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第1話 座標の因果

宿場町エルダの朝は、いつも通りだった。


少なくとも、ノアにはそう見えた。


アルネア大陸を長く照らしてきた大灯が、消えかけている。


どれほど遠い土地からでも、晴れた夜なら地平の向こうに光が見えた。


空や山と同じだった。


そこにあるのが当たり前で、わざわざ見上げる者もいない。


その光が、ここしばらく目に見えて弱くなっている。


だが、大灯が消えかけているからといって、腹が減らなくなるわけではない。


商人は今日も荷を積み、御者は馬に水をやる。


宿の厨房からは、焼きたてのパンの匂いが漂っていた。


ノアもまた、いつも通り帳場で台帳をめくっている。


今日の空室は三つ。


今夜の予約は二十二人。


部屋の数と客の数を、頭の中で突き合わせる。


食堂の隅から、話し声が聞こえてきた。


「大灯、本当に消えちまうらしいな」


常連の行商人が、粥をすすりながら言った。


向かいの男が首を振る。


「まだ消えちゃいない。消えかかってる、って話だ」


「同じようなもんだろ。あれが消えたら、次はどうなるんだ?」


「次に灯るのなんて、俺たちが生きてるうちに決まるのかね」


別の卓から、別の声が飛んだ。


「それより北東だ。あの獅子が、また砦を一つ落としたらしいぞ」


「あいつか」


「海の向こうから現れてから、随分と派手にやってるじゃないか」


「まったくだ。あの男が動くたびに死人が出る。まるで災いだな」


酒も入っていない朝から、嫌な話ばかりだった。


ノアは、聞くともなしに聞いていた。


大灯だとか。


北東の獅子だとか。


どちらも、帳場からはずいぶん遠い話だ。


それより、台帳の数字が一人分合わない。


「二十三」


横から声がした。


顔を上げると、盆を抱えた給仕のミラが立っていた。


「何が?」


「今夜の予約。二十三人」


「二十二だけど」


「さっき一人増えた」


ノアは台帳に目を戻した。


「先に言ってよ」


「大灯よりは大事でしょ?」


ノアは少し考えた。


「まあ、それはそうだね」


ミラは満足そうに頷いて、厨房へ戻っていった。


ノアは二十二を線で消し、横に二十三と書いた。


◇ ◇ ◇


昼を過ぎた頃、街道の向こうから黒い雲が迫ってきた。


「雨が来るぞ!」


誰かの声を合図に、宿場町が慌ただしく動き出す。


商人は軒先の品を店の奥へ運び込み、御者は馬を繋ぎ直す。


旅人たちは空を見上げて、足を速めた。


その中で、一台の荷車だけが、宿の前から動けずにいた。


車輪が大きく傾いている。


軸が折れたらしい。


荷台には、木箱が山のように積まれていた。


「だから急げと言ってるだろう!」


太った商人が、三人の従者を怒鳴りつけている。


「無茶を言わないでくださいよ旦那! 三人でこれ全部は――」


「雨が来るんだぞ! 濡らしたらどうする!」


従者たちは必死に箱を下ろしている。


だが、空の暗さを見る限り、間に合いそうになかった。


「また揉めてるよ」


窓の外を見ながら、ミラが言った。


ノアも帳場から顔を上げる。


「見れば分かる」


「店主、呼んでこようか?」


「いや」


「……また?」


ミラが呆れた顔をした。


ノアがこの手の揉め事に首を突っ込むのは、今日が初めてではない。


もっとも、本人に首を突っ込んでいるつもりはなかった。


宿の前で揉められると、仕事にならない。


それだけの話だった。


そのとき、


「触るな!」


別の怒鳴り声が重なった。


荷車の反対側。


粗末な服の男が、従者の一人に突き飛ばされていた。


その後ろに、十人ほどの男女が固まっている。


流民だった。


大灯が弱まり始めてから、王国の地方では争いや盗賊が増えている。


王都の力が届かなくなった土地から、家や畑を捨てて街道へ出てくる者も、今では珍しくなかった。


「盗むつもりじゃない!」


流民の男が叫んだ。


「食い物を少し分けてくれって言ってるだけだ!」


「分ける物なんぞあるか!」


