第40話 謎の胸の痛み
太郎は少し言いよどんだ後、胸のあたりを強く押さえて、深刻な声で言った。
「春斗……僕、もしかしたら、未知のウイルスに再感染したかもしれないんだ」
「……はい?」
「胸の奥が、ギュッと痛くなるんだ。息苦しくて、心臓の鼓動が変に早くなる。豊美さんに診てもらっても、身体的な異常は見つからなかった。でも、明らかに症状は進行している」
俺はギョッとした。
一〇〇年前のパンデミックを引き起こしたウイルスは克服されたはずだが、もし太郎の体内でそれが変異していたとしたら、とんでもない事態だ。
「おいおい、冗談だろ!? 胸が痛いって、いつからそんな症状が……」
「最近なんだ。特定の条件下で、その症状がひどくなることがわかった」
「特定の条件って?」
太郎は真面目な顔のまま、言葉を紡いだ。
「影山さん……影山妙子さんの、悲しそうな顔を見た時だよ」
「…………え?」
「彼女が廊下の隅でため息をついているのを見るたびに、胸が苦しくなる。放っておけない気持ちになるんだ。どうにかして彼女を笑顔にしたいと、プログラムにないはずの思考が脳内を支配する。……春斗、これは何の病気なんだ?」
俺は、手に持っていたトマトを落としそうになった。
太郎は至極真面目に、自分の命に関わる病気だと思い込んでいる。
だが、その症状の羅列を聞いて、俺の頭の中に浮かんだ答えは一つしかなかった。
「……太郎。お前、それ」
俺が口を開きかけた時、背後の鉄扉がギイッと開いた。
「春斗さん、お洗濯物干しに来ました……あれ? 太郎さんも一緒だったんですね」
カゴを抱えた香澄さんが、キョトンとした顔でこちらを見ている。
「あ、香澄さん。ちょうどいいところに来た。太郎が深刻な病気にかかったみたいなんだ」
俺が太郎の症状……『影山妙子の悲しそうな顔を見るたびに胸が苦しくなり、彼女を笑顔にしたいと思う』という内容を説明すると、香澄さんの目がこれ以上ないほど見開かれた。
彼女は持っていた洗濯カゴをドンッと地面に置き、両手で口元を覆った。
「た、太郎さん……! それ、病気じゃありません!」
「え? 病気じゃない……?」
太郎が不思議そうに首を傾げる。香澄さんは、まるで自分のことのように頬を赤く染め、興奮気味に身を乗り出した。
「恋です! 太郎さんは、影山隊長に恋をしているんです!」
「こ、い……?」
「そうです! 胸が苦しくなるのも、放っておけないと思うのも、全部、誰かを特別に想うからこその症状なんですよ!」
元・データ至上主義のエリートエージェントが、今は完全に恋愛ドラマの視聴者のようなテンションになっている。
太郎は、香澄さんの言葉を反芻するように、じっと自分の胸に手を当てていた。
「恋……。これが、人間が持つ感情の一つ……。僕が、彼女に……」
「そうだよ、太郎。お前は人間に戻って、普通の男としての感情を手に入れたんだ。それが恋ってやつだよ」
俺が肩を叩くと、太郎の黒い瞳が、驚きと、そして微かな戸惑いに揺れた。
「でも……影山さんは、ずっと春斗のSPとして生きてきた人だ。彼女の心の中には、春斗を守るという使命しかない。僕なんかが、彼女の何を変えられるっていうんだ……?」
太郎が珍しく弱音を吐く。確かに、あの影山の重すぎる愛のベクトルを別の方向に向けるのは、並大抵のことではないだろう。
「何言ってるんですか、太郎さん!」
香澄さんが、ビシッと指を突きつけた。
「影山隊長は今、春斗さんを守るという目標を失って、アイデンティティが崩壊している状態です。そんな時だからこそ、太郎さんのような真っ直ぐな優しさが必要なんです!」
「香澄さんの言う通りだ。太郎、お前は俺たちの親友であり、この狂ったシステムを終わらせてくれた恩人でもある。お前の初恋、俺たちが全力で応援するからな」
俺が力強く宣言すると、香澄さんも「はい!」と大きく頷いた。
「元マリッジ局エージェントとしての私の手腕、今こそ発揮する時です! 私の完璧なデータとサポートで、必ず二人をくっつけてみせます! 名付けて『ポンコツ夫婦のキューピッド大作戦』です!」
「ポンコツって自分で言っちゃうのかよ」
「あ……春斗さんのせいでうつっちゃいました……」
顔を赤らめる香澄さんを見て、俺は思わず笑い声を上げた。太郎も、釣られたようにふっと表情を緩める。
「ありがとう、春斗、香澄さん。……僕、人間の感情のことはまだよくわからないけど、彼女を笑顔にしたいっていう気持ちに、嘘はつきたくないんだ」
こうして、燃え尽きた肉壁SPと、心を取り戻したばかりの元農業ゾンビという、前途多難すぎる恋の物語が、俺と香澄さんのお節介によって幕を開けることになったのだ。




