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第29話 災王

降った砦の一室だった。


前の砦ではない。


西街道を越え、さらに西へ進んだ先で、門を開いた砦だった。


机も、窓も、壁にかかった古い旗の跡も、前とは違う。


地図だけが、同じだった。


アルネア大陸の地図。


北東の一角から始まった獅子の印は、中ほどを越え、西へ、西へと伸びていた。


前に同じ地図を囲んだ時、西街道の橋の上には、橋が落ちていることを示す小さな印が置かれていた。


今は、その橋のずっと向こうまで、印が並んでいた。


◇ ◇ ◇


最初の報告は、陸の話ではなかった。


「沿岸からです」


側近が、紙を一枚読み上げた。


「海の向こうから来る船が、増えております。港に入る船の数が、去年の同じ頃より多い、と」


男は、地図を見ていた。


「船乗りたちは、海が前より渡りやすくなった、と言っているそうです。向こうから来るのにかかる日数も、短くなっていると」


側近は、紙から顔を上げた。


「海が、少し穏やかになったのでしょう」


男は、すぐには何も言わなかった。


「船は」


「商船が主です」


少しの間があった。


「……そうか」


それだけだった。


側近は、次の紙をめくろうとした。


男の目は、まだ地図の端に残っていた。


側近は、めくりかけた紙を一度止めた。


他の雑報と同じように、その一枚を束の下へ戻すことはしなかった。


「西は」


男が言った。


◇ ◇ ◇


「旗を降ろしていない家同士で、使者が行き来しております」


側近は、西の端に置かれた印を指した。


「麦と銅貨も、家から家へ動いているようです。兵だった者らしい男たちが、村から村へ移っているという話もあります」


「集まっているのか」


「いえ。それが」


側近は、少し言葉を探した。


「共通の旗は、見当たりません。盟約を結んだという話も、確かめられておりません。一か所に兵が集まっているわけでもない。誰がまとめているのかも、分かりません」


「何かは、動いている」


「はい。ですが、形になっておりません」


壁際にいた将の一人が、口を開いた。


「探らせますか。今のうちに押さえてしまえば――」


「いらん」


将は、少し意外そうな顔をした。


男は、地図の西の端を見たまま言った。


「旗もない。兵も集まっていない。拠点も見えん」


「ですが」


「追えば、こちらが止まる」


男の声は、変わらなかった。


村を一つずつ調べる。


使者を一人ずつ追う。


道を見張らせる。


家ごとに兵を置く。


そうやって西に軍を貼りつければ、その分だけ、前へは進めなくなる。


「見張りだけ続けろ」


男は言った。


「集まったら、報せろ」


将は、それ以上は言わなかった。


◇ ◇ ◇


報告は、大陸のあちこちへ移っていった。


境を巡る争い。


空いた土地の取り合い。


捨てられた村の倉。


街道の通行料。


旧王国の境が意味を失った土地では、昨日まで隣だった領主同士が、畑一枚や道一本を巡って兵を出していた。


男は、それを一つずつ聞いた。


獅子の街道や、兵糧を運ぶ道に関わらない争いには、何も言わなかった。


止めさせることも、しなかった。


弱い土地を、隣の家が呑み込もうとする。


それは今のアルネアでは、珍しいことではなかった。


◇ ◇ ◇


「南は」


男が言った。


側近は、地図の南に目を移した。


「以前、兵を集め始めていた都市ですが」


前に同じ地図を囲んだ時、南は、旧王国の領主たちがそれぞれ城に籠もっている、という報告だった。


その中に一つ、自分たちで兵を集め始めた都市がある、と。


「周りの領主との往来が、増えております」


側近は、南の印を指で囲むようにした。


「周りの家が、あの都市へ使者を出しております。都市の方からも、出ている。南の穀倉は、ほとんど荒れておりません。城も残っている。兵も、旧王国の頃の数がそのまま残っているところがあるようです。南の荷の道も、生きております」


