第28話 残った道
書き役が置いていった紙を、ノアは焚き火のそばで札に直していた。
――西街道 堤 採石場 橋の手前
――二十人
――七日
――日当八
――飯 朝夕
――寝床 普請場の小屋
四角に斜線。
道と槌。
人の形を描く段は、まだ空けてある。
お日さまを七つ。
丸を八つ。
椀。
小屋。
ここまでは、いつも通りだった。
残るのは、二十人をどこに何人ずつ割るかだった。
ノアは、札を置いてきた場所を指で数えた。
窪地。
峠の手前の集落。
東の沢の村。
南東の荷置き場。
西寄りの外れの村。
隣の谷の村。
川の下手の集落。
七つ。
二十人なら、割り振れない数ではない。
それぞれに、二人か三人。
ノアは、紙の上の七つの名前を見ていた。
どれも、窪地から歩いて一日かからない場所だった。
西寄りの外れの村でさえ、窪地からそう遠くない。
仕事の場所は、西街道の橋の向こうだった。
西から流れてくる者は、橋を渡り、普請場の横を通り、それから何日も歩いて、ようやく窪地の近くまで来て、札を見る。
そして、また西へ戻る。
「……西にも、一か所あった方がいいね」
横で豆を選っていたミラが、顔を上げた。
「西? 外れの村じゃなくて?」
「もっと西。西街道の上に」
◇ ◇ ◇
同じ頃。
西街道の普請場で、七日目の区切りが来ていた。
帳場の前に、人足たちが列を作っていた。
帳場の小屋の脇には、四角に斜線の焼き印が入った杭が立っていた。
書き役が、机の前に座っていた。
普請方の若い書き役だった。
「コンラート」
呼ばれて、コンラートは机の前に立った。
「堤から採石場へ。七日、全部出てるな」
書き役は、帳面の行を指でなぞってから、机の上に銅貨を並べた。
八枚ずつ、七つの山。
五十六枚。
コンラートは、銅貨を見下ろした。
飯の分は、引かれていなかった。
寝床の分も、引かれていなかった。
道具の分も。
「……これが、全部ですか」
「全部だ」
コンラートは、銅貨を両手で掬った。
重かった。
「ヴァルツの借りは」
書き役は、帳面から顔を上げなかった。
「ここでは扱わん」
「でも」
「借りは、お前とヴァルツの話だ。ここの手間賃は、お前の分だ」
書き役は、次の名前を呼んだ。
コンラートは、銅貨を握ったまま、列を外れた。
借りは、消えていなかった。
帳面のどこかに、まだ残っている。
ただ、今日の七日分から、何も引かれていなかった。
働いた分が、手の中にあった。
◇ ◇ ◇
ノアが普請場へ向かったのは、それから二日後だった。
「一人で行くの?」
ミラが聞いた。
「普請方の人と話すだけだから」
ミラは、少し黙った。
獅子の側と付き合うことを、ミラは今でもあまり好きではなかった。
前に普請方の話を持ってきた時は、ずいぶん止められた。
「……気をつけてね」
今日は、それだけだった。
◇ ◇ ◇
西街道の橋を渡った先に、普請場はあった。
道沿いの杭に、札が打ちつけてあった。
四角の中に、斜めの線。
丸に一本線の札は、もうどこにもなかった。
荷車の脇板に残った焼き印だけが、ここが前はヴァルツの受け持ちだったことを示していた。
人足たちは、働いていた。
石を割る音が、前に来た時より多く聞こえた。
堤の前で、知らない顔の男たちが石を積んでいた。
西寄りの外れの村から、札を見て来た者たちだった。
前に来た時にいた者の顔も、いくつかあった。
いない顔も、あった。
村へ帰った者。
荘の仕事へ戻った者。
残った者と、新しく来た者が、一緒に石を運んでいた。
◇ ◇ ◇
帳場の小屋に、灯りがついていた。
ノアは、戸口から中を覗いた。
机の向こうに、中年の男が座っていた。
身なりは、前と同じように整っていた。
指に、墨の跡があった。
「……まだ、ここにいるんですね」
ヘルマンは、帳面から顔を上げた。
「いる」
それだけ言って、また帳面に目を落とした。
机の脇には、若い書き役がいた。
「帳面の片がつくまでは使う、と上が言った」
書き役が、ノアに言った。
「誰がどこの持ち場にいたか、誰が何日出たか。顔と名前が全部分かるのは、こいつだけだ」
ヘルマンは、何も言わなかった。
ノアは、ヘルマンの前の帳面を見た。
前に見た、三冊のどれとも違う帳面だった。
名前。
持ち場。
働いた日。
払った額。
欄は、それだけだった。
ヘルマンの筆が、ある行で止まっていた。
行の右端に、少しだけ余白があった。
前の帳面なら、そこに借りの残りを書いていた。
「最初に渡された時、こいつ、借りはどこに書くのかと聞いた」
書き役が言った。
「それはヴァルツの帳面だ、と言った。これは普請の帳面だ」
ヘルマンは、余白には何も書かずに、次の行へ移った。
◇ ◇ ◇
普請方の男は、堤の脇で工程の紙を見ていた。
