第26話 選ばれる仕事
男が窪地へ戻ってきたのは、昼を過ぎた頃だった。
丘を下りてくる足取りは、来た時より重かった。
五日、土を運んだ足だった。
妻が、背の子を揺すりながら立ち上がった。
上の子が、先に走っていった。
男は子供を片腕で抱えて、そのまま焚き火の前まで来た。
腰の袋を外して、妻の手に載せた。
妻は、袋の口を開けて、中を見た。
指で、一枚ずつ数えた。
途中で、数えるのをやめた。
最後まで数えなくても、分かったようだった。
ノアは、少し離れたところから声をかけた。
「どうでした?」
男は、ノアの方を見た。
少し考えてから、言った。
「札に描いてあった通りだった」
それだけだった。
「飯は朝と夜。寝床は小屋。日当は八枚。終わった日に、あの役人が一人ずつ手で渡した。何も引かれなかった」
「そうですか」
男は、袋の方を顎で示した。
「四十枚だ」
ノアは、頷いた。
男は、しばらく焚き火を見ていた。
それから、ぼそりと言った。
「次も、ああいうのが出たら教えてくれ」
「柱に出します」
男は、柱の方を見た。
決まりの紙の横には、札を打ちつけていた跡だけが残っていた。
「……そうか」
男は、それ以上ノアに何も聞かなかった。
◇ ◇ ◇
夕方、男は妻と少し話してから、皆の分の袋の前に来た。
銅貨を二枚、入れた。
「泊まった分と、火と水の分だ」
誰にも頼まれていなかった。
ノアは、帳面に書いた。
――入 二枚 札の仕事から戻った分
一緒に窪地から行った二人も、戻ってきた。
一人は一枚入れた。
もう一人は、何も入れなかった。
ノアは、どちらにも何も言わなかった。
手間賃は、まず本人の物だった。
鍋は、まだ薄かった。
窪地で仕事を待っている者は、まだ何人もいた。
八人が五日働いただけで、全部が片付くわけではなかった。
それでも、帳面の行は、減るばかりではなくなっていた。
◇ ◇ ◇
同じ頃。
ヴァルツの荘の奥の間で、痩せた男が当主の前に立っていた。
ヘルマンが、帳面を抱えて横に控えていた。
「西寄りの村で、集まりませんでした」
当主は、椅子の背にもたれたまま聞いた。
「なぜだ」
「行きたがっていた者は、もう行ったと」
「どこへ」
「西街道の普請場です。村の柱に、仕事が出ていました」
「誰のだ」
痩せた男は、少し言いよどんだ。
「普請方です」
当主の顔が、動いた。
「東の開拓地の若造ではないのか」
「札には、誰が置いたとも書いてありませんでした。字が、一つもない札で」
痩せた男は、袋から紙を一枚出した。
柱から写してきたらしい、下手な線の絵だった。
四角の中に、斜めの線。
道と槌。
人の形。
お日さま。
丸が、八つ。
椀と、小屋。
「この四角は、普請方の杭の焼き印です」
「条件は」
「日当八枚。飯と寝床は、向こう持ちだと」
ヘルマンが、帳面から顔を上げた。
ヴァルツの人足は、日当六枚だった。
そこから飯が二枚、寝床が一枚、道具が一枚引かれる。
当主は、しばらく絵を見ていた。
「あの若造が、普請方の仕事を出しているのか」
「そういうことかと」
当主は、紙を机に置いた。
「普請方へ行く」
◇ ◇ ◇
普請方の小屋で、当主は契約の紙を広げさせた。
「人足の募集は、こちらとの約束に含まれているはずだ」
普請方の男は、紙を一行ずつ読んだ。
ヴァルツが受け持つのは、西街道の中の区間。
そこへ決めた数の人足を出し、決めたところまで道を進める。
人を揃える手間の分として、一人一稼働日十二枚。
「そちらとの約束は、変えていない」
普請方の男は、紙から顔を上げた。
「決めた人数を出して、決めたところまで進めてもらえばいい。今まで通りだ」
「なら、あの札は何だ」
