第13話 ハーブティーと太郎
高級ホテルのレストランから逃げるように撤退した俺たちは、家族の領地である下の階層を素通りし、百花繚乱閣の屋上へと直行した。お見合いが失敗に終わり、ボロボロになった俺と香澄さんが向かう先はそこしかなかったのだ。
「はぁ……はぁ……死ぬかと思いました……。エージェントとしてまだ何も成しえていないこの状況……申し訳ありません」
「俺はいいですよ、香澄さん。とりあえず、ここで一息つこう」
エレベーターを降りて屋上に出ると、そこには青々とした野菜が育つ広大な菜園が広がっている。都会の喧騒や、下層階で繰り広げられる妻たちの権力闘争から完全に切り離されたこの場所は、俺にとって自室の次に落ち着くオアシスだった。
土の匂いに深呼吸していると、畝の向こうから、真っ白なツナギを着た親友の姿が見えた。
「太郎君、ただいま」
農業特化型プログラムで動くゾンビの太郎は、相変わらず無表情のまま、俺に向けてもぎたてのオクラを差し出してきた。
「ありがとう。……ん? 豊美さんも来てたんだ」
太郎の背後から、白衣を着た女性が穏やかな笑みを浮かべて姿を現した。天海豊美さん。彼女は個性の強い家族の中で唯一と言っていいほど、穏やかで優しい女性だ。俺の母親である麗子の先輩妻にあたり、医者でありゾンビ研究者でもある。
そして何より、豊美さんは太郎君の実の母なのである。
豊美さんは我が子を愛おしむように、優しく太郎の頬を撫でた。本来、国営のゾンビ管理システムでは、情が移るのを防ぐため、実の子を親の元にリースすることは固く禁じられている。しかし、ゾンビ研究の第一人者である豊美さんには、「研究対象」という名目で特例として太郎を手元に置く許可が下りていた。
だが、彼女の本当の目的が「ただの研究」ではなく、「我が子をノーマル男子に戻すこと」であると、俺は知っている。
「おかえりなさい、春斗くん。お見合い、うまくいってる? それとも?」
「ええ、まあ……。今回も命からがらって感じです」
俺が苦笑すると、豊美さんは隣でぐったりしている香澄さんを見て、クスッと微笑んだ。
「柊さんも、お疲れ様。今、TA60(太郎)と一緒にハーブティーを淹れていたの。よかったら休んでいって」
「あ、ありがとうございます……っ」
豊美さんが差し出した温かいお