ノアが札を見せると、男は一度だけ目を落とした。
「西にも、一か所置かせてもらえませんか。ここに」
「ここに?」
「西から来る人が、窪地の近くまで歩かなくても、ここで仕事を見られるように」
普請方の男は、少し考えた。
「構わん」
それから、札を指で叩いた。
「だが、誰が見る。埋まった分に線を引く。いっぱいになったら外す。次の札が来たら差し替える。お前は、毎日ここにはおらんだろう」
「はい」
普請方の男は、帳場の方を振り返った。
「こいつがやる」
ヘルマンが、戸口に立っていた。
◇ ◇ ◇
「俺が?」
ヘルマンは、普請方の男を見た。
それから、ノアを見た。
ノアも、ヘルマンを見た。
マルタを、帰さなかった男だった。
飯の分も、寝床の分も、借りに付けていた男だった。
荷車置き場の出口に立って、帰ろうとしたマルタの前を塞いだ男だった。
ノアは、少しのあいだ黙っていた。
それから、普請方の男の方を向いた。
「確かめてもいいですか」
「何を」
「札と、人数だけですよね」
「そうだ」
「手間賃は」
「こちらが本人に払う」
「借りは」
「ヴァルツの話だ」
「どこへ行くかは」
「本人が決める」
ノアは、ヘルマンの方へ向き直った。
「札を一回置くごとに、銅貨十枚をもらってます。そのうち二枚は、札を置いてくれた場所に渡します。線を引いて、外して、差し替える手間の分です」
「……二枚」
「ここだと、ヘルマンさんに渡すことになります」
ヘルマンは、何も言わなかった。
人を集め、条件を話し、約束を書き、連れてきて、飯を出し、寝床を出し、道具を貸し、借りを付けて、次へ回す。
前は、それが全部ヘルマンの手を通っていた。
今、ヘルマンの手に渡るのは、札の番をする二枚だけだった。
◇ ◇ ◇
「……俺でいいのか」
ヘルマンが言った。
ノアは、すぐには答えなかった。
マルタのことを、気にしていない、とは言わなかった。
言えることでもなかった。
「札を間違えないなら」
ノアは、それだけ言った。
ヘルマンは、ノアを見た。
「帳面と札なら、間違えん」
◇ ◇ ◇
札は、帳場の小屋の前の柱に打ちつけられた。
四角に斜線。
道と槌。
人の形が、五つ。
お日さま七つ。
丸八つ。
椀。
小屋。
ノアは、線の引き方を一度だけ口で説明した。
ヘルマンは、黙って聞いていた。
一度で、覚えたようだった。
ノアが帰り支度をしていると、ヘルマンが戸口のところで帳面を開いていた。
ノアは、少しだけ迷ってから言った。
「ペーターさんの名前を、どこかで見かけたら」
ヘルマンの筆が、止まった。
しばらく、何も言わなかった。
「……名前を見たら、知らせる」
ヘルマンは、そう言って、また筆を動かし始めた。
◇ ◇ ◇
翌日。
ノアは、窪地にいた。
普請場の柱の前に、西から歩いてきた男が二人立った。
札の上の方を見て、お日さまを数え、丸を数えた。
帳場から出てきたヘルマンに、男の一人が聞いた。
「これ、まだ空いてるか」
ヘルマンは、札の人の形を数えた。
「空いてる」
「何日だ」
「七日。日当八枚、飯と寝床付き。手間賃は普請方から、本人に直接渡る」
男たちは顔を見合わせて、頷いた。
ヘルマンは、札の人の形のうち二つに、炭で一本ずつ線を引いた。
三日後、五つ全部に線が入った。
ヘルマンは、札を柱から外して、帳場の机の引き出しにしまった。
次の札が来るまで、柱は空いたままだった。
◇ ◇ ◇
窪地に戻った夜、マルタがノアのところへ来た。
子供二人は、もう寝ていた。
「ヴァルツ、なくなったんですか」
「なくなってないです」
ノアは言った。
「荘も、畑も、当主さんも、そのままです。西街道の仕事から、外れただけです」
マルタは、少し黙った。
「夫の借りは?」
「残ってます」
マルタは、膝の上で手を組んだ。
「夫のことは」
「まだ、分かりません。普請方が預かった帳面にも、その先は書いてなかったそうです」
マルタは、静かに頷いた。
ノアは、少し間を置いてから言った。
「西街道の普請場に、札を置いてきました。西から来る人は、みんなあそこを通ります」
「……はい」
「札の番をしてるのは、ヘルマンさんです」
マルタの指が、わずかに動いた。
「ペーターさんの名前を見かけたら、知らせてもらうことになってます」
マルタは、何も言わなかった。
長いあいだ、焚き火を見ていた。
それから、小さく言った。
「……そうですか」
それ以上は、何も言わなかった。
前は、夫を探すには、ヴァルツへ行くしかなかった。
今は、西から来る人がみんな通る場所に、札が一枚立っている。
すぐに見つかるとは、限らない。
道が一本、増えただけだった。
◇ ◇ ◇
それから十日ほどして、ローデンからロルフが来た。
「長が呼んでる」