「足りんから、別に集めている」
当主は、黙った。
「うちの区間の外、東の土運びだ。そちらの持ち場には手を出していない」
普請方の男は、机の端の紙を指で叩いた。
契約三十。
検分の時、二十四。
「そちらが人数を揃えているなら、こちらも、あんなものを試す必要はない」
当主は、何も言い返さなかった。
言い返せる数字が、なかった。
「次の区間も、同じ約束でこちらへ任せるのか」
普請方の男は、少し間を置いた。
「まだ決めていない」
◇ ◇ ◇
当主が帰ったあと、普請方の男は使いを呼んだ。
◇ ◇ ◇
「もう一度、出せるか」
窪地に来た使いは、若い書き役だった。
普請方の男が書いた紙を、ノアに渡した。
――東区間 土運び 石運び
――十五人
――七日
――日当八
――飯 朝夕
――寝床 普請場の小屋
「前の八人は、五日目まで全員残った。怠けた者もいない」
書き役は、普請方の男の言葉をそのまま伝えた。
「今度は、もう少し広く出してみろ、と」
「置く場所が増えれば、その分かかります」
「分かっている、と言っておられた」
書き役は、少し迷ってから付け足した。
「一度うまくいったのだから、値を上げてくるだろう、とも」
「上げません」
ノアは言った。
「一か所に、一回置いて、十枚です。前と同じです」
「……いいのか」
「やることが前と同じなので」
札を作る。
写す。
置く場所へ持っていく。
人の形を消す。
終わったら、外す。
一人来ても、十五人来ても、それは変わらなかった。
書き役は、自分の紙に何か書きつけた。
◇ ◇ ◇
ノアは、前に札を置いた場所を回った。
窪地。
峠の手前の集落。
東の沢の村。
南東の荷置き場。
西寄りの外れの村。
どこでも、話は早かった。
前の札を覚えている者がいた。
線を引く役の者は、自分から柱の場所を空けた。
峠の手前の集落で、年寄りが言った。
「うちから行った二人が、銅貨を持って帰ってきた。飯も食わせてもらったそうだな」
「はい」
「隣の谷の村の者が、それを聞いて、うちにも置けんかと言ってきとる」
隣の谷の村だけではなかった。
川の下手の集落からも、同じ話が来ていた。
あの札を置いた村から八人行って、八人とも手間賃を持って帰ってきた。
そういう話は、ノアが歩くよりも早く回っていた。
◇ ◇ ◇
隣の谷の村で、ノアは柱の前に札を出した。
一度だけ、説明するつもりだった。
「一番上が、場所で――」
言いかけたところで、村の男が札を覗き込んだ。
「これが人の数で、こっちが日だろ」
ノアは、口を閉じた。
「峠の市で見た。お日さまを数えりゃいい」
男は、指でお日さまを数えた。
「七日か。前のより長いな」
「……はい」
「で、この丸が一日の分」
「はい」
男は、椀と小屋を指で叩いた。
「飯と寝床も付く。前と同じだ」
ノアは、何も付け足さなかった。
付け足すことが、なかった。
◇ ◇ ◇
置く場所は、七つになった。
七十枚。
書き役が、次に来た時に置いていった。
そこから、置いた場所へ二枚ずつ。
窪地の二枚は、その夜、皆の分の袋に入った。
◇ ◇ ◇
西寄りの外れの村には、ヴァルツの荷車が来ていた。
痩せた男が、御者台の横で声を張っていた。
「人足を集めている。日当七枚。飯と寝床付き。新しく来る者は、最初の三日、道具の分を取らん」
西街道で出していた六枚より、一枚多かった。
道具の分も、三日は引かれない。
痩せた男の声は、よく通った。
村の者が何人か寄ってきた。
それから、柱の方を見た。
柱には、普請方の札が打ちつけてあった。
村の男が一人、札の前に立った。
お日さまを数えた。
丸を数えた。
椀と小屋を見た。
