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第27話 合わない数字

検分の日の朝、ヘルマンは西街道の普請場の帳場で、まだ暗いうちから灯りをつけていた。


机の上に、帳面が三冊並んでいた。


普請方へ出す、人数の控え。


誰がどの持ち場にいるかを書いた、人足の帳面。


誰にいくら残っているかを書いた、借りの帳面。


荘の帳場で、筆が止まった夜があった。


帳面は前の日のうちにここへ運んだが、あの夜から、答えは出ていなかった。


ヘルマンは、控えを開いた。


――堤 十二


――採石場 八


――橋の手前 十


合わせて、三十。


人足の帳面を開いた。


堤の欄にも、採石場の欄にも、同じ名前があった。


コンラート。


身体は、一つしかない。


どちらかから、消さなければならなかった。


堤から消せば、堤が十一になる。


採石場から消せば、採石場が七になる。


どちらを消しても、どこかが約束の数を割った。


◇ ◇ ◇


戸口が開いた。


当主だった。


外套の肩に、夜露が残っていた。


「揃ったか」


「揃いません」


「何がだ」


ヘルマンは、控えと人足の帳面を並べて、当主の方へ向けた。


「人数です」


当主は、二冊を見下ろした。


「新しく入った者が、足りません。移した者を元の持ち場から消せば、そこが足りなくなります。消さなければ、同じ者が二か所にいることになります」


当主は、しばらく黙っていた。


帳面から目を上げ、帳場の外の、まだ薄暗い普請場を見た。


「まず、見せる場所へ集めろ」


ヘルマンは、顔を上げた。


「検分の役人は、最初に堤を見る。そこに、控えの数を立たせろ。足りない分は、他から寄せればいい」


「寄せた持ち場が、空きます」


「見るのは、一か所ずつだ」


当主は、それだけ言って帳場を出た。


◇ ◇ ◇


日が昇ってしばらくして、普請方の男が来た。


一人ではなかった。


若い書き役と、他に書きつけを持った者が二人、後ろについていた。


普請方の男は、帳場に寄らず、まっすぐ当主の前に立った。


「次までに帳面と現場の数を揃えろと言った。その次だ」


「揃えてある」


「見せてもらう」


それだけだった。


◇ ◇ ◇


最初は、堤だった。


堤の石垣の前に、人足たちが並んでいた。


普請方の男は、控えを書き役から受け取って、一度だけ目を落とした。


――堤 十二


それから、並んだ人足を一人ずつ数えていった。


指で差しながら。


声には出さずに。


最後の一人の前で、指が止まった。


「十二」


当主は、何も言わなかった。


数字は、合っていた。


普請方の男は、石垣を見上げた。


積み上がった段を、下から数えた。


「この持ち場は、先月から十二で動いていることになっている」


「そうだ」


「十二いて、なぜまだここまでしか積めていない」


当主は、少しだけ間を置いた。


「石が遅れた日があった」


嘘ではなかった。


普請方の男は、何も言わずに石垣から目を離した。


並んだ人足の中に、痩せた男が一人、居心地悪そうに立っていた。


北の方で家が焼けて、戦の後にヴァルツへ来た男だった。


コンラートという名前だった。


◇ ◇ ◇


次は、採石場だった。


堤から坂を下り、道を折れた先に、山肌を削った岩場がある。


石を割る音が、まばらにしか聞こえなかった。


普請方の男は、控えを見た。


――採石場 八


岩場にいたのは、五人だった。


「残りは」


ヘルマンが答えた。


「堤へ回しております」


普請方の男は、書き役に目で合図をした。


書き役が、人足の帳面の写しを差し出した。


普請方の男は、採石場の欄を指でたどった。


途中で、指が止まった。


「コンラート」


誰も、答えなかった。


「この男は、さっき堤にいたな」


普請方の男は、顔を上げた。


ヘルマンの方を見た。


「堤の控えにも、この男が入っている」


◇ ◇ ◇


「持ち場を移しただけだ」


当主が言った。


普請方の男は、ヘルマンを見た。


「今の持ち場は」


「……採石場です」


「なら、堤の控えから消せ」


普請方の男は、控えを差し出した。


ヘルマンは、筆を取った。


堤の控えの、コンラートの名前に線を引いた。