商人が怒鳴り返す。


「こっちだって商売で運んでるんだぞ!」


「子供もいるんだ! 少しくらい――」


「知るか! 働きもせずに食わせろってのか!」


流民の男が拳を握った。


従者たちも箱を置き、棒に手を伸ばす。


「ほら」


ミラがノアを見た。


「やっぱり行くんでしょ」


「玄関を塞がれたら客が入れない」


「はいはい」


ノアは帳場を出た。


睨み合う二つの集団の間へ、歩いていく。


「すみません」


誰も聞いていない。


「すみません」


少しだけ声を大きくすると、商人が苛立たしげに振り返った。


「何だ、お前は」


「この宿の者です」


ノアは、商人と流民を順に見た。


「喧嘩なら、もう少し端でお願いします。入口なので」


「喧嘩じゃない! こいつらが荷を盗もうとしたんだ!」


「盗んでない!」


「はいはい」


ノアは流民の男に向き直った。


「食べ物が欲しいんですね」


男は警戒したまま、頷いた。


次に、商人を見る。


「あなたは、雨が来る前に荷を倉庫へ移したい」


「見れば分かるだろう!」


「ですね」


ノアは、荷車から宿の倉庫までを目で測った。


二十歩ほど。


流民は十人ほど。


従者は三人。


「じゃあ、この人たちに運んでもらえばいいんじゃないですか?」


一瞬。


商人も流民も、黙った。


「……は?」


先に声を出したのは、商人だった。


「荷を運んでもらうんです。その代わり、終わったら食べ物を渡す」


「馬鹿を言うな!」


商人の顔が赤くなる。


「こいつらに荷を触らせろっていうのか! そのまま持ち逃げされたらどうする!」


「持ち逃げできないようにすればいいでしょう」


ノアは、荷車と倉庫の間を指した。


「ここに一列で並んでもらいます。箱を隣へ渡していくだけです」


それから、三人の従者を見る。


「一人は荷車で、渡す箱を確認。一人は倉庫の入口で受け取る。もう一人は中で数を確認してください」


商人が眉を寄せた。


「それじゃあ、列は誰が見るんだ?」


ノアは商人を見た。


「あなたが見ればいいでしょう」


「俺が?」


「あなたの商品ですよね?」


商人は口を閉じた。


「箱は開けさせない。列から外れた人には報酬を出さない。倉庫まで二十歩しかありません。これなら、盗むのは難しいでしょう」


商人は荷を見た。


空を見た。


それから、流民たちを見た。


ぽつり。


雨粒が一つ、荷台に落ちた。


「旦那!」


従者の一人が空を仰ぐ。


商人は舌打ちした。


「……一人一食だ」


流民の男が眉を寄せる。


「少ない」


「なら、このまま雨に濡らしますか?」


ノアが聞いた。


「荷が駄目になれば、食べ物も出ませんよ」


男は黙り込んだ。


しばらくして、


「……二食」


「一食半」


「そんな半端な――」


「夕食と、明日の朝のパン」


横から、ミラが口を挟んだ。


全員の視線が、彼女に集まる。


「それなら一食半でしょ」


商人が頭を抱えた。


「……お前まで何なんだ」


「給仕です」


「分かった! それでいい! さっさとやれ!」


◇ ◇ ◇


決まってしまえば、早かった。


流民たちが一列に並ぶ。


荷車から下ろされた木箱が、隣の手に渡る。


さらに隣へ。


その隣へ。


箱は途切れることなく人の手を渡り、倉庫の中へ吸い込まれていく。


ついさっきまで睨み合っていた者たちが、同じ荷を運んでいた。


「次!」


「重いぞ!」


「そっち詰めろ!」


「落とすなよ!」


声が飛び交う。


商人も列の脇を歩きながら、箱の一つ一つに目を光らせていた。


雨粒が、少しずつ大きくなる。


最後の箱が倉庫に入った。


その直後。


音を立てて、雨が降り出した。


間に合った。


商人は倉庫に入り、積荷を確かめる。


濡れた箱は、一つもなかった。


商人が代金を払い、宿の厨房からパンと干し肉が運ばれた。


さっき商人に詰め寄っていた男が、受け取った袋を見つめる。


「……本当に、いいのか」


商人が鼻を鳴らした。


「働いた分だ。さっさと持っていけ」


