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第2話 何もない領地

エルダを発って、四日目の昼。


最後の丘を越えたところで、ノアは足を止めた。


「着いた」


「……どこ?」


ミラが隣で首を伸ばす。


目の前には、なだらかな平地が広がっていた。


ところどころに岩が転がり、腰の高さほどの低木がまばらに生えている。


遠くには林。


その向こうに、また丘。


以上だった。


「ここ」


「そうじゃなくて」


「地図ではここだよ」


ノアは丸めていた地図を広げ、丘の形と見比べる。


「うん。合ってる」


「領地は?」


ノアは周囲を見回した。


「これじゃない?」


ミラは黙った。


もう一度、平地を見る。


岩。


低木。


風。


「家は?」


「ないね」


「畑は?」


「ない」


「井戸は?」


「ない」


「柵とか、倉庫とか」


「見える範囲には、ないね」


「……道は?」


ノアは足元を見た。


四日間歩いてきた踏み跡が、自分たちの後ろで途切れている。


「今、僕らが作ってる」


ミラはしばらく空を見上げていた。


それから、ゆっくりとノアの方を向いた。


「ねえ」


「うん」


「申請書、三枚だったよね」


「三枚だった」


「……だから三枚だったんじゃない?」


ノアは少し考えた。


普通の土地なら、前の持ち主がいる。


家があれば家の書類がいる。


畑があれば畑の、水路があれば水路の、税の記録があれば税の書類がいる。


ここには、そのどれもない。


引き継ぐものがない。だから、三枚で済んだ。


「なるほど」


「なるほどじゃないでしょ!」


「いや、筋は通ってるなと思って」


「感心するところじゃない!」


ミラは頭を抱えた。


ノアはそれを横目に、地図をもう一度眺める。


「でも、誰も住んでないなら、誰にも文句は言われないよ」


「文句を言う人もいないけど、屋根もないの」


「それは確かに」


◇ ◇ ◇


とりあえず、荷物を下ろした。


背負ってきた袋が二つ。


ミラの鞄が一つ。


それが二人の全財産だった。


「で」


ミラが腰に手を当てる。


「どうするの、領主様」


「その呼び方はやめてほしい」


「じゃあ、どうするの、ノア」


ノアは指を折った。


「まず水」


「うん」


「次に今夜寝る場所」


「うん」


「それから火」


「うん」


「最後に食べ物」


「……領主の最初の仕事、それ?」


「今日を越えないと、明日の仕事もできないから」


ミラは少し意外そうな顔をして、それから頷いた。


「まあ、正しいけど」


「食べ物は、持ってきた分で何日もつ?」


ノアが聞く。


「切り詰めて六日。普通に食べたら四日」


ミラは即答した。


「数えてたんだ」


「数えるでしょ、普通」


ミラは自分の鞄を開けた。


中から出てきたのは、小ぶりの鍋と、毛布が二枚。


「……それ、持ってきたの?」


「持ってきたの」


「いつ買ったの」


「エルダを出る前の日。ノアが地図ばっかり見てた間に」


ノアは自分の袋を開けた。


中身は、着替えと、書類と、筆記具と、地図。


以上だった。


ミラが覗き込む。


「紙ばっかり」


「必要だから」


「ノアにはね」


「ミラにも、そのうち必要になるかもよ」


「その前に毛布が必要なの」


「毛布は?」


ミラが聞く。


「忘れた」


「鍋は?」


「……いるの?」


「いるの!」


ミラは毛布を一枚、ノアの胸に押しつけた。


「貸し。一枚ね」


「助かる」


「ほんとに分かってる?」


「分かってる。ミラがいなかったら、今夜は地面で寝てた」


ミラは何か言いかけて、やめた。


「……水、探すよ」


◇ ◇ ◇


地図には、北側に小さな水の印があった。


川の支流か、泉らしい。


二人はそちらへ歩き出した。


しばらく進んだところで、ミラが立ち止まった。


「ノア」


「ん?」


「あれ、煙じゃない?」


ミラが指差す先。


林の手前の窪地から、細い煙が一本、空へ伸びていた。


焚き火の煙だった。


ノアも目を凝らす。


「……本当だ」


「誰もいないんじゃなかったの?」


「書類には、誰もいないって書いてあった」


「書類に書いてないことの方が多いんじゃない?」


ノアは少しだけ黙った。


「……それは、そうかもしれない」


◇ ◇ ◇


窪地には、粗末な天幕が三つ並んでいた。


枝と古布を組み合わせただけのものだ。


焚き火のそばに、大人が五人。


その後ろに、子供が二人。


ノアたちが近づくと、全員が一斉にこちらを見た。


大人たちが立ち上がる。


一人は棒を握っていた。


子供が大人の背中に隠れる。


「止まれ」


前に出てきたのは、日に焼けた中年の男だった。


痩せているが、肩幅は広い。


畑仕事をしてきた者の手をしていた。


「何の用だ」


「通りがかりというか……」


ノアは少し考えてから、言い直した。


「この辺りの土地を管理することになった者です」


男の顔が強張った。


「……役人か」


「役人ではないです」


「じゃあ何だ」


「開拓の申請をして、ここの管理を任されました。ノアです」


「領主ってことか」


「書類の上では、そうなります」


ノアは書類を広げて見せた。


男は紙へ目をやったが、そこに並ぶ文字を追う様子はなかった。


焚き火のそばで、女が一人、子供を抱き寄せた。


男が低い声で言う。


「俺たちを追い出しに来たのか」


「いえ」


「嘘をつくな。領主が来て、居座ってる流れ者を放っておくわけがない」


「どうして、ここにいたんですか」


男は一瞬、言葉に詰まった。


「……村を焼かれた。西の方だ。逃げて、逃げて、ここまで来た」