「……普請方は、八枚で、飯と寝床は向こう持ちだ」
男は、荷車の方を振り返った。
「そっちは七枚から、飯と寝床を引くんだろう」
痩せた男は、答えなかった。
引かなければ、ヴァルツは回らなかった。
人を集める手間。
飯。
寝床。
道具。
荷車。
ヘルマンの帳場。
普請方から入る十二枚の中から、全部を出していた。
普請方の八枚と並べられて、それ以上は上げられなかった。
それに、村の者は、もう一つ別の話も聞いていた。
ヴァルツで働くと、借りが残ることがある。
残れば、帰れないことがある。
◇ ◇ ◇
それでも、全員が札の方へ行ったわけではなかった。
札の人の形は、二つとも線が引かれていた。
この村からの分は、もう埋まっていた。
夕方、村の外れに、西から来たばかりの一家が座り込んでいた。
夫婦と、小さな子供が二人。
持っている物は、何もなかった。
「普請方の仕事は、集まる日まで、まだ四日ある」
村の男が、一家にそう言っていた。
「ここから埋まってても、窪地の方で空いてるかもしれん」
夫は、首を振った。
「四日も、食う物がない」
痩せた男が、荷車の横から一家を見ていた。
「今夜から、飯は出る」
痩せた男は言った。
「寝る所もある。明日から働ける」
夫は、しばらく荷車を見ていた。
それから、子供の手を引いて立ち上がった。
ヴァルツは、今夜食う物のない人間を、その日のうちに抱えた。
普請方の札には、それはできなかった。
荷車が出る時、乗っていたのは、その一家を入れて四人だけだった。
前なら、荷台がいっぱいになっていた。
◇ ◇ ◇
その夜、ヴァルツの荘の奥の間で、当主はヘルマンに聞いた。
「今、何人だ」
ヘルマンは、帳面を開いた。
「約束では、三十」
「今は」
「現場に出ているのが、二十一。熱で寝ている者が二人。先月の終わりから、いなくなった者が三人。荘の畑に回したのが二人」
「新しく入ったのは」
「今日の一人を入れて、この十日で七人です」
前なら、十日で二十人は入っていた。
当主は、机の上の暦を見た。
次の検分まで、もう日がなかった。
「新しい者を待っていては、間に合わんな」
「……はい」
当主は、しばらく黙っていた。
「今いる者を、減らすな」
ヘルマンは、筆を持ったまま顔を上げた。
「借りの残っている者は、区切りが来たら、その日のうちに次へ回せ。足りん持ち場から埋めろ」
今までと、決まりが変わったわけではなかった。
借りの残った者は、帰さない。
次の仕事に回す。
戦の後から、ずっとそうしてきた。
変わったのは、回す早さと、回す数だった。
「途中でいなくなった者は」
ヘルマンが聞いた。
「借りは、消えていない」
当主は言った。
「荷車の者に、名前を持たせろ。見つけたら、戻せ」
◇ ◇ ◇
翌日、西街道のヴァルツの持ち場で、一つの班の仕事が区切りを迎えた。
堤の石垣を一段、積み終えた。
班の中の何人かは、その日のうちに帳場で手間賃の残りを受け取った。
借りを残さず、区切りまで働いた者たちだった。
「村へ帰る」
一人がそう言って、荷をまとめた。
誰も止めなかった。
それを見ていた若い人足が、横の男に言った。
「あいつは、帰っていいのか」
「あれは、借りが残ってない」
横の男は、石を置きながら答えた。
「残ってる者は、次だ。前からそうだろう」
若い人足は、黙った。
その横で、コンラートという男が、帳場の前に立っていた。
戦の後にヴァルツへ来た男だった。
家は、北の方で焼けていた。
借りが残っていることは、自分でも知っていた。
帰れないことも、知っていた。
「次は、どこですか」
ヘルマンは、帳面を見た。
「西の採石場だ」
コンラートの顔が、わずかに動いた。
