第16話 極秘研究
親父はソファから立ち上がり、シェルターの奥にある、分厚いカーテンで仕切られた一角を指し示した。
「柊くん。君が信じているデータの世界は、この国が作り上げた『偽りのユートピア』だ。だが、そのシステムそのものを根底から覆そうとしている者もいる」
カーテンが開かれると、そこには最新式のバイタルモニターや、怪しげな薬瓶が並ぶ実験デスクがあった。そこにあったのは、医師でありゾンビ研究者でもある豊美さんの署名が入った膨大な研究レポートだ。
「豊美さん……。まさか、親父が彼女のパトロンだったのか?」
「ああ。俺が『国から逃げる』という物理的な逃避を選ぼうとする一方で、豊美は『医学の力で我が子である太郎を人間に戻し、世界そのものを変える』という、より過酷な戦い方を選んでいる。実の子を手元に置くというタブーを犯し、法を捻じ曲げてまでな。俺はその母親としての執念に、一縷の望みを託しているんだ」
俺は、先日豊美さんが太郎に謎の注射を打った時のことを思い出した。あの時、確かに太郎の瞳に感情のような光が宿った。あれは、単なる見間違いではなかったのだ。
「親父……。あの、太郎なんだけど。最近、豊美さんの処置の後に少し様子がおかしいんだ。まるで、俺の言葉を理解しているような……」
「……ほう。成果が出始めているのかもな」
親父は目を細めた。その光景を、香澄さんは震える手でタブレットに記録しようとして——結局、それを止めた。
「……天海壮一郎様。私は、一夫百妻制こそが、人類が辿り着いた最も効率的な幸福の形だと教わってきました。DNAの相性で選ばれた一〇〇人に囲まれることが、最上の喜びなのだと。……でも、あなたはカリスマと呼ばれながら、なぜそこまでしてシステムを否定しようとするのですか?」
香澄さんの問いは、彼女自身の存在意義を懸けた、悲痛な叫びのようにも聞こえた。
「効率的な生存と、幸福は別物だ、柊くん。データは『個』を消し去り、『種』としての最適解しか提示しない。だが、人間は一〇〇人の一人として埋もれるために生まれてくるんじゃない。誰かにとっての、代わりのきかない『唯一の特別』になりたいと願う生き物なんだよ」
親父の言葉は、香澄さんの胸の奥に深く突き刺さったようだった。彼女は、自分の悲しい過去を思い出していたのかもしれない。
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シェルターを後にし、長い地下通路を抜けてマンションのロビーへと向かう帰り道。
香澄さんは、ずっと黙ったまま俯いていた。
「……香澄さん」
俺が声をかけると、彼女はビクッとして顔を上げた。その瞳は、先ほどまでの迷いや悲しみを必死に隠そうとするように、細かく揺れている。
「あ、はい……何でしょうか、天海さん」
「ごめんね、変な話聞かせちゃって。親父の極論だから、あんまり真に受けなくていいよ。香澄さんは香澄さんの仕事をすればいいんだから」
俺が努めて明るい声で言うと、香澄さんは自嘲気味な笑みを浮かべた。
「……仕事、ですか。私の仕事は、あなたに一〇〇人の妻を娶らせることです。でも、今の話を聞いた後で、それが本当にあなたの幸福に繋がるのか……私には、分からなくなってしまいました」
彼女の真面目すぎる性格が、今は仇となって彼女自身を苦しめている。そんな彼女を少しでも元気づけたくて、俺はわざと悪戯っぽい表情を作ってみせた。
「なんだ、エリートエージェント様が弱気だなぁ。……そんなに迷ってるならさ」
「え?」
俺は一歩踏み込み、香澄さんの耳元で、内緒話をするようなトーンで囁いた。
「香澄さん。……俺と二人で、このままどっか遠い国へ駆け落ちして、逃避行しちゃう?」
「——っ!?」
香澄さんの動きが、文字通りピタリと止まった。
数秒の静止の後、彼女の顔は首の根っこから耳の先まで、火がついたように真っ赤に染まった。
「なっ……ななな、何を、何を仰っているんですかっ! じょ、冗談でも、そんな不謹慎なこと、言わないでください!」
「あはは、ごめんごめん。顔、真っ赤だよ?」
「も、もう! 心臓に悪いです! あぁもう、何度もからかわないでくださいよぉ……!」
香澄さんは涙目で俺をポカポカと叩きながら、逃げるように足早に歩き出した。その背中は、怒っているようでもあり、同時に、今まで見たこともないほど一人の女性として動揺しているようでもあった。
「……けっこう、本気だったんだけどな」
俺は独り言を呟き、彼女の後を追った。
偽りのユートピアの裏側で動き始めた、父の想いと、豊美さんの研究。
そして、目の前を歩くポンコツ担当官との、少しずつ変わり始めた心の距離。
この狂った世界で俺が選ぶべき「唯一」の答えは、まだ見えない。けれど、彼女の赤くなった耳を見ていると、この限界バトルも、もう少しだけ続けてみてもいいような気がしていた。