「ここを選んだ理由は?」


「誰の土地でもないと思ったからだ」


男は吐き捨てるように言った。


「価値のない土地なら、誰も追い出しに来ない。そう思ったんだよ」


ミラが、小さく息を呑むのが聞こえた。


ノアは、男の後ろの天幕を見た。


子供を見た。


焚き火の上の、中身の少ない鍋を見た。


「なるほど」


「何がなるほどだ」


「いえ。僕も似たような理由で、ここを選んだので」


「……何?」


「僕は、書類が一番少なかったからですけど」


男はぽかんと口を開けた。


「書類……?」


「気にしないでください」


ミラが後ろで額を押さえている。


◇ ◇ ◇


男は棒を下ろさなかった。


「それで、領主様は俺たちをどうする」


「どうもしないです」


「税を取るのか」


「何を?」


男が黙った。


ノアは、もう一度、窪地を見回す。


畑はない。


家もない。


蓄えもない。


「取れるものが、何もないので」


「……馬鹿にしてるのか」


「してないです。事実を言ってるだけです」


ノアは少しだけ首を傾げた。


「それに、僕らも同じですよ。家もない、畑もない、井戸もない。あるのは書類だけです」


「……」


「だから、住んでてもらっていいです」


男の目が細くなる。


「ただで、か?」


「ただではないです」


男の手に、また力がこもった。


ノアは気にせず続ける。


「ここに住んでいい。好きな場所を畑にしていい。その代わり、水場を整えたり、屋根とか、柵とか。人が住める場所を、一緒に作ってほしいんです」


「……それだけか」


「今は、それだけです」


「後から取り立てる気だろう」


「後から取るものができたら、その時にまた話しましょう。勝手には決めません」


男は黙り込んだ。


背後の仲間たちが、互いに顔を見合わせている。


そこへ、ミラが一歩前に出た。


「あと、今夜の火、分けてもらえると助かるんだけど」


全員の視線がミラに向く。


ミラは鞄から鍋を取り出した。


「代わりにこれ、貸すよ。そっちの鍋、小さいでしょ。子供の分までちゃんと煮えない」


男は、自分たちの焚き火の上の鍋を見た。


確かに、小さかった。


「……いいのか」


「火がないと、こっちも困るから」


ミラは肩をすくめた。


「お互い様でしょ」


しばらくの沈黙のあと。


男はようやく、棒を下ろした。


「……ダグだ」


「ノアです」


「さっき聞いた」


「ミラ」


ミラが名乗ると、子供の一人がおずおずと顔を出した。


ダグは大きく息を吐いた。


「話は分かった。信じたわけじゃないがな」


「それで十分です」


「……十分なのか?」


「一緒にここで暮らしてるうちに、分かると思うので」


ダグは、何とも言えない顔でノアを見た。


◇ ◇ ◇


「水は、どこで汲んでるんですか」


ノアが尋ねると、ダグの表情がわずかに曇った。


「北に泉がある。小さな川になって流れてる」


「地図の印の場所ですね」


「ああ。ただ……」


ダグは言葉を濁した。


「ただ?」


「……行けば分かる。案内する」


ダグと、もう一人の若い男が桶を持った。


ノアとミラも、それに続く。


林を抜けると、岩の間から水が湧いていた。


細い流れが、陽の光を受けて光っている。


澄んだ水だった。


「きれい」


ミラが呟く。


ノアは地図を広げ、印と見比べた。


「ここですね」


ダグと若い男は、なぜか辺りを気にしながら、急いで桶を沈めている。


ノアも手ですくおうと、水辺に屈んだ。


その時だった。


「何してる」


低い声がした。


泉の向こう、岩場の上。


男が五人、立っていた。


全員が武装している。


剣が二本。槍が二本。弓が一張。


身につけているのは、使い込まれた革鎧だった。


兵士ではない。


だが、素人でもない。


ダグが舌打ちした。


「……遅かったか」


ノアは水辺に屈んだまま、相手を見上げた。


「水を汲んでます」


先頭の男が、鼻で笑った。


「見れば分かる」


ミラが小さく呟く。


「……言われてる」


「言われたね」


男は岩場から一段降りてきた。


「ここから先の水は、俺たちのものだ。勝手に汲むな」


ダグが低い声で言う。


「ここは誰の土地でもないはずだ」


「だから俺たちが使ってる。昔からな」


ノアは、地図に目を落とした。


泉の印。


その周りに引かれた、細い線。


自分が署名した、管理地の境界線。


泉は、その内側にあった。


ノアは立ち上がった。


「あの」


「何だ」


「ここ、僕の管理地なんですけど」


男たちが、一瞬、固まった。


「……は?」


「一応、役所の書類では、この泉も含めて僕の管理地になってます」


ノアは地図を広げて見せた。


男たちは顔を見合わせる。


一人が笑い出した。


「おい、聞いたか。こいつ、領主らしいぞ」


「兵は?」


「連れてないように見えるな」


「女と、流れ者が二人か」


笑い声が、岩場に響く。


ミラがノアの袖を引いた。


「ノア」


「うん」


「あれ、まずくない?」


「たぶん、まずい」


先頭の男が、ゆっくりと剣の柄に手をかけた。


「新しい領主だか何だか知らんが」


男の声から、笑いが消えた。


「この水場は、昔から俺たちが使ってる。紙切れ一枚で、はいそうですかと渡せるか」


ノアは、男の顔を見た。


それから、男たちの足元を見た。


岩場の上には、桶が並んでいた。


十や二十ではない。


五人で使うには、どう見ても多すぎる数だった。


ノアは地図を閉じた。


「なるほど」


ミラが、ノアの横顔を見る。


「……何が?」


「向こうにも、取られたら困る理由があるみたいだ」


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