第33話 初めてのキス
触れた瞬間、全身に電流が走ったような衝撃が駆け抜ける。
初めて触れる、唇からの体温。
お互いに力加減も、角度もわからない。少しだけ強く押し付けすぎてしまったその感触は、ひどく不器用で、ぎこちなかった。けれど、そこには磨き抜かれたテクニックなんかよりもずっと雄弁な、剥き出しの愛がこもっていた。
一度重ねただけでは、全然足りなかった。
俺は一度顔を離しかけ、けれど溢れ出す愛おしさに耐えかねて、今度は探るように、確かめるように、もう一度深く唇を重ねた。
唇から伝わる熱が、俺の中にあった孤独を、香澄さんが抱えてきた「一〇〇分の一」のトラウマを、溶かすように包み込んでいく。それは、一%の希少種としてでも、国家のインフラとしてでもない、ただの男と女としての、初めての熱だった。
俺がゆっくりと顔を離すと、香澄さんは夢から覚めたような顔で、濡れた瞳をぱちくりとさせた。彼女の唇は、少しだけ赤く腫れ、熱を帯びて震えている。
「……香澄さん」
「……春斗、さん」
名前を呼び合う声は、どちらも熱っぽく掠れていた。
二人の間に流れる、密やかで濃密な沈黙。
それを引き裂くように、一瞬の静寂の後、チャペル中に割れんばかりの拍手の嵐が巻き起こった。
「うおおおおおっ! 春斗様ぁぁぁっ! よくぞ、よくぞ成し遂げられましたぁぁぁっ!」
最前列で、影山隊長が俺の写真がプリントされたスーツの裏地で顔を覆い、滝のような涙を流しながら絶叫している。その声でようやく現実に引き戻された俺たちは、弾かれたように距離を取り、お互いに顔を真っ赤にして明後日の方向を向いたのだった。
「うぅぅ……っ! 春斗様があんな泥棒……いえ、あんな美しい花嫁と結ばれるなんて……! この影山、嬉しさと悲しさで肉壁の役割を果たせそうにありません……っ!」
「影山、泣くのはいいけどその裏地で顔を拭くのはやめろ!」
俺が苦笑しながらツッコミを入れると、会場は温かい笑い声に包まれた。
少しだけ緊張が解けた俺は、隣で照れくさそうに笑っている香澄さんの耳元で、そっと囁いた。
「これからは俺の専属担当官として、一生ゲームに付き合ってよ」
「えっ……? も、もう! こんな時までゲームの話ですか!?」
香澄さんは頬を膨らませて抗議したが、すぐに悪戯っぽく笑い返してきた。
「はい! 唯一の夫人として、春斗さんの健康とゲーム時間を徹底的に管理してさしあげますからね! 覚悟しておいてください!」
俺たちらしい、不器用で素直じゃない表現。
それがおかしくて、俺たちは顔を見合わせて吹き出した。周囲の祝福の拍手は、いつまでも鳴り止まなかった。
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盛大な披露宴が一段落し、俺と香澄さんは喧騒から逃れるように、チャペルの外にある屋上菜園のバルコニーへと抜け出していた。
夜風が心地よく、眼下には港区の美しい夜景が広がっている。
「ふぅ……緊張しましたね。でも、ご家族の皆さんがあんなに温かく迎えてくれるなんて、夢みたいです」
香澄さんは、ドレスの裾を少し持ち上げながら、手すりにもたれかかった。
「色々とヤバい連中だけど、一度身内だと認めたらとことん面倒見がいいからね。これからは、香澄さんもあの魔境の住人だよ」
「ふふっ、望むところです」
二人で肩を寄せ合い、星空を見上げていると、背後から穏やかな足音が近づいてきた。
「二人とも、抜け出しちゃってよかったの?」
振り返ると、そこにはパリッとした白いシャツに身を包んだ、親友の姿があった。
豊美さんの開発した新薬によって覚醒し、完全に意思疎通ができるノーマル男子となった太郎だ。
「太郎! 今日は祝ってくれてありがとう」
「もちろん。親友の晴れ舞台だからね」
太郎は、いままでのように無表情で機械的に近づいてくるのではなく、人間らしい温かい笑みを浮かべて歩み寄ってきた。彼の黒い瞳には、間違いなく俺たちへの祝福の光が宿っている。
そして彼は、背中に隠していた皿をスッと差し出した。
「ほら、お祝い。これしかないけど」
皿の上に乗っていたのは、屋上の畑で今朝収穫されたばかりの、カットされた真っ赤なスイカと艶やかなメロンだった。
ゾンビだった頃から、俺が落ち込んでいる時や疲れている時に、彼がいつも無言で差し出してくれていたものより豪華だ。
「ははっ、お前らしいプレゼントだな。ありがとう、太郎」
俺は笑ってスイカを手に取り、香澄さんにもメロンを手渡した。
「ありがとうございます、太郎さん。とっても美味しそうです」
香澄さんが微笑みかけると、太郎は少し照れたように首の後ろを掻いた。
「香澄さん、本当に綺麗だね。……春斗、よかったな」
太郎は、改まった様子で俺の顔を真っ直ぐに見つめた。
「君を『一パーセントの希少種』じゃなく、『春斗』として見てくれる人を、ちゃんと見つけられたね」
その言葉は、俺の胸の奥に深く突き刺さった。
かつて俺がこの屋上で、孤独に苛まれて太郎にこぼした愚痴。
『俺を一パーセントの希少種じゃなく、春斗として見てくれるのはお前だけだ』
ゾンビだった彼は、その言葉をしっかりと記憶し、心の中で受け止めてくれていたのだ。
「……ああ。見つけたよ」
俺は、隣で俺の手をギュッと握ってくれている香澄さんの顔を見つめた。
「こいつは、俺が何パーセントだろうと関係なく、俺のために怒って、泣いて、守ってくれる、最高のヒーローだからな」
「も、もう……春斗さんったら、太郎さんの前で恥ずかしいです……っ」
香澄さんは顔を真っ赤にして俯いたが、その手は俺の手を離そうとはしなかった。
「おめでとう、春斗。香澄さん。心から祝福するよ」
太郎の温かい笑顔と、その口から紡がれた「おめでとう」という人間としての言葉。
俺にとって、それはどんな豪華な贈り物よりも価値のある、最高の祝福だった。
「ありがとう、太郎。お前も、人間に戻れて本当によかった」
俺は、親友と固い握手を交わした。
その手は温かく、力強かった。
夜空には満天の星が輝き、俺たちの門出を祝福しているかのようだった。
愛するニートの聖域と、ポンコツだったけど今は世界一可愛い俺の妻。そして、奇跡によって心を取り戻した最高の親友。
俺は今、間違いなくこの狂った世界で一番の幸せ者だ。
この幸せな時間が永遠に続くのだと、俺は信じて疑わなかった。
しかし、俺たちが手にした「奇跡の新薬」の存在が、やがて国家を揺るがす巨大な嵐を呼び寄せることになるとは、この時の俺たちはまだ、知る由もなかったのだ。




