第20話 春斗の決意
「……それに、私にはもう一つ、どうしても叶えたい目的があるんです」
雨音に掻き消されないよう、少しだけ声を張って香澄さんは続けた。
その瞳には、過去の悲しみだけでなく、強い意思のようなものが宿っていた。
「私の母は、その酷い父の『第一〇〇夫人』でした」
「……え?」
「この国では、第一夫人になれば権力を握れますが、末端の妻なんてただの数合わせです。母はいつも他の夫人たちから見下され、夫からは名前すらまともに呼ばれず、本当に惨めな思いをして生きてきました」
それは、彼女の心に深く刻み込まれた「一〇〇分の一のトラウマ」だった。
百花繚乱閣で親父の妻たちの権力闘争を毎日見ている俺には、その末端にいる女性がどれほど冷遇されるか、容易に想像がついた。
「母の涙を見て育った私は、絶対に結婚なんてしたくないと心に誓いました。誰かの数分の一になって、愛されずに飼い殺しにされるなんて絶対に嫌なんです」
香澄さんは、手元のタブレットを胸に強く抱きしめた。
「だから私は、マリッジ局に入りました。どんな難攻不落のノーマル男子でも一〇〇人の妻を娶らせる『S級ミッション』をクリアすれば、高額な独身税を一生免除される特権……『プラチナ・シングル権』がもらえるからです。私は完璧な仕事をして、一人で自由に生き抜くって決めているんです」
彼女の告白を聞きながら、俺の心の中には、激しい嵐が吹き荒れていた。
(間違いない。あの時の少女は……俺だ)
姉のイタズラでフリフリのドレスを着せられ、息の詰まる家から逃げ出したくて、SPの目を盗んで工事現場に迷い込んだあの日。
俺を助けたせいで顔に深い傷を負い、その傷のせいで理不尽な苦労を強いられてきた女の子。それが、目の前で強がっているポンコツエージェントの香澄さんだったのだ。
彼女の人生を狂わせたのは、他でもない、俺だ。
俺の視線が、ただの「手のかかる担当官」から、「俺を助けたせいで傷を負った恩人」へと、明確に書き換えられていくのがわかった。
今すぐ「あの時の少女は俺だ」と名乗り出て、土下座して謝りたい衝動に駆られた。しかし、彼女がこれほどまでにノーマル男子という存在や結婚制度に絶望している今、元凶が俺だと知れば、彼女はさらに深く傷つき、俺の前から姿を消してしまうかもしれない。
(今はまだ、言えない。……でも、今度は俺が、彼女に恩返しをする番だ)
俺は固く拳を握りしめ、静かに決意した。
「……変な話をしてすみません。こんな傷のある、トラウマだらけのポンコツエージェントなんて、笑っちゃいますよね」
香澄さんは自嘲するように笑い、再び左頬の傷を隠そうとした。
「笑うわけないだろ」
俺は、彼女の手首をそっと掴み、傷を隠す手をゆっくりと下ろさせた。
「あ……天海さん……?」
戸惑う彼女の顔を真っ直ぐに見つめ、俺は心の底からの本音を言葉に乗せた。
「かっこいいよ」
「えっ……?」
「その傷は、自分の身を呈して一人の少女の未来を守った証だ。恥じることなんて一つもない。世界で一番、誇り高い勲章だよ。自慢してもいいくらいのことを君はしたんだ」
ドクン、と。
香澄さんの心臓が大きく跳ねた音が、触れている手首越しに伝わってきたような気がした。
彼女は目を見開き、信じられないものを見るように俺を見つめている。その瞳からは再び涙が溢れ出し、今度は悲しみではなく、何か温かいものが溶け出したような涙だった。
「あ……うぅ……っ」
香澄さんは言葉にならず、ただ小さく頷いて、俺の前でボロボロと泣き崩れた。
雨が激しく打ちつける軒下で、俺は泣きじゃくる彼女の肩を、ただ静かに抱き寄せた。冷たい雨の匂いに混じって、彼女の涙の香りが鼻をくすぐる。
二人の間に、今まで感じたことのない、はっきりとした甘く優しい空気が流れていた。
+++
翌朝。
昨日のゲリラ豪雨が嘘のように、抜けるような青空が広がっていた。
俺は百花繚乱閣の屋上菜園で、コンクリートの縁に腰掛けながら、眼下の街並みを見下ろしていた。
「……はぁ。俺のせいで、あんなに苦労してたなんてな」
ぽつりとこぼした独り言に答えるように、隣に立つ太郎が無表情のまま、朝露に濡れた真っ赤なトマトを差し出してきた。
「サンキュ、太郎。……でも今日は、食欲より考え事のほうが忙しいや」
俺はトマトを受け取りながら、ため息をついた。
昨日、雨が上がった後にSPの影山隊長たちが半狂乱で俺たちを見つけ出し、香澄さんは足早に帰っていった。別れ際、彼女の顔はずっと真っ赤で、俺の目を見ようとしなかった。
「なあ、太郎。俺さ、決めたよ」
俺は、無心で土をいじり始めた親友の背中に向かって語りかけた。
「俺、あの人に……香澄さんに、恩返しがしたい」
太郎は振り返らないが、俺は構わず続けた。
「彼女の夢は、プラチナ・シングル権を取って、この狂った一夫百妻制のシステムから解放されることなんだ。だったら、俺がその手伝いをするしかない」
俺が一〇〇人の妻を娶れば、彼女のS級ミッションはクリアとなる。
今まで、自由なゲーム生活を守るために全力でお見合いを回避してきた。見知らぬ女が一〇〇人も俺に押し寄せてくるなんて、地獄以外の何物でもないと思っていた。
だが、彼女を自由にするためなら。
「……じゃあ、適当な候補で妥協して結婚するか。愛なんてなくても、戸籍上のダミーを一〇〇人集めて、香澄さんのミッションを終わらせてやるんだ」
そう口に出してみたものの、胸の奥が少しだけチクリと痛んだ。
彼女が俺の担当から外れ、自由を手にして遠くへ行ってしまう。それが一番の恩返しだとわかっているのに、なぜか無性に寂しさがこみ上げてくる。
太郎が、今度は収穫したばかりの冷やしキュウリを差し出してきた。
「……わかってるよ。腹くくるしかないよな」
俺はキュウリを齧りながら、青空に向かって大きく息を吐き出した。
しかし、俺はこの時、完全に甘く見ていたのだ。
香澄さんが連れてくる候補者が、妥協してダミーの妻にできるようなレベルの人間ではないということを。
俺の決意を嘲笑うかのように、ヤバすぎる地雷候補たちとの限界バトルは、さらに加速していくことになるのだった。




