第32話 結婚式
抜けるような青空の下、百花繚乱閣はかつてないほどの熱気と祝祭ムードに包まれていた。
今日は俺、天海春斗と、柊香澄さんの結婚式当日だ。
「ちょっと、そこの裾をもっと綺麗に広げなさい! 第一夫人の晴れ姿が少しでも歪んでいたら、天海家の恥よ!」
豪華絢爛な控室では、母である麗子の鋭い声が響き渡っていた。彼女は扇子でビシバシと指示を飛ばし、専属のスタイリストたちを震え上がらせている。
当初は香澄さんとの結婚を反対していたが、俺からの真剣な説得により、可愛い我が子のためと結局は許しをもらった。
「ひゃぅっ……! お、お義母様、そんなに引っ張ったらドレスが破けちゃいます……!」
「情けない声を出すんじゃないの! これからは天海家を取り仕切る第一夫人になるんだから、もっと堂々と胸を張りなさい。素材は悪くないんだから、私が完璧な女に仕上げてあげるわ」
大きな鏡の前でガチガチに緊張しているのは、純白のウェディングドレスに身を包んだ香澄さんだ。いつもはピシッとしたタイトスーツでマリッジ局のエージェントを気取っていた彼女だが、今日はプロの手によって息を呑むほど美しくメイクアップされている。あの左頬の傷跡も、今日は彼女の誇りとして、あえて完全に隠し切るのではなく、薄化粧の下に優しく残されていた。
「お兄様のお嫁さんがこの泥棒猫だなんて、未だに納得いきませんわ! でも、どうしても結婚するというなら、せめて私が見ても恥ずかしくない姿になってもらいますからね!」
「椿、文句を言いながらもさっきからあんたが一番手際よくヘアメイク手伝ってるじゃない。素直じゃないわね」
「う、うるさいですわ、蘭お姉様! 私はただ、お兄様の隣に立つ女が不格好なのが許せないだけです!」
椿はスタンガンをヘアアイロンに持ち替え、香澄さんの髪を丁寧に巻いている。蘭は蘭で、スマートフォンを弄る手を休め、「まあ、プラチナチケットの売却益は出なかったけど、これで他派閥の女が第一夫人になる最悪の事態は防げたわけだし、投資としては悪くないわね」と、どこか満足げに笑っている。
「お姉さん、綺麗! でも、あたちの方が絶対可愛いんだからね! あたちも早くお兄様と結婚したい!」
「さくらさん、ありがとう……。ふふっ、さくらさんのウェディングドレス姿、絶対に可愛いと思いますよ」
香澄さんは、さくらの頭を優しく撫でた。
かつては俺に近付く「害虫」として香澄さんを排除しようとしていた姉妹たちだが、今はこうして、不器用ながらも彼女を天海家の「第一夫人」として受け入れ、完璧な花嫁に仕上げようと奮闘してくれている。
その光景を少し離れた場所から見ていた俺は、なんだかこそばゆいような、温かい気持ちになっていた。
「春斗、ニヤニヤしている場合じゃないぞ。お前も主役なんだから、シャキッとしろ」
「親父……。いや、まあ、色々と実感湧かなくてさ」
完璧なタキシードを着こなした親父の壮一郎が、俺の背中をポンと叩いた。彼は相変わらず優雅なカリスマの仮面を被っているが、その目はどこか安心したように細められていた。
「柊くんを選んだこと、後悔はないか?」
「当たり前だろ。俺にとっての唯一は、あいつだけだ」
俺が真っ直ぐに答えると、親父は満足そうに頷いた。
「そうか。お前が俺とは違う道を選び、本当に大切なものを見つけられたこと、誇りに思うよ」
一〇〇人の妻を娶るという義務から逃れられないこの国で、俺は香澄さんを第一夫人に選んだ。他の九九人の枠は埋めるつもりは無く、制度がいずれ崩壊すると知っている俺たちにとって、それはもう恐れるべき呪縛ではない。
「さあ、時間よ! 春斗、前に行きなさい!」
麗子の号令と共に、重厚な扉が開かれた。
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百花繚乱閣の中庭に特設された、ガラス張りのチャペル。
無数の明るい色の花で飾られたその祭壇に、俺は立っていた。
パイプオルガンの荘厳な響きと共に、扉が開く。
光の絨毯を踏みしめて歩いてくるのは、純白のドレスに身を包んだ香澄さんだ。
ベールの奥で、彼女は少しだけ照れくさそうに、けれど今までで一番幸せそうな笑顔を浮かべていた。
一歩、また一歩と近づいてくる彼女の姿を見ていると、雨の軒下で泣いていた彼女の姿や、一緒に巨大なパフェをつついた記憶がフラッシュバックして、胸の奥が熱くなった。
「……すごく、綺麗だよ」
祭壇の前で彼女の手を取った瞬間、俺は思わずそうこぼしてしまった。
「えへっ……! あ、ありがとうございます……春斗さんも、タキシード、とっても似合ってます……」
香澄さんは、耳まで真っ赤にして俯いた。エージェントとしての威厳はどこへやら、完全に恋する乙女の顔だ。
神父の前に立ち、厳かな誓いの言葉が交わされる。
一〇〇年前に始まったパンデミック以降、この国での結婚式は「国家インフラの維持と繁栄」を誓う無機質なものになりがちだった。しかし、俺たちの誓いは違う。
「病める時も、健やかなる時も、互いを愛し、敬い、慈しむことを誓いますか?」
「はい、誓います」
俺がはっきりと答えると、香澄さんも涙ぐんだ瞳で俺を見つめ返し、しっかりと頷いた。
「……はい、誓います」
神父の穏やかな声が、静まり返ったチャペルに響く。
「では、誓いの印を」
その言葉が合図だった。俺の心臓は、耳元まで届きそうなほど激しく、不規則なビートを刻み始める。隣に立つ香澄さんの肩が、小刻みに震えているのが視界の端に見えた。
俺は、少しだけ震える指先をそっと伸ばし、薄いレースのベールに触れた。それをゆっくりと持ち上げると、あらわになった彼女の顔が、陽光に照らされて白く輝いた。潤んだ瞳が俺を真っ直ぐに捉え、視線がぶつかる。彼女の頬は、ウェディングドレスの純白が残酷なほど際立つくらいに、熱を持った赤に染まっていた。
(……俺の、最初で最後の妻)
その事実が胸に迫り、喉の奥が熱くなる。俺は吸い込まれるように、彼女の方へとわずかに身を乗り出した。香澄さんは逃げることなく、けれどひどく緊張した様子で、静かに、ゆっくりと瞼を閉じた。
俺は顔を近づけていく。
だが、いざその瞬間が迫ると、どうすればいいのかがわからなくなる。数センチの距離で、お互いの吐息が混じり合う。鼻の先がかすかに触れ、どちらともなく「びくっ」と肩を揺らして動きを止めてしまった。
静寂の中で、二人の激しい鼓動だけが共鳴しているのがわかる。
香澄さんの震えるまつ毛。微かに開いた、桜色の唇。そこから漂う甘い香りが、俺の理性を麻痺させた。
(……もう、迷わない)
俺は覚悟を決め、そっと、けれど確かな意志を持って、自分の唇を彼女のそれに重ねた。




