第9話 屋上菜園での語らい
視界の端で踊る毒々しいゲームオーバーの文字を思い出し、俺は屋上へと続く重い鉄扉を押し開けた。
「……はぁ。もう、お見合いはこりごりだ……」
親父の妻軍団や、わがままな姉妹達を見て、誰が結婚なんて前向きに考えられるっていうんだ。
百花繚乱閣の中層階を通り抜けるだけで、母親の麗子や姉妹たちの「次はもっと資産家を」「いや、私の知り合いを」という喧騒に捕まる。一〇〇人の妻を娶る義務なんて、やっぱりただの罰ゲームだ。
逃げるように辿り着いた屋上は、地上数百メートルの風が吹き抜ける、俺にとっての数少ない逃避行先だった。そこには、都会の喧騒から切り離されたような、緑豊かな菜園が広がっている。
菜園の奥で、一人の男が黙々と土をいじっている。
清潔な白いツナギに身を包み、首筋には無機質なQRコード。農業特化型プログラムで動くゾンビ、太郎君だ。
「よお、太郎。今日も精が出るな」
俺の声に、太郎はゆっくりと顔を上げた。血色のないマットな白い肌に、焦点の合わない、けれど透き通った緑色の瞳。彼は一切の感情を排した「無」の表情のまま、土のついた手で、カゴの中から収穫したばかりの真っ赤なトマトを差し出してきた。
「……サンキュ。いただくわ」
受け取ったトマトにかぶりつくと、太陽の熱を蓄えた濃密な甘みが口いっぱいに広がった。化学的な栄養ペーストなんかより、ずっと野性的な味がする。
俺は太郎の隣に腰を下ろし、コンクリートの縁に足を投げ出した。眼下に広がる港区の街並みは、着飾った女性たちと、荷物を運ぶゾンビたちで溢れている。一〇〇年前のパンデミックが生んだ、歪な、けれど誰もが「幸せ」だと信じ込んでいるユートピアだ。
「なあ、太郎。愛が無いのに結婚しないとだめかな。そんなに法律が大切なのか?」
太郎は答えず、ただ次の苗に手を伸ばしている。
「マリッジ局の連中も、お袋も、みんな俺のことを『一パーセントの希少種』とか『国家重要インフラ』としてしか見てない。俺が一〇〇人の誰かを特別に想うことなんて、システム上はノイズでしかないんだよ」
俺は虚ろな瞳で空を見つめる太郎の横顔を眺めた。
「……でもさ、お前だけは違うよな。お前は俺がノーマル男子だから優しくするわけじゃない。ただ決められたことをやっているだけってのはわかっているけどさぁ……」
自嘲気味に笑いながら、俺は膝を抱えた。
「うん。やっぱ太郎はただのプログラムや労働力じゃない。俺を『一パーセントの希少種』じゃなく、『春斗』として見てくれる、世界で唯一の親友なんだ。お前といる時だけが、俺がただの引きこもりゲーマーではなく人間としていられる時間なんだよ……ありがとよ」
ポツリと漏らした本音は、風にさらわれて消えていくはずだった。
だが、その言葉が屋上に残った静寂を震わせた直後。
「……天海さん」
背後から響いた、聞き覚えのある少し掠れた声に、俺の心臓が跳ね上がった。
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慌てて振り返ると、そこにはタイトスーツ姿の柊香澄さんが立っていた。いつもピシッと構えているはずのタブレットは脇に抱えられ、彼女はどこか戸惑ったような、悲しげな表情で俺を見つめていた。
「香澄さん……いつからそこに?」
「……『愛が無いのに』って、仰ったあたりからです」
香澄さんはおずおずと歩み寄り、少し離れた場所に腰を下ろした。左頬の古傷を隠すように、彼女は視線を足元に落とす。
「すみません、盗み聞きするつもりはなかったんです。ただ、次のお見合いのスケジュールの確認を……でも、天海さんがあまりに……寂しそうな顔をしていたので」
「……カッコ悪いところを見せちゃいましたね。エージェント様には、非効率な独り言に聞こえた?」
俺が茶化すように言うと、香澄さんは勢いよく首を振った。
「そんなこと、ありません! ……天海さんが、そんな風に思っていたなんて、私は……」
彼女の指先が、膝の上でぎゅっと握りしめられる。
「私のデータには、天海さんの『孤独』なんてパラメーターはありませんでした。一パーセントの幸福な男性、守られるべきインフラ……。でも、そうですよね。一〇〇人に囲まれるということは、誰か一人の『唯一』にはなれないということ……」
香澄さんはふと顔を上げ、俺と目が合った。その瞳には、いつもの「データ至上主義」の冷徹さはなく、一人の女性としての動揺と、柔らかな光が宿っていた。
「天海さん。私は、あなたの担当官ですから、あなたを結婚させなければなりません。それは私の任務です。……でも、その」
彼女は一瞬言葉を詰まらせ、顔を熟れたトマトのように真っ赤に染めた。
「……『春斗さん』が、そこまで苦しんでいるなら。私は、データだけじゃなく、もう少し……あなたの心に向き合うべきだと思いました。……あ、これは職務規定としての話ですよ! メンタルケアもエージェントの仕事ですから!」
「あはは。やっぱり香澄さんは、真面目だな」
不器用な励ましに、俺の胸の奥に溜まっていた重たい澱が、少しだけ軽くなった気がした。
エリートを気取っているけれど、結局は空回りして涙目になる、ポンコツで一生懸命な担当官。彼女が俺を「ミッションの対象者」ではなく、「天海春斗」という人間として意識し始めた、そんな予感がした。
太郎は相変わらず無心でキュウリを齧り、俺たちの間に流れる妙に甘酸っぱい空気を無視し続けている。
「……ま、とりあえず、次のヤバい候補者のデータでも見せてよ。覚悟はしとくから」
「あ、はい! 次は……次は本当に完璧なんですから!」
香澄さんは慌ててタブレットを起動させたが、その手元はどこかおぼつかない。
そんな彼女との和やかな時間が心地よく感じた。




