第43話 恋の成就
「……よし、今度はバレずに尾行できてるな」
「はい! これぞエージェントの隠密スキルです!」
百花繚乱閣から少し離れた、保護区のショッピングモール。俺と香澄さんは、変装用のサングラスと帽子を深く被り、前方を歩く二人の男女を物陰からこっそりと尾行していた。
前を歩いているのは、少し猫背気味に歩く太郎と、相変わらずヨレヨレの黒スーツ姿で気だるそうに歩く元SP隊長の影山妙子だ。
作戦の失敗から数日後、俺たちは「日常の買い出しのお供」という名目で、なんとか二人を外出させることに成功していた。
「でも、全然会話弾んでないですね……。影山さん、ずっと下向いてますし」
香澄さんが双眼鏡越しに呟く通り、二人の間には気まずい沈黙が流れていた。影山は俺の警護というアイデンティティを失い、すっかり生気をなくしている。
「まあ、焦っても仕方ないさ。太郎も不器用だし、少しずつ……ん?」
俺が言いかけたその時、ショッピングモールの裏路地へと差し掛かった二人の前に、ぞろぞろと人影が現れた。
現れたのは、黒いマスクやフードで顔を隠した数人の集団だった。彼らの手には、鉄パイプやスタンガンなどの物騒な凶器が握られている。
「おい、あれって……」
「まさか……旧マリッジ局の過激派残党ですか!?」
香澄さんが息を呑む。
ゾンビが人間に戻る新薬が公になり、一夫百妻制が崩壊したことで、特種婚姻局……通称マリッジ局は解体を余儀なくされた。その結果、既得権益を失った一部の過激な局員たちが地下に潜り、新薬開発の象徴とも言える太郎を逆恨みして狙っているという噂は聞いていた。
「見つけたぞ、忌々しい元ゾンビめ……! お前さえいなければ、私たちの完璧なユートピアは壊れなかったんだ!」
リーダー格の男が、憎悪を剥き出しにして太郎を指差す。
「太郎危ない!」
俺が物陰から飛び出そうとした、その瞬間だった。
「——春斗様の親友に、指一本触れさせるかァッ!」
影山が反射的に太郎の前に飛び出した。彼女のSPとしての防衛本能が、危機を前にして一瞬だけ蘇ったのだ。
しかし。
「……っ!」
鉄パイプを振り上げた女たちを前に、影山の足がピタリと止まった。
長らく燃え尽き症候群に陥り、日々の鍛錬を怠っていた彼女の体は、全盛期のキレを完全に失っていた。さらに、今は非番のお使い中であり、いつものような防刃スーツも特殊警棒も持っていない完全な丸腰だ。
「……あ」
振り下ろされる凶器を前に、影山の足がすくむ。
かつては俺を守るためにどんな凶刃にも躊躇なく飛び込んでいた彼女の瞳に、初めて「恐怖」の色が浮かんだ。
「目的を失った人生が……これほどまでに無力とは……」
絶望的な声が、影山の唇から漏れる。
彼女がギュッと目を閉じた、まさにその時だった。
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ドゴォォォンッ!!
鈍い衝撃音が路地裏に響き渡った。
しかし、影山の体に痛みは走らなかった。恐る恐る彼女が目を開けると、そこには信じられない光景が広がっていた。
「……え?」
影山の目の前に立ち塞がり、振り下ろされた鉄パイプをその身を挺して受け止めていたのは、他でもない太郎だった。
「た、太郎さん……!?」
「ぐっ……!」
太郎は、農業特化型プログラム時代に培われた「圧倒的な身体スペック」を完全に解放していた。炎天下での長時間労働や重い農機具を扱うために最適化されたその肉体は、人間のそれとは一線を画す頑丈さと瞬発力を秘めている。猛スピードで影山の前に割り込み、彼女を庇って敵の攻撃を受け止めたのだ。
「なんだこの力は……っ! バケモノめ!」
過激派の女が怯んだ隙を突き、太郎は力任せに鉄パイプを弾き飛ばした。そして、鋭い眼光で女たちを睨みつける。
「彼女に……手を出すなッ!」
その迫力と、元ゾンビの底知れぬ身体能力に圧倒され、過激派の女たちは「ひぃっ!」「お、覚えてろよ!」と捨てゼリフを吐きながら、蜘蛛の子を散らすように逃げ出していった。
+++
路地裏に、静寂が戻る。
「た、太郎さん……! 血が……!」
影山が弾かれたように太郎に駆け寄る。太郎の腕からは、鉄パイプをモロに受けたせいか、赤い血がツツーッと流れ落ちていた。
「大丈夫……かすり傷だよ」
太郎は痛みを堪えるように小さく笑うと、地面にへたり込んでいる影山に向き直った。
「どうして……どうして私を庇ったのですか! 私は春斗様のSPであり、本来なら私があなたを……」
影山は混乱し、震える声で叫んだ。
「それに、私はもう……体が動かなくて、ただの足手まといで……っ」
彼女の目から、ポロポロと涙がこぼれ落ちる。自分がもう「完璧な盾」ではないという現実を突きつけられ、彼女の心は完全に折れかけていた。
だが、太郎は傷を負った腕のまま、影山に向かって真っ直ぐに黒い瞳を向けた。
「影山さん……あなたは今まで、ずっと春斗の盾として生きてきた。自分の身を削って、ボロボロになるまで彼を守り抜いてくれた」
太郎の声は、どこまでも優しく、そして力強かった。
「でも、これからは……僕があなたの盾になります」
「え……?」
「もう、無理して誰かの『肉壁』になんてならなくていい。常に気を張って、誰かのために傷つく必要なんてないんだ」
太郎は、彼女の震える肩をそっと包み込むように手を置いた。
「これからは、ただの『女の子』でいてほしいんです。僕が、あなたを危険から全部守るから」
その魂からの告白に、影山……いや、少女は大きく目を見開いた。
一〇〇パーセントの忠誠と、自分を犠牲にすることだけを叩き込まれてきた彼女の人生。誰かを守るための「壁」としてしか存在意義を見出せなかった彼女に、初めて「守られる」という温もりがもたらされた瞬間だった。
「……あぁ……っ、うぅ……っ」
屈強なSP隊長だった妙子の目から、大粒の涙がとめどなく溢れ出す。それは、己の不甲斐なさを嘆く涙ではなく、長年張り詰めていた心の糸が、ようやく解きほぐされた安堵の涙だった。
彼女は、まるで子供のように声を上げて泣きながら、太郎の広い胸へと飛び込んだ。太郎は少し照れくさそうに、しかししっかりと、彼女の背中を抱きしめ返した。
「……やった。やったな、太郎」
物陰からその光景を見守っていた俺は、安堵の息を吐き出してガッツポーズを作った。
隣で香澄さんも、「はい……っ! 最高の、キューピッド大成功です……!」と、俺のシャツの袖で涙を拭いながら満面の笑みを浮かべていた。
不器用な親友の初恋は、文字通り身を挺した覚悟によって、彼女の凍りついた心を溶かし、見事に想いを通じ合わせたのだった。