「一つにまとまったのか」


「まだ、です。ですが、あの都市を中心に、家々が向きを揃え始めているように見えます」


「旗は」


「こちらへ降ろす様子は、ありません」


側近は、少し間を置いた。


「こちらへ兵を向ける様子も、ありません」


「当然だ」


男が言った。


側近が、顔を上げた。


「当然、ですか」


「麦がある。兵がいる。道も生きている」


男は、南の印を見下ろした。


「余に降らずとも、今は困らん」


西には、獅子に旗を降ろさない家々が、表に出ないまま動いている。


南は、そうではなかった。


ただ、自分の足で立っていられるから、降らないだけだった。


将の一人が、身を乗り出した。


「では、南へ兵を」


「今は、要らん」


「ですが、あれだけまとまれば、いずれは」


「今、攻める利がない」


男は、それだけ言った。


城がある。


麦がある。


兵がいる。


長く籠もれる相手だった。


攻めれば、勝てるかどうかより先に、大きな軍が長いあいだ南に縛りつけられる。


男が欲しいのは、勝つことではなかった。


時間だった。


将は、口を閉じた。


◇ ◇ ◇


報告が一通り終わった時、地図の上には、大陸がそのまま広がっていた。


北東から中ほどを越え、西へ伸びる獅子の印。


西の端には、表には出てこない動き。


あちこちに、小さな家同士の争い。


南には、自分の足で立つ大きな塊。


男は、そのすべてを同じ地図の上で見ていた。


◇ ◇ ◇


「それと、一つ」


側近が、少し声の調子を変えた。


「降った村や、西の町で、別の名が広まっております」


男は、地図から目を上げなかった。


「何と」


側近は、少しだけ口ごもった。


「……災いの王、と」


部屋の中が、静かになった。


北東の獅子。


それが、これまでの呼び名だった。


城を落とし、軍を崩し、来るだけで門が開く土地が増えた。


あれが来れば、終わる。


そう囁く者たちの間から、いつの間にか、別の呼び名が生まれていた。


側近は、男の顔をうかがっていた。


男は、少し考えた。


「災いの王、か」


それから、言った。


「悪くない」


側近が、顔を上げた。


◇ ◇ ◇


「恐怖は、人より先に走る」


男は、西の地図の上に指を置いた。


「兵が着く前に、噂が着く。噂だけで門が開くなら、兵を出さずに済む。日も失わん」


男は、指を少し動かした。


「恐怖でも、人は従う」


一拍、置いた。


「なら、その名は使える」


誰も、何も言わなかった。


◇ ◇ ◇


「では、その呼び方を止めさせますか」


側近が、おそるおそる聞いた。


「逆だ」


男は言った。


「使え」


「災いの王、と?」


男は、少しだけ眉を寄せた。


「長い」


側近が、瞬きをした。


男は、地図から目を上げた。


「災王でいい」


◇ ◇ ◇


次の布告から、その名が使われることになった。


使者に持たせる書状にも、その名が入ることになった。


側近が、紙を抱えて戸口へ向かった。


その背中に、災王が言った。


「余が着く前に門が開くなら、その方が早い」


側近は、振り返って頭を下げた。


威を示すためでは、なかった。


名を上げるためでも、なかった。


時間を、買うためだった。


◇ ◇ ◇


会議が終わりかけた頃、別の書き役が、束の最後から一枚を抜き出した。


「あと、一つ」


災王は、地図を見たまま言った。


「何だ」


「空白地の件、その後です」


災王の目が、地図の一点へ動いた。


広がった印のすぐ脇に、小さな場所が一つあった。


何も置かれていない場所。


前に、捨て置けと言った土地。


その次には、放っておけと言った土地。


「まだ、九人か」


「いえ」


書き役は、紙を読み上げた。


「人が増えております。住んでいる者だけで二十を越えました。西から流れてきた者も、多くおります」


災王は、黙って聞いていた。


「北東のローデンという村と、人の行き来があります。南東の荷の道とも、繋がっているようです」


書き役は、紙をめくった。


「西街道の普請の人足集めにも、関わっております。札を使って人を集める仕組みを作ったそうで、今は普請方がそれを使っております。人足の集まりが、前より早くなったと」


「普請方が」


「はい」


災王は、何も言わなかった。


西街道の人足が、前より早く集まるようになった。


それだけなら、ただの報告だった。


「兵は」


「おりません」


前と、同じ答えだった。


人が増えた。


村と繋がった。


仕事を動かしている。


西街道にまで、手が届いている。


それでも、兵はいなかった。


災王は、その小さな場所を見ていた。


前は、土地を見ていた。


捨て置くか、放っておくか。


それだけを決める、地図の上の空きだった。


今、災王が考えていたのは、その空きを動かしている者のことだった。


「……名は?」


書き役が、紙に目を落とした。


「ノア、と」


災王は、その名を繰り返さなかった。


面白いとも、危ないとも、言わなかった。


欲しいとも、言わなかった。


◇ ◇ ◇


災王は、しばらくその小さな場所を見ていた。


ほんの短いあいだだった。


それから、地図の上に置いていた指を、ゆっくりと滑らせた。


小さな場所を離れ、獅子の印の上を越え、陸の線を越えた。


指が止まったのは、何も描かれていない場所だった。


海だった。


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