ、二枚の紙に印を押した。


ノアも、自分の名を書いた。


一通は、村に。


もう一通は、ノアの袋に。


◇ ◇ ◇


帰り道。


日は、もう傾き始めていた。


ノアは、袋の中の紙を一度だけ確かめた。


泉の水が使える。


それが欲しかった。


それだけのつもりだった。


「ねえ」


隣を歩くミラが言った。


「ん?」


「さっきの人たち、あの獅子のところなんだよね」


「そうらしいね」


「……大丈夫なの?」


「水は使っていいって」


「そういう話してない!」


ミラは頭を抱えた。


ノアは少し考えた。


村の男たちは、泉の周りでは手を出さない。


こちらも、手を出さない。


その村の軒先には、獅子の旗が掲げられている。


「……泉のことしか約束してないけど」


「うん」


「泉の周りでは、あの人たちとは揉めないってことになった」


「それ、すごいことなの?」


「分からない」


ノアは正直に答えた。


「でも、ないよりはいいと思う」


ミラはしばらく黙っていた。


それから、小さく息を吐いた。


「……まあ、水は手に入ったしね」


「うん」


「明日、ダグさんたちに言わなきゃ」


「そうだね」


「あと、鍋返してもらわないと」


「そっちなんだ」


「そっちも大事なの」


二人の影が、荒れた平地に長く伸びていた。


ノアの袋の中には、一通の約束が入っている。


生まれて初めて、自分の名前で書いた約束だった。


それが、この先どこまで届くことになるのか。


本人は、まだ知らない。


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