普請方の男は、控えを受け取って、堤の欄を数え直した。


「十一」


指で、紙を叩いた。


「一人、足りんな」


当主が、ヘルマンの方を見た。


「別の者を入れろ」


ヘルマンは、人足の帳面をめくった。


名前が、並んでいた。


一つ目の名前に、指を置いた。


その男は、今朝から堤に立っている。


もとは、橋の手前の者だった。


二つ目の名前に、指を置いた。


その男は、採石場の五人の中にいる。


三つ目の名前は、荘の畑へ回した者だった。


ヘルマンの指が、帳面の上で止まった。


誰を入れても、その男がいた場所に、穴が開いた。


◇ ◇ ◇


普請方の男は、持ち場ごとに控えを見るのをやめた。


「全部で、何人いる」


ヘルマンは、帳面を持ち直した。


一人ずつ、口に出していった。


「現場に出ている者が、二十二」


「熱で寝ている者が、二」


「先月の終わりからいなくなった者が、三」


「荘の畑へ回した者が、一」


普請方の男は、指を折って聞いていた。


「二十八」


「……はい」


「約束は、三十だったな」


「はい」


「今日、普請場で働ける身体は」


ヘルマンは、少し黙った。


「二十二です」


普請方の男は、控えに目を落とした。


堤、十二。


採石場、八。


橋の手前、十。


合わせて、三十。


その三十は、二十二の身体の上で、同じ名前を持ち場から持ち場へ動かして作った数だった。


◇ ◇ ◇


普請方の男は、怒鳴らなかった。


「三十、出す約束だったな」


「はい」


当主が答えた。


「三十、いないな」


当主は、少しだけ黙った。


「……ああ」


それだけだった。


人足をどう扱ったか、とは聞かなかった。


普請方の男が見ていたのは、約束した数と、約束したところまで進んでいない道だった。


◇ ◇ ◇


「東の札が、人を奪っている」


当主が言った。


「前なら、十日で二十は集まった。あの札が出てから、村に行っても人が残っていない」


「それは、こちらの話ではない」


普請方の男は、控えを書き役に返した。


「そちらがどうやって人を集めるかは、そちらの商いだ。こちらが頼んだのは、三十を揃えて、決めたところまで道を進めることだ」


当主は、言い返さなかった。


◇ ◇ ◇


橋の手前は、さらに人が少なかった。


控えには、十。


石を積む場所に立っていたのは、五人だった。


積むための石が、足元にほとんどなかった。


普請方の男は、しばらくその場を見ていた。


それから、書き役に言った。


「この持ち場の、日ごとの記録を」


書き役が、帳場から持ってきた束を広げた。


その日の仕事を、持ち場ごとに一行ずつ書いたものだった。


普請方の男は、日付を追っていった。


一つの行で、指が止まった。


――橋の手前 石来ず 待ち


「この日は」


ヘルマンが、答えた。


「採石場で、石を割る者が足りなくなりました。橋の手前から二人を抜いて、採石場へ回しました」


「それで」


「石を割る者が、足りなくなりました」


普請方の男は、ヘルマンを見た。


「採石場の人が足りないから、橋の手前から移した」


「はい」


「移したから、橋の手前の人手が足りなくなった」


「……はい」


「それで、石が止まった」


「はい」


◇ ◇ ◇


普請方の男は、堤の方を振り返った。


まだ、人足たちが並んで立っていた。


「さっきの男を」


書き役が、坂を上っていった。


少しして、コンラートを連れて戻ってきた。


普請方の男は、コンラートの前に立った。


「お前は、どこの班だ」


コンラートは、少し迷った。


当主の方を見かけて、やめた。


「前は、堤でした」


「今は」


「採石場です」


「今日は」


コンラートは、また少し迷った。


「……堤に立てと言われました」


当主は、何も言わなかった。


「自分で、採石場へ行きたいと言ったのか」


「いいえ」


「なぜ行った」


「借りが残っているので。行く場所は、選べないと」


◇ ◇ ◇


「借りがあるのか」


「はい」


「ヴァルツに」


「はい」


普請方の男は、それ以上コンラートに借りのことを聞かなかった。


いくら残っているのか。


どういう約束だったのか。