男はしばらく黙っていたが、やがて小さく頭を下げた。


商人はそれを見送ってから、ノアを見た。


「お前」


「はい」


「よく、あんな連中を信用できたな」


ノアは首を傾げた。


「信用?」


「荷を触らせただろう」


「ああ」


ノアは倉庫の方へ目をやった。


「信用はしてませんよ」


「……何?」


「盗むより、働いた方が得になるようにしただけです」


商人はしばらく黙っていた。


やがて、小さく息を吐く。


「変な奴だな、お前」


「よく言われます」


ノアが振り返ると、ミラが無言で自分を指差していた。


◇ ◇ ◇


それから数日後。


アルネア大陸の大灯は、完全に消えた。


何百年ものあいだ、そこにあって当然だった光だった。


それでも、翌朝に世界が別物になったわけではない。


エルダの宿は扉を開けた。


市場も開いた。


人々は働いた。


王国そのものは、大灯が消えるより前から弱り始めていた。


王都の命令は地方まで届きにくくなり、街道の治安も以前ほどではなかった。


それでも。


大灯が灯っているうちは、王国はまだ王国だった。


いずれ落ち着く。


まだ立て直せる。


そう思うための最後の理由が、あの光だった。


その光が消えた。


崩れ始めると、早かった。


まず、街道を巡回していた兵士が来なくなった。


次に、王国の銀貨を受け取るのを渋る商人が現れた。


そして、宿の客が目に見えて減っていった。


大灯が消えて十日ほど経った朝。


王都から逃げてきた役人が、息を切らせてエルダに飛び込んできた。


王城が落ちた。


王家の行方は分からない。


中央から命令を出す者は、もういない。


その日のうちに、役所から王国の旗が降ろされた。


村は残っている。


町もある。


兵士も役人も、生きている。


けれど、それらを一つの国として繋いでいたものは、もうなかった。


王国は、事実上崩壊した。


◇ ◇ ◇


「悪いな、ノア」


客のいなくなった食堂で、宿の主人は疲れた顔をしていた。


椅子は、全部机の上に逆さに載せてある。


「もう、お前を置いておけない」


ノアは少し黙った。


「そうですか」


「すまん」


「店主が謝ることじゃないでしょう」


宿は閉めることになった。


街道を守る兵はいない。


客も来ない。


食料を仕入れられる当てすらない。


ノアは仕事を失った。


そして、この宿に住み込んでいた。


つまり。


家も失った。


宿を出ると、ミラが小さな鞄を一つ提げて立っていた。


「そっちも?」


ノアが聞く。


「そっちも」


ミラは肩をすくめた。


「ノアは? 実家とか」


「ここが家だった」


「ああ……そうだったね」


二人で、昨日まで働いていた宿を見上げた。


大灯が消えたとか。


王国が崩れたとか。


そんな大きな話より。


今夜、どこで寝るのか。


二人にとっては、そっちの方がよほど切実だった。


◇ ◇ ◇


張り紙を見つけたのは、その日の午後だった。


旧役所の壁。


紙の端が雨に濡れて、少しふやけている。


ノアが足を止めた。


「開拓民募集……」


「何て書いてあるの?」


ミラが横から覗き込む。


「土地を管理する人を募集してるみたい」


「……まだ役所、動いてるんだ」


「一応」


王国は崩壊した。


だが、役人まで一晩でいなくなるわけではない。


開拓民募集そのものは、目新しい制度ではなかった。


王国が衰え始めた頃から、増え続ける放棄地を誰かに管理させるために続けられてきた制度だ。


中央がなくなった今も、残った地方行政が、その仕組みだけは引き継いでいた。


戦乱や治安の悪化で、住民が逃げた土地は増えている。


放っておけば、盗賊や他の勢力の拠点になる。


ならば、誰でもいい。


そこに住み、耕し、土地を維持する者に管理を任せる。


一定の期間それを続ければ、正式な領主として認める。


身分は問わない。


ノアは張り紙を見つめていた。


「これ」


「何?」


「家、手に入るんじゃない?」


ミラは何度か瞬きをした。


