第30話 プロポーズの行方
香澄さんは、俺の差し出したハンカチを見つめた。
ゆっくりと、震える手が持ち上がる。
その手がハンカチを受け取ろうとして、俺たちはこの狂った世界で、ようやく本当のスタートを切れる。そう信じて疑わなかった。
しかし。
彼女の指先は、ハンカチに触れる直前でピタリと止まり、そして、ギュッと強く握りしめられて引き戻された。
「……天海、さん」
顔を上げた香澄さんの表情は、涙でぐしゃぐしゃになりながらも、何か絶望的なものに耐えるような、悲痛なものに変わっていた。
「嬉しいです。……本当に、嬉しかった。私の傷ごと受け入れてくれて、私を一番だと言ってくれて……」
絞り出すような声には、確かな愛情が滲んでいた。けれど、彼女は首を横に振った。
「でも……ダメなんです。私は、あなたのプロポーズを、受けることはできません」
「え……? どうして?」
「私は、マリッジ局のエージェントです。私の感情だけであなたと結婚しても、西園寺さんのような完璧な環境を作ってあげることはできない……。あなたを、あの地獄の強制収容施設から法的に、完全に守り切る力が、私にはないんです」
「そんなの、俺はどうなっても……」
「私が嫌なんです!」
香澄さんは叫んだ。
「それに……」
彼女は自分の両腕を抱きしめ、ガタガタと震え出した。
「私は第一夫人になれても、結局、春斗さんは法律に従って、他に九九人の妻を娶らなければならない。毎日、別の女性と過ごすあなたを見ながら、私は……母と同じように、嫉妬と孤独に狂ってしまうかもしれない……っ!誰かと愛を分け合うなんて、一〇〇分の一の愛だなんて……やっぱり私には、耐えられないんです……!」
トラウマが、彼女の心を深く縛り付けていた。一夫百妻制という絶対的な法律がある限り、俺がどれだけ「君が一番だ」と叫んでも、システム上は一〇〇人のうちの一人に過ぎない。その残酷な現実が、彼女の歩みを止めてしまったのだ。
「香澄さん……」
「ごめんなさい……! せっかく私を探し出してくれたのに……本当に、ごめんなさい……っ!」
香澄さんは、差し出した俺のハンカチを受け取ることなく、背を向けて走り出した。
夕闇の中へ消えていく彼女の背中を、俺は追いかけることができなかった。一〇〇人の妻を強要するこの世界で、彼女を本当に幸せにできる確証が、今の俺にはなかったからだ。
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足取りは鉛のように重かった。
百花繚乱閣へ戻った俺は、誰とも顔を合わせないよう、業務用エレベーターで直接屋上へと向かった。
(……結局、こうなるしかなかったんだ)
香澄さんは俺を拒絶した。ならば、俺が取るべき道は一つしかない。
西園寺静華さんと結婚し、香澄さんのミッションを終わらせて、彼女にプラチナ・シングル権を取らせる。それが、彼女をこの狂ったシステムとトラウマから解放する、唯一の方法だ。愛のない結婚になるが、それでもいい。彼女が自由になれるなら。
重い鉄扉を押し開け、夜風の吹く屋上菜園へと足を踏み入れた。
「……太郎。聞いてくれよ、俺、結婚することに……」
いつものように土をいじっている親友に報告しようと声をかけた、その時だった。
「春斗くん、来ていたのね」
菜園の奥から、白衣姿の豊美さんが歩み寄ってきた。彼女の表情は、いつもの穏やかなものとは違い、異様なほどの熱気と興奮に満ちていた。その手には、空になった注射器が握られている。
「豊美さん……? どうかしたんですか?」
「できたのよ、春斗くん。ついに……新薬が完成したの」
豊美さんの声が震えていた。
「新薬って、まさか……」
「ええ。たった今、TA60(太郎)に投与したわ」
俺は息を呑み、急いで太郎の方へと駆け寄った。
太郎は、作業の手を止め、立ち尽くしていた。いつもと変わらない真っ白なツナギ姿。しかし、彼を覗き込んだ俺は、その決定的な違いに気づいて言葉を失った。
無機質で焦点の合っていなかった、鮮やかな緑色の虹彩。
それが今、深みのある、人間と同じ黒色へと変化していたのだ。
「太郎……?」
恐る恐る呼びかけると、太郎のまばたきがゆっくりと繰り返された。
そして、これまでピタリと閉ざされていた口元が、微かに開いた。
「……は、る、と……」
掠れた、ひどく不器用な発声。しかし、それはゾンビのうわ言ではなく、間違いなく彼自身の声帯から発せられた、意志を持った言葉だった。
「嘘だろ……。太郎、言葉が……」
「……うん。なんだか、ずっと……フワフワした、おぼろげな夢の中にいたみたいだ」
太郎は、自分の両手を不思議そうに見つめながら、少しずつ滑らかに言葉を紡ぎ始めた。
「周りの景色は白黒で、ただ体が勝手に動いているような感覚だった。でも……君の声だけは、ずっと聞こえていたよ。春斗」
「俺の声が……?」
「ああ。君は僕をゾンビとしてじゃなく、ずっと『友達』として扱ってくれた。愚痴をこぼしたり、一緒に空を見たり……夢の中でも、それだけははっきりと分かっていたんだ」
太郎の黒い瞳が、しっかりと俺を捉えた。そこにはもう、感情のない生体ロボットの姿はなかった。完全に意思の通じる、ただの一人の「ノーマル男子」が立っていた。
「太郎……! お前、本当に……! 俺、俺、本当にうれしいよ」
俺はたまらず、太郎の肩を強く掴んだ。体温がある、意思もある、確かに生きた人間の反応がそこにあった。
「ああ。これからは、ちゃんと返事ができるよ。親友としてね」
太郎は、生まれて初めて、微かにだが明確な笑みを浮かべた。
「太郎……っ! ああ、よかった……本当によかった……!」
俺たちの横で、豊美さんが耐えきれずに泣き崩れ、太郎を力強く抱きしめた。
「お母さん……あなたの愛は伝わりました。ありがとう」
太郎が不器用な手つきで豊美さんの背中を撫でる。その光景は、一〇〇年の歴史の中で決して起こり得なかった、奇跡の瞬間だった。