誰が悪いのか。


そういうことは、聞かなかった。


普請方の男は、当主の方へ向き直った。


「借りを返させるために、人を動かした」


「働かせなければ、返せん」


「そのせいで、石が止まった」


当主は、黙った。


「石が止まったから、別の人足が待った」


「……そうだ」


「待った者には、日当が出ない」


「出ない」


「飯と寝床は」


「借りに付く」


普請方の男は、しばらく当主の顔を見ていた。


「待った人間にも、借りが増えたんだな」


ヘルマンが、顔を上げた。


前に、若い開拓領主が三人分の紙を並べていた。


働いた日に少し減る。


待ちの日に増える。


借りが残って、次の仕事へ回される。


あの時は、人足の帳面の側から。


今は、道の側から。


◇ ◇ ◇


「では、どうしろと言う」


当主の声は、落ち着いていた。


「戦で何も持たん者が、西から毎日流れてくる。誰が先に食わせる。飯も、寝床も、道具も、こちらが先に出している」


当主は、普請場を見渡した。


「逃げられれば、その分は誰が払う。借りを残したまま、全員帰せと言うのか」


普請方の男は、それを否定しなかった。


「それは、お前の商いの話だ」


「……何」


「人を食わせるのも、寝床を出すのも、借りを取り立てるのも、ヴァルツの事情だ。こちらが頼んだのは、道を作ることだ」


普請方の男は、橋の手前の足元を見た。


石が、ほとんどなかった。


「お前の事情で、こちらの普請が止まるのは困る」


◇ ◇ ◇


普請方の男は、書き役を振り返った。


「ヴァルツの受け持ちは、今日で止める」


当主の顔が、動いた。


「今日までに進んだ分は、確かめて払う。残りの区間は、こちらで引き取る」


「人は、どうする」


「集める」


普請方の男は言った。


「足りない分は、外に札を出して集める。もう試してある。今は、そちらの方が早い」


安い、とは言わなかった。


だが、書き役の手元の紙には、一人一稼働日の額が書いてあった。


ヴァルツに払ってきた十二枚と、札で人足に直接払う八枚と、札を置く手間の分と。


◇ ◇ ◇


「人足は、こちらが集めた者だ」


当主が言った。


「借りのある者もいる。約束を切ったからといって、勝手に使われては困る」


「借りは、消さん」


普請方の男は、すぐに答えた。


「ヴァルツとこいつらの間の借りは、こちらの知ったことではない。こちらが消す筋合いもない」


当主が、わずかに息を吐いた。


「だが」


普請方の男は、続けた。


「この普請場で働くかどうかは、本人に決めさせる。こちらで働く者には、こちらが直接払う」


「それでは、借りが回収できん」


「それも、お前の商いの話だ」


普請方の男は、それ以上当主の方を見なかった。


正しいとも、間違っているとも言わなかった。


普請方は、人足が欲しかった。


それだけだった。


◇ ◇ ◇


普請方の男は、コンラートの方を向いた。


「残って、こちらで働くか」


コンラートは、瞬きをした。


「……こちら、とは」


「普請方の仕事だ。日当八枚。飯は朝と夕、寝床はここの小屋。七日ごとに区切って、区切りの日に払う」


普請方の男は、少しだけ付け足した。


「外に出している札と、同じ条件だ」


コンラートは、しばらく黙っていた。


仕事を、差し出されたことはあった。


行け、と言われたこともあった。


選べ、と言われたのは、初めてだった。


コンラートは、坂の上の方を見た。


西から、街道が続いている。


西から来る者は、みんなこの道を通る。


「……残ります」


コンラートは言った。


誰にも、そう言えとは言われていなかった。


◇ ◇ ◇


他の人足たちにも、同じことが伝えられた。


残る、と言った者がいた。


村へ帰る、と言った者もいた。


借りがあるから、ヴァルツの荘の仕事へ戻る、と言った者もいた。


全員が、同じ道を選んだわけではなかった。


ただ、選んだのは、それぞれだった。


◇ ◇ ◇


帳場に戻ると、当主はヘルマンの前に立った。


「帳面を合わせろ」


ヘルマンは、机の上の三冊を見た。


普請方へ出す控え。


人足の帳面。


借りの帳面。


「何に、ですか」


当主は、ヘルマンを見た。


「人数だ」


「誰かを消せば、別のところが足りません」


