表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
20/44

第20話 春斗の決意

「……それに、私にはもう一つ、どうしても叶えたい目的があるんです」


 雨音に掻き消されないよう、少しだけ声を張って香澄かすみさんは続けた。

 その瞳には、過去の悲しみだけでなく、強い意思のようなものが宿っていた。


「私の母は、その酷い父の『第一〇〇夫人』でした」

「……え?」

「この国では、第一夫人になれば権力を握れますが、末端の妻なんてただの数合わせです。母はいつも他の夫人たちから見下され、夫からは名前すらまともに呼ばれず、本当に惨めな思いをして生きてきました」


 それは、彼女の心に深く刻み込まれた「一〇〇分の一のトラウマ」だった。

 百花繚乱閣ひゃっかりょうらんかくで親父の妻たちの権力闘争を毎日見ている俺には、その末端にいる女性がどれほど冷遇されるか、容易に想像がついた。


「母の涙を見て育った私は、絶対に結婚なんてしたくないと心に誓いました。誰かの数分の一になって、愛されずに飼い殺しにされるなんて絶対に嫌なんです」


 香澄さんは、手元のタブレットを胸に強く抱きしめた。


「だから私は、マリッジ局に入りました。どんな難攻不落のノーマル男子でも一〇〇人の妻をめとらせる『S級ミッション』をクリアすれば、高額な独身税を一生免除される特権……『プラチナ・シングル権』がもらえるからです。私は完璧な仕事をして、一人で自由に生き抜くって決めているんです」


 彼女の告白を聞きながら、俺の心の中には、激しい嵐が吹き荒れていた。


(間違いない。あの時の少女は……俺だ)


 姉のイタズラでフリフリのドレスを着せられ、息の詰まる家から逃げ出したくて、SPの目を盗んで工事現場に迷い込んだあの日。

 俺を助けたせいで顔に深い傷を負い、その傷のせいで理不尽な苦労を強いられてきた女の子。それが、目の前で強がっているポンコツエージェントの香澄さんだったのだ。


 彼女の人生を狂わせたのは、他でもない、俺だ。


 俺の視線が、ただの「手のかかる担当官」から、「俺を助けたせいで傷を負った恩人」へと、明確に書き換えられていくのがわかった。

 今すぐ「あの時の少女は俺だ」と名乗り出て、土下座して謝りたい衝動に駆られた。しかし、彼女がこれほどまでにノーマル男子という存在や結婚制度に絶望している今、元凶が俺だと知れば、彼女はさらに深く傷つき、俺の前から姿を消してしまうかもしれない。


(今はまだ、言えない。……でも、今度は俺が、彼女に恩返しをする番だ)


 俺は固く拳を握りしめ、静かに決意した。


「……変な話をしてすみません。こんな傷のある、トラウマだらけのポンコツエージェントなんて、笑っちゃいますよね」

 香澄さんは自嘲するように笑い、再び左頬の傷を隠そうとした。


「笑うわけないだろ」


 俺は、彼女の手首をそっと掴み、傷を隠す手をゆっくりと下ろさせた。

「あ……天海あまみさん……?」

 戸惑う彼女の顔を真っ直ぐに見つめ、俺は心の底からの本音を言葉に乗せた。


「かっこいいよ」

「えっ……?」

「その傷は、自分の身を呈して一人の少女の未来を守った証だ。恥じることなんて一つもない。世界で一番、誇り高い勲章だよ。自慢してもいいくらいのことを君はしたんだ」


 ドクン、と。

 香澄さんの心臓が大きく跳ねた音が、触れている手首越しに伝わってきたような気がした。

 彼女は目を見開き、信じられないものを見るように俺を見つめている。その瞳からは再び涙が溢れ出し、今度は悲しみではなく、何か温かいものが溶け出したような涙だった。


「あ……うぅ……っ」

 香澄さんは言葉にならず、ただ小さく頷いて、俺の前でボロボロと泣き崩れた。

 雨が激しく打ちつける軒下で、俺は泣きじゃくる彼女の肩を、ただ静かに抱き寄せた。冷たい雨の匂いに混じって、彼女の涙の香りが鼻をくすぐる。

 二人の間に、今まで感じたことのない、はっきりとした甘く優しい空気が流れていた。


 +++


 翌朝。

 昨日のゲリラ豪雨が嘘のように、抜けるような青空が広がっていた。


 俺は百花繚乱閣の屋上菜園で、コンクリートの縁に腰掛けながら、眼下の街並みを見下ろしていた。

「……はぁ。俺のせいで、あんなに苦労してたなんてな」

 ぽつりとこぼした独り言に答えるように、隣に立つ太郎たろうが無表情のまま、朝露に濡れた真っ赤なトマトを差し出してきた。


「サンキュ、太郎。……でも今日は、食欲より考え事のほうが忙しいや」

 俺はトマトを受け取りながら、ため息をついた。

 昨日、雨が上がった後にSPの影山かげやま隊長たちが半狂乱で俺たちを見つけ出し、香澄さんは足早に帰っていった。別れ際、彼女の顔はずっと真っ赤で、俺の目を見ようとしなかった。


「なあ、太郎。俺さ、決めたよ」


 俺は、無心で土をいじり始めた親友の背中に向かって語りかけた。

「俺、あの人に……香澄さんに、恩返しがしたい」


 太郎は振り返らないが、俺は構わず続けた。

「彼女の夢は、プラチナ・シングル権を取って、この狂った一夫百妻制いっぷひゃくさいせいのシステムから解放されることなんだ。だったら、俺がその手伝いをするしかない」


 俺が一〇〇人の妻を娶れば、彼女のS級ミッションはクリアとなる。

 今まで、自由なゲーム生活を守るために全力でお見合いを回避してきた。見知らぬ女が一〇〇人も俺に押し寄せてくるなんて、地獄以外の何物でもないと思っていた。

 だが、彼女を自由にするためなら。


「……じゃあ、適当な候補で妥協して結婚するか。愛なんてなくても、戸籍上のダミーを一〇〇人集めて、香澄さんのミッションを終わらせてやるんだ」


 そう口に出してみたものの、胸の奥が少しだけチクリと痛んだ。

 彼女が俺の担当から外れ、自由を手にして遠くへ行ってしまう。それが一番の恩返しだとわかっているのに、なぜか無性に寂しさがこみ上げてくる。


 太郎が、今度は収穫したばかりの冷やしキュウリを差し出してきた。

「……わかってるよ。腹くくるしかないよな」

 俺はキュウリを齧りながら、青空に向かって大きく息を吐き出した。


 しかし、俺はこの時、完全に甘く見ていたのだ。

 香澄さんが連れてくる候補者が、妥協してダミーの妻にできるようなレベルの人間ではないということを。

 俺の決意を嘲笑うかのように、ヤバすぎる地雷候補たちとの限界バトルは、さらに加速していくことになるのだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