第0話 災い来りて
「降伏し、門を開けよ」
使者の言葉は、それだけだった。
アルネア大陸北東部。
とある小領主は、城壁の上からそれを聞いていた。
海の向こうから現れた男が、この一月ほどで近隣を次々と飲み込んでいる。
その話は、ここにも届いていた。
兵たちは、その男を“獅子”と呼んでいた。
だが、ここは違う。
城壁は、先代の頃から一度も破られたことがない。
鉄を張った門は、幾度もの籠城戦を支えてきた、この城の象徴だった。
兵の数は足りている。
弓兵も、魔法兵も揃っている。
食料の蓄えもある。
そして敵軍は、この城を正面から落とせるほどの大軍ではない。
「海の向こうで何をしてきたか知らんが」
小領主は鼻を鳴らした。
「ここはアルネアだ。帰れ」
使者は何も言わず、頭を下げて去っていった。
◇ ◇ ◇
敵軍が布陣したのは、その日の夕刻だった。
だが、様子がおかしい。
攻城塔がない。
投石器もない。
野営と変わらない陣立てが、城の目と鼻の先に広がっているだけだった。
「……なんの真似だ」
小領主が眉をひそめた、そのとき。
敵陣の中央から、一人だけ前へ歩み出る男がいた。
黒い鎧に外套をまとい、剣を一本、提げている。
それだけだった。
「……あれが、獅子か」
周りの兵がざわめく。
小領主は笑った。
「たった一人で何をする気だ。射て」
数百の矢が、空を覆った。
男は、歩みを止めなかった。
剣も抜かない。
矢の先が、男の身体に届く寸前で砕ける。
弾かれる。
力を失って、足元に散る。
矢が、次々と地面へ落ちていく。
一本たりとも、男には届かなかった。
「魔法兵、続けて撃て!」
号令とともに、数十の詠唱が重なった。
爆炎が、男を呑み込んだ。
地面が抉れる。
火柱が天へ伸びる。
轟音が城そのものを揺らし、城壁の上の兵たちまでもが、爆風に煽られて後ずさった。
歓声が上がった。
「やった!」
誰かが叫んだ。
その声が消えないうちに、煙が晴れる。
男は、そこに立っていた。
傷一つない。
歩き出す。
小領主の顔から、笑みが消えた。
◇ ◇ ◇
男が、城門の前に立った。
守備兵たちが身構える。
攻城兵器もなしに、何をするつもりだ。
男が、剣を抜いた。
一撃。
それだけで、鉄張りの城門が内側へ吹き飛んだ。
門扉が回転しながら中庭を転がっていく。
両脇の石壁に、亀裂が走る。
衝撃で、立っていた兵が何人もまとめて地に倒れた。
砂埃と石片が、辺りを覆った。
「……何だ、あれは」
小領主の声が震えた。
敵軍が雪崩れ込んでくる。
それを迎え撃つより先に、城の内側で、新たな詠唱が始まっていた。
魔法兵の第二陣。
崩れた門のすぐ内側で陣形を組み直し、術式を紡いでいく。
完成まで、あと数秒。
だが、男はそれより早かった。
陣形が崩れる。
詠唱が途切れる。
術式は一つも完成しなかった。
次の瞬間には、魔法兵たちが次々と地へ倒れていた。
◇ ◇ ◇
「第二防衛線を固めろ! 精鋭部隊を出せ!」
小領主直属の騎士団が展開した。
団長は、歴戦の猛者だった。
数十人の精鋭が、男を取り囲む。
「この男なら――」
誰かが、そう呟いた。
男が動いた。
隊列が崩れる。
団長が、その一撃を受け止めた。
「止め――」
次の瞬間。
団長は、背後の石壁ごと吹き飛んでいた。
◇ ◇ ◇
城の内から戦況を見ていた小領主は、もう声も出なかった。
城門は破られた。
魔法部隊は壊滅した。
精鋭は、一瞬で消えた。
それでも、男にはかすり傷一つ見当たらない。
「……違う」
側近が振り向く。
「閣下?」
遠くで轟音が響いた。
また一つ、防壁が崩れる。
小領主の顔から、血の気が引いていった。
「あれは……人間を相手にしているんじゃない」
そして、掠れた声で呟いた。
「――災害だ」
◇ ◇ ◇
戦場の一角で、一人の兵が剣を取り落とした。
両手を上げ、その場に膝をつく。
勢いのまま追撃しようとした兵へ、男の声が飛んだ。
「捨てた者には触れるな」
それだけだった。
だが、その一言は、瞬く間に軍の隅々まで伝わっていった。
一人、また一人。
守備兵たちが、武器を手放していった。
◇ ◇ ◇
小領主は、あっけなく捕らえられた。
縄を打たれながら、震える声で問う。
「……なぜだ。なぜこんな真似をする」
男は答えなかった。
「化け物め」
そう吐き捨てられても、男の表情は変わらなかった。
◇ ◇ ◇
占領した城の軍議室に、アルネア大陸北東部の地図が広げられていた。
落とした砦や領地に、次々と印が置かれていく。
側近が地図を指しながら、この先の進軍先を確かめていく。
その途中。
一ヶ所だけ、勢力図からぽっかりと抜け落ちた、小さな土地があった。
「……こちらは?」
別の側近が答えた。
「無主地です。耕地も乏しく、街道からも外れております」
男は一度だけ、その場所へ目をやった。
「捨て置け」
◇ ◇ ◇
城の外では、捕虜となった兵たちが、小声で囁き合っていた。
「獅子なんかじゃない。あれは災厄だ……」
地図には、すでに北東の一帯から、いくつもの印が広がり始めていた。




