第37話 長官との対峙
『一〇〇年間、僕たちを縛り付けてきたウイルスは、すでに克服されました! ゾンビをノーマル男子に戻す新薬は、すでに完成しているんです!』
競技場の動揺は、もはや抑えきれない悲鳴とどよめきに変わっていた。
保安局の隊員たちが血相を変えてグラウンドになだれ込もうとするが、あまりの出来事に足並みが揃わず、また、何万というゾンビの壁に阻まれて太郎の元へたどり着けない。
『ですが、この国はその事実を隠蔽しようとしています!』
太郎の黒い瞳から、大粒の涙が溢れ出した。
『新薬を開発し、僕の心を取り戻してくれたのは、僕の本当の母親であるゾンビ研究者、天海豊美です! 彼女は今、真実をもみ消そうとする国家によって不当に拘束されています! どうか、彼女を助けてください! 僕たちを、機械ではなく、人間として認めて、感情を取り戻させてください!』
その叫びは、カメラを通して、電波に乗って、国境を越え、全世界の何十億という人々の心に直接突き刺さった。
一〇〇年続いた絶望のウイルスが克服されたという希望。そして、それを隠蔽しようとする国家への疑念。
氷室長官が絶対の自信を持っていた「完璧なデータ」と「嘘のユートピア」が、一人の青年の、たった数分間の勇気ある告発によって、音を立てて崩れ去っていく。
「やった……やったぞ、太郎!」
俺は観覧席の柵から身を乗り出し、拳を高く突き上げた。
隣で香澄さんも、両手で口元を覆いながら、ポロポロと涙を流してグラウンドの親友を見つめている。
「これで……もう誰も、この真実をもみ消すことはできません……っ!」
香澄さんの言葉通りだった。
生放送による全世界への暴露。もはや世論という名の巨大な濁流は、どんな強大な国家権力であろうとも止めることはできない。
俺たちの狂ったユートピアの終わりの始まりが、今、全世界の目の前で高らかに宣言されたのだった。
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太郎による全世界への生中継での告白。
その影響は、俺たちの想像を遥かに超える凄まじいものだった。
無感情なインフラとして扱われていたゾンビが、実は人間に戻れるという事実。そして、その新薬の存在を国家がもみ消そうとし、開発者を不当に拘束しているという真実。
瞬く間に情報はSNSを通じて世界中を駆け巡り、国家の隠蔽工作に対する怒りの声が爆発した。マスコミは連日この問題をトップで報じ、街中にはゾンビ解放と豊美さんの釈放を求めるデモ隊が溢れ返った。
もはや、どんな強大な国家権力であろうと、この巨大な世論の濁流を止めることは不可能だった。
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数日後。
俺と香澄さんは、マリッジ局の本部へと足を踏み入れていた。
建物の外はデモ隊と報道陣で完全に包囲されており、怒号が飛び交っている。かつては絶対的な権力を誇り、俺たちを震え上がらせていたこの冷徹な要塞も、今はすっかり機能不全に陥っていた。
世論の猛烈な圧力に屈した国は、ついに隠蔽を認め、豊美さんの解放を決定したのだ。俺たちは彼女を迎えに来たのである。
「……まさか、この大組織がこんなにあっけなく崩れるなんて」
香澄さんは、静まり返った無機質な廊下を歩きながら、信じられないというように呟いた。
「俺たちの親友と、世界中の人たちの想いが勝ったんだよ」
俺が彼女の手を握りしめると、香澄さんは力強く頷き返してくれた。
豊美さんが拘束されているという最上階の特別面会室にたどり着いた、まさにその時だった。
「……古巣に泥を塗るなんて、恩をあだで返すとはこの事ね」
氷のように冷たい声が、廊下に響き渡った。
振り返ると、そこにはマリッジ局長官、氷室登紀子が立っていた。
シワ一つない純白のスリーピーススーツを身に纏ってはいるが、その顔にはいつもの余裕はなく、忌々しげに俺たちを睨みつけている。彼女の背後には、数人の保安局員が付き従っていた。
「氷室長官……」
香澄さんが身構える。
氷室長官はカツカツとヒールを鳴らして歩み寄り、冷笑を浮かべた。
「あなたたちの軽挙妄動が、この美しいユートピアにどれほどの亀裂を入れたか、理解しているのですか? 九九パーセントの無償の労働力が失われれば、社会保障は破綻し、人類は再び衰退と混沌の歴史を繰り返すことになるのですよ」
「……」
「感情という不確定要素は、社会を維持するためには不要なバグです。私はそれを修正し、最も効率的な平和を守ろうとしただけ。それを、たかが一個人の感傷で台無しにするとは……愚かとしか言いようがありません」
彼女の言葉は、最後まで徹底した「データ至上主義」だった。個人の尊厳も、家族の絆も、彼女の計算式には一ミリも組み込まれていない。
俺は、自然と前に出ていた。
「バグで結構だ。俺たちは、あんたの都合よく動くプログラムじゃない」
「一パーセントの希少種の分際で、何を……」
「たしかに、システムが崩れれば混乱するかもしれない。でもな、感情を押し殺して、誰かの犠牲の上に成り立つ平和なんて、本物のユートピアじゃないんだよ!」
俺の言葉に続くように、香澄さんが真っ直ぐに長官を指差した。
「長官。あなたは間違っています!」
かつては上司の威圧に怯えていたポンコツエージェントの声は、今は少しの震えもなく、凛と響いていた。
「データで人を縛り付け、人権を無視してまでシステムを維持する……そんな冷酷なやり方が、人間の幸せなはずがありません! 私たちは機械じゃない。怒って、泣いて、誰かを愛する人間なんです!」
「……小娘が、私に説教をする気ですか」
氷室長官の顔が、怒りで歪んだ。
「取り押さえなさい。こいつらは国家反逆の首謀者です!」
彼女が保安局員に命令を下した瞬間だった。
「——そこまでだ、氷室登紀子」
面会室の奥から、別の男の声が響いた。