「なら、別の名を入れろ」


「その者も、別の所にいます」


「いなくなった者は」


「いません」


「借りは、残っている」


「……でも、いません」


当主は、机に手をついた。


「帳面を、合わせろ」


帳場の外で、石を割る音が一つ、響いた。


ヘルマンは、筆を持たなかった。


指の墨の跡を、親指で一度こすった。


「……もう、帳尻を合わせられません」


◇ ◇ ◇


当主は、何も言わなかった。


ヘルマンも、それ以上は言わなかった。


こんなことはもうやめたい、とは言わなかった。


人足が気の毒だ、とも言わなかった。


マルタを帰さなかったのは、ヘルマンだった。


飯の分も、寝床の分も、借りに付けてきた。


区切りの来た者を、次の仕事へ回してきた。


コンラートに、行く場所は選べん、と言ったのも、ヘルマンだった。


ただ、いない人間を、いると書くことはできなかった。


一人の身体を、二つの持ち場に書くこともできなかった。


帳場の者として、そこから先へは、筆が進まなかった。


◇ ◇ ◇


戸口に、普請方の男が立っていた。


「その三冊を、見せろ」


当主が、何か言いかけた。


ヘルマンは、少しだけ迷った。


それから、三冊を重ねて、机の端へ押し出した。


「これが、帳面の現物です」


それ以上のことは、言わなかった。


◇ ◇ ◇


書き役たちが、三冊を突き合わせていった。


控えの、持ち場ごとの数。


人足の帳面の、名前。


借りの帳面の、残り。


名前が、一つずつ繋がっていった。


堤から採石場へ。


橋の手前から採石場へ。


荘の畑から橋の手前へ。


矢印。


いなくなった者の名前。


熱で寝ている者の名前。


待ちの日。


その日の飯と寝床。


区切りを迎えても、帰れなかった二人。


書き役の一人が、紙から顔を上げた。


「……この二人、待ちの日がなければ、区切りで返し終えていました」


普請方の男は、黙ってそれを聞いていた。


ヴァルツの帳面は、ヴァルツがしてきたことを、一行ずつ書き残していた。


◇ ◇ ◇


普請方の男は、三冊のうち二冊を書き役に預けた。


人数の控えと、人足の帳面。


借りの帳面だけは、机に残した。


「この二冊は、預かる」


当主の方を向いた。


「受け持ちは、ここまでだ」


兵は、呼ばれなかった。


当主が捕らえられることもなかった。


ただ、西街道の受け持ちがなくなった。


人を揃える手間の分として入っていた、一人一稼働日十二枚もなくなった。


普請場を仕切る場所も、なくなった。


ヴァルツの一番大きな仕事が、その日のうちに消えた。


◇ ◇ ◇


夕方。


普請場の道沿いに立っていた杭から、札が一枚ずつ外されていった。


丸に一本線の焼き印が入った札だった。


どの持ち場が誰の受け持ちかを示していた札だった。


荷車の脇板の焼き印は、そのままだった。


荷車は、ヴァルツの荷車だった。


外した杭には、別の札が打ちつけられた。


四角の中に、斜めの線。


普請方の杭の、焼き印だった。


◇ ◇ ◇


窪地に、若い書き役が来たのは、それから三日後の夕方だった。


いつものように、普請方の男が書いた紙を持っていた。


「また、人足ですか」


ノアが聞いた。


「ああ」


書き役は、紙を渡した。


――西街道 堤 採石場 橋の手前


――二十人


――七日


――日当八


――飯 朝夕


――寝床 普請場の小屋


ノアは、場所の名前を見た。


一度、行ったことのある場所だった。


石を待って座り込んでいた班。


持つ者のいない鍬。


奥の帳場の、墨の跡のある指。


マルタが、帰れなくなった普請場だった。


「ヴァルツは?」


ノアは聞いた。


書き役は、少しだけ間を置いた。


「外れた」


それだけだった。


ノアは、しばらく紙を見ていた。


何も言わなかった。


喜んだ顔も、しなかった。


紙を、裏返した。


炭を取った。


四角の中に、斜めの線。


道と、槌。


人の形を描く段だけ、空けた。


お日さまを、七つ。


丸を、八つ。


椀。


小屋。


いつもの順番で、描いていった。


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