「……ここに、残れませんか」
「ここは、今日で区切りだ」
「橋の手前の持ち場でも、いいです。石を運ぶのでも」
コンラートは、少し早口になった。
「採石場は、遠いと聞きました。ここなら、西から来る者が通る。女房が探しに来るかもしれない」
ヘルマンは、筆を止めた。
「借りが残っている」
「分かってます。だから、どこかでは働きます。場所だけ――」
「借りが残っている以上、どこへ行くかは選べん」
ヘルマンは、そう言った。
言いながら、自分の声を聞いていた。
前にも、同じことを言ってきた。
ただ、前はここまで急がなかった。
区切りのあと、何日か、この普請場で待たせることもできた。
今は、採石場が三人足りなかった。
コンラートは、しばらく帳場の前に立っていた。
それから、黙って自分の荷を取りに行った。
◇ ◇ ◇
ヘルマンは、帳面に矢印を書いた。
堤の持ち場から、採石場へ。
一人。
採石場は、それでも二人足りなかった。
橋の手前の持ち場から、二人を抜いた。
橋の手前が、二人足りなくなった。
そこへ、荘の畑から一人を回した。
まだ一人足りなかった。
矢印が、増えていった。
名前の横に、名前が並んだ。
三日後、橋の手前の持ち場に、石が届かなかった。
石を積む者はいたが、石を割る者が採石場へ回されていた。
その日は、待ちの日になった。
日当は、出なかった。
飯と寝床の分だけが、借りに付いた。
あと数日で借りを返し終えるはずだった者が二人、その日の分で、区切りまでに返しきれなくなった。
区切りが来ても、帰れなくなった。
また、次へ回す者が増えた。
◇ ◇ ◇
各地の柱では、札の人の形に、線が一本ずつ増えていた。
峠の手前の集落で、一つ。
隣の谷の村で、二つ。
窪地で、一つ。
川の下手の集落で、一つ。
誰も、行けと言われていなかった。
誰も、借りで縛られていなかった。
札を見て、数えて、行く者だけが行った。
線が増えるほど、募集は終わりに近づいた。
全部の人の形に線が引かれれば、札は外される。
七日働いた者は、手間賃を持って、行きたいところへ行く。
仕事が終われば、そこで終わりだった。
◇ ◇ ◇
ヴァルツの帳面では、名前が消えなかった。
仕事を終えた者の名前も。
別の持ち場へ回された者の名前も。
いなくなった者の名前も。
借りが、残っているからだった。
◇ ◇ ◇
夜。
荘の帳場で、ヘルマンは一人で灯りをつけていた。
机の上に、帳面が三冊並んでいた。
一冊目は、普請方へ出す人数の控え。
持ち場ごとに、今日何人出したか。
二冊目は、人足の帳面。
誰が、どの持ち場にいるか。
三冊目は、借りの帳面。
誰に、いくら残っているか。
ヘルマンは、一冊目と二冊目を突き合わせていった。
堤の持ち場。
橋の手前。
採石場。
指が、止まった。
コンラート。
その名前が、二つの所にあった。
普請方へ出す控えの、堤の持ち場の人数の中に。
人足の帳面の、採石場の欄に。
堤の持ち場は、区切りのあとも、次の段の積み直しで人数を出していることになっていた。
コンラートを抜けば、堤の持ち場は約束の数を割る。
割った数を、検分の役人は見る。
ヘルマンは、筆を取った。
堤の持ち場の控えから、コンラートの名前を消そうとした。
筆の先が、紙に触れる前に止まった。
消せば、堤の持ち場が一人足りなくなる。
残せば、一人の男が、同じ日に二つの持ち場で働いていることになる。
身体は、一つしかなかった。
ヘルマンは、筆を置いた。
机の端に、紙が一枚、重しで押さえてあった。
――次回検分
その横に、日付。
ヘルマンは、長い間、三冊の帳面を見ていた。
灯りの油が、少しずつ減っていった。