「あなた、領主になるの?」


「家が欲しいだけだけど」


「そこから領主になる発想ある?」


「書いてある」


「そういう意味じゃない」


◇ ◇ ◇


役所には、まだ数人の役人が残っていた。


ノアは、開拓地の候補一覧を渡された。


土地の広さ。


耕せる土地。


水源。


森林。


街道までの距離。


周りの人口。


危険情報。


それぞれの土地に、大量の注意書きと申請書類がついている。


ノアは一つを手に取った。


「多いな……」


「大事なことなんじゃない?」


隣から、ミラが覗き込む。


「こっちは十二枚」


「何が?」


「必要書類」


次をめくる。


「これは九枚」


もう一つ。


「十一枚」


ミラが、嫌な予感のする顔をした。


「……選び方、おかしくない?」


「どうせ、どの土地も見たことないし」


「だからって枚数で選ぶ?」


「知らない土地の良し悪しなんて、読んでもよく分からないから」


「危険なこととか、書いてないの?」


ノアが紙をめくる。


「書いてあるね」


「じゃあ読んでよ」


「その前に枚数を――」


「そっちを先に読んで!」


そのとき。


ノアの手が止まった。


「三枚」


「何が?」


「申請書」


一つだけ。


必要な書類が、三枚しかない土地があった。


ノアはその紙を持ち上げた。


「これにします」


受付の役人が顔を上げた。


「はい?」


「ここです」


役人は資料を見た。


ノアを見た。


もう一度、資料を見た。


「……本当に、こちらでよろしいのですか?」


「空いているんでしょう?」


「え、ええ」


妙に歯切れの悪い返事だった。


「それはもう……非常によく空いております」


「じゃあ、ここで」


「ちょっと待って」


ミラが割り込んだ。


「せめて場所くらい確認しようよ」


ノアは地図を見た。


「ここ」


ミラの顔が、一瞬だけ固まった。


「場所を指せって意味じゃない!」


役人は、何か言いたそうな顔をしていた。


だが、申し込みを断る理由もない。


結局、黙って三枚の書類を差し出した。


ノアはそれを受け取った。


確かに、三枚だった。


少し嬉しかった。


三枚は、その場ですぐに書き終わった。


役人は内容を確かめ、受理の印を押した控えを一枚、ノアに返した。


◇ ◇ ◇


役所を出てしばらく歩いたところで、ミラが口を開いた。


「ねえ」


「ん?」


「あそこ、どんな場所か知ってる?」


「知らない」


即答だった。


ミラが立ち止まる。


「……知らないで選んだの?」


「書類三枚だったし」


「そうじゃなくて!」


ノアは、丸めた地図を眺めた。


「でも、空いてるんだろ?」


ミラは頭を抱えた。


「空いてるんじゃなくて、誰も行きたくないの!」


◇ ◇ ◇


二人が役所を出たあと。


受付の役人は、閉じた扉をしばらく見ていた。


隣の机の役人が言う。


「……止めなくてよかったのか?」


「本人が選んだんだ」


「まあ、そうだが」


二人の目が、壁に掛けられたアルネア大陸の地図に向かう。


ノアが選んだ土地。


大陸の中央から、やや北東。


いくつもの勢力の境界が入り組み、その線は何度も引き直されている。


そして、そのさらに北東。


海の向こうから現れた“獅子”の勢力を示す印が、広がり続けていた。


役人が、小さく呟いた。


「よりによって、あそこを選ぶとはな」


地図に引かれた無数の境界線が、何を意味するのか。


新たな開拓領主本人だけが、まだ知らない。


役所の外。


ノアは、受理印の押された控えを丸めながら言った。


「とりあえず、これで寝る場所はできたな」


隣を歩くミラは、まだ頭を抱えている。


「……着くまで無事ならね」


ノアは足を止めた。


「遠いの?」


「そこから!?」


こうして。


剣も魔法も扱えない男の開拓は、


ひどく些細な理由から始まった。


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