第28話 逃走劇
「……香澄さん、本当にこれでいいの?」
俺の静かな、けれど真っ直ぐな問いかけに、香澄さんはハッと息を呑んだ。
彼女の手は微かに震え、握りしめたタブレットがカタカタと音を立てている。無理に作っていた笑顔が崩れ、視線が激しく泳いでいた。
「えっ……? は、春斗さん……?」
「西園寺さんは、データ上は最高かもしれない。このままサインすれば、俺のニート生活は完璧に守られるし、君の仕事も評価される」
俺はテーブルの上に置いた万年筆から手を離し、香澄さんの顔を見返した。
「でも、君は今、全然笑ってないじゃないか」
香澄さんの顔が歪んだ。エージェントとしての仮面が剥がれ落ちそうになるのを、必死に堪えているのが痛いほどに伝わってくる。
「ちょっと、春斗! 何を血迷っているの!」
その静寂を破ったのは、母・麗子のヒステリックな声だった。
「完璧な本命が目の前にいるのよ!さっさとその書類にサインしなさい!天海家の権力と格を落とす気!?」
「お兄様! あの役人の顔色など窺う必要はありませんわ! さあ、サインを!」
椿が叫び、蘭もスマホを叩きながら忌々しげに舌打ちをしている。
西園寺さんは静かに座ったままだが、リビングの空気は一瞬にして沸騰したように騒がしくなった。
「春斗様!いかがなさいましたか!?」
騒ぎを聞きつけたのか、重厚な扉の向こうから影山隊長率いるSP部隊が雪崩れ込んでくる。
「香澄さん」
俺は、怒号が飛び交う中、香澄さんに向かって手を差し出した。
「え……?」
「俺は、自分の心に嘘はつけない。一〇〇人の誰かじゃなくて……俺は」
俺は彼女の細い手首をガシッと掴んだ。
「行くぞ!」
「きゃっ!?」
俺は香澄さんの手を引き、驚愕して固まる家族たちとSPの隙間をすり抜け、リビングから駆け出した。
「お、お待ちしなさい春斗!逃げるなんて許しませんよ!」
母の悲鳴のような声が背中に突き刺さる。
「春斗様が逃走!第一級警報!直ちに確保せよ、ただし傷ひとつ付けるな!」
影山隊長の号令が響き渡り、ドタドタと重い足音が迫ってくる。
「天海さん!?ちょ、ちょっと、どこに行くんですか!?」
香澄さんはタイトスーツにハイヒールという走るのに全く適さない格好で躓きそうになりながらも、俺の手を必死に握り返して走ってきた。
「いいから、黙ってついてきて!」
俺たちは百花繚乱閣の複雑な廊下を全力で駆け抜け、親父の地下シェルターへ続く業務用の地下エレベーターへと飛び込んだ。SPたちをなんとか撒き、裏口から外へと脱出する。
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外の空気は冷たく澄んでいた。
保護区の雑踏に紛れ込みながら、俺たちはただひたすらに走った。息が切れ、足が重くなっても、繋いだ手だけは絶対に離さなかった。
どれくらい走っただろうか。俺たちは、街の外れにある静かな場所まで来ていた。
そこは、かつて大規模な道路工事が行われていた場所だった。今は綺麗に整備され、緑豊かな公園に姿を変えている。だが、道の作りや少し離れた場所にある古い擁壁は、俺の記憶の底にある景色と完全に一致していた。
「天海、さん……っ、はぁ、はぁ……」
香澄さんが膝に手をつき、荒い息を吐きながら俺を見上げた。乱れた黒髪が顔にかかり、タイトスーツの肩が激しく上下している。
「どうして……逃げたりしたんですか……! 西園寺さんは、データ上も、実生活でも……完璧だったじゃないですか!」
香澄さんの声は震えていた。怒っているというより、泣き出しそうな声だった。
「私が、あなたの担当官として……完璧な相手を見つけたんです!これで、ミッション・クリアだったのに……っ!なのに、どうして……!」
彼女の頬には、いつの間にか涙が伝っていた。左頬の、化粧で隠された古傷のあたりを雫が濡らしていく。
俺は荒れた呼吸を整えながら、ゆっくりと彼女に向き直った。
「妥協しようとしてたのは、俺の方だ」
「え……?」
「香澄さんにプラチナ・シングル権を取らせて、自由にしてやりたいって本気で思った。俺が西園寺さんと結婚すれば、君のあの悲しいトラウマは消えて、一人で自由に生きられる。だから、自分の気持ちを押し殺してサインしようとした」
俺は一歩、彼女に近づいた。
「でも、君の泣きそうな顔を見たら、そんなの間違ってるって気づいたんだ。君が連れてくるヤバい女たちから俺を守って必死に戦う君を見てたら、俺は……君に自由になって遠くへ行ってほしいんじゃない。俺のそばにいてほしいんだってわかった」
香澄さんは目を見開き、言葉を失ったように口をパクパクとさせた。
「な……なにを、言ってるんですか。私はエージェントで、あなたは対象者で……それに、私にはこんな……傷だって……」
彼女は無意識に、自分の左頬を隠そうと手を伸ばした。
俺はその手をそっと掴み、優しく下ろさせた。
「その傷の理由、あの雨の日に聞いたよね」
「……はい」
「工事現場で、ゾンビのつるはしから一人の少女を助けた代償だって。その少女のせいで、君の人生は狂わされて、たくさん理不尽な思いをしてきたって」
公園の木々が風に揺れ、ザワザワと葉音を立てた。
九年前のあの日。俺は、姉のイタズラで女性用のドレスを着せられ、息の詰まる家から逃げ出したくて、SPの目を盗んで外へ出た。そして、この工事現場に迷い込んだ。
俺は、香澄さんの揺れる瞳を真っ直ぐに見つめ、あの時からずっと胸に秘めていた真実を、静かに、はっきりと口にした。
「あの時、君が助けた少女っていうのは、俺だったんだ」
香澄さんの時が、ピタリと止まった。