ローデンの畑は、刈り入れが終わっていた。
黄色かった麦は束ねられて、納屋の前に積み上げられていた。
ベルントは、納屋の前でノアを待っていた。
「あの札のことだ」
ノアは、少し意外に思った。
前に札を持ってきた時、ベルントは柱を貸さなかった。
「冬の前に、薪を割る手が要る。刈り入れで若いのが疲れとる。年寄りの手じゃ、冬までに足りん」
ベルントは、腕を組んだ。
「あの札に、うちの仕事も出せるか」
ノアは、瞬きをした。
「出せます」
「普請方の札の横に、村の仕事を並べていいのか」
「札は、普請方のものじゃないので」
ノアは言った。
「仕事を出したい人が、条件を決めて出すだけです。雇うかどうかはベルントさんが決めて、手間賃もベルントさんから本人に渡してください。僕は、何も預かりません」
ベルントは、しばらくノアの顔を見ていた。
「一か所、十枚だったな」
「はい」
「どこに置く」
「近いところから、三か所くらいでどうですか」
「三十枚か」
ベルントは、少しだけ顔をしかめた。
「刈り入れの麦を売った銅貨がある。今年は、それで払う」
それから、頷いた。
◇ ◇ ◇
札の一番上には、場所の印がいる。
「ローデンの印、ありますか」
ノアが聞くと、ベルントは首を傾げた。
「そんなもの、あるか。ローデンと書いとけ」
「読めない人がいるので」
ベルントは、少し黙った。
それから、軒先を見上げた。
旗が二本、掲げてあった。
新しい方には、獅子。
古い方には、この村が昔から掲げてきた印があった。
色が褪せて、形がようやく分かる程度の。
ベルントは、古い方を指差した。
「あれでいい。この辺の者なら、あれで分かる」
ノアは、札の一番上に、その形を写した。
その下に、斧と薪。
人の形を三つ。
お日さまを五つ。
丸を、五つ。
椀。
小屋は、描かなかった。
「寝床は出さんのか」
「日帰りの人に来てもらいたいので」
「……そうだな。刈り入れの後だ。近くの者の方がいい」
西街道の普請のために作った札の仕組みに、初めて、ローデンの仕事が載った。
◇ ◇ ◇
同じ頃、西の端の荘では、帳場の灯りが消えていた。
荷車が、前のようには戻ってこなかった。
戻ってくるのは、荘の畑の荷を運ぶ車だけだった。
人足を集めに出る者も、いなくなった。
集めても、送る先がなかった。
借りの残った者たちは、荘へ戻ってきていた。
前なら、次の普請場へ回せた。
今は、回す先がない。
回す先がないまま、飯を出し、寝床を出し続ければ、減るのは荘の蔵の方だった。
当主は、借りの帳面を一冊ずつ見て、決めた。
荘の畑で働かせる者。
借りを書き付けて、村へ帰す者。
後で、取り立てに行く者。
借りがあるから帰さない、という決まりは、帳面の上ではまだ残っていた。
だが、帰さない者を食わせ続ける仕事が、もうなかった。
◇ ◇ ◇
当主は、奥の間で筆を取った。
帳場の男は、もういなかった。
自分で、字を書いた。
宛先は、西の、昔から付き合いのある家だった。
戦の前から、麦や荷のやり取りをしてきた家。
獅子に旗を降ろさなかった家と、繋がりのある家。
――東の空白地に、ノアという開拓領主がいる。
――獅子の普請方と、直に取引をしている。
――西から流れる者が、あそこを通って仕事へ流れていく。
――あの男が、人足の流れを変えた。
――ヴァルツの普請を奪ったのは、あの男だ。
当主は、最後の一行を書いてから、しばらく筆を止めていた。
消しは、しなかった。
◇ ◇ ◇
西の、どこかの屋敷。
燭台の灯りの下で、男が手紙を読んでいた。
読み終えて、紙を机に置いた。
「獅子の配下か」
向かいの男が、首を振った。
「いえ。獅子の旗は、ありません」
「兵は」
「置かれていないようです。巡察が寄ることはあるそうですが、兵が詰めているという話は聞きません」
「なのに、獅子の普請方と取引している」
「はい」
「西から逃げた者も、そこへ流れている」
「北東の村とも付き合いがあるそうです。南東にも、荷の道がある」
最初の男は、しばらく黙っていた。
獅子の側でもない。
獅子に逆らう側でもない。
それなのに、どちらの人間も、そこを通っている。
「領主の名は」
「ノア、と」
男は、手紙をもう一度見た。
敵だとも、味方だとも、言わなかった。
◇ ◇ ◇
机の上には、アルネア大陸の西から中ほどまでを描いた地図が広げてあった。
北東の一帯には、獅子の勢力を示す印が並んでいた。
西には、まだ旗を降ろしていない家々の印。
その間に、何も置かれていない小さな場所があった。
誰の印も、置かれたことのない土地だった。
男は、小さな木の駒を一つ取った。
少しだけ迷ってから、その空いた場所に置いた。
地図の空白に、初めて印が置かれた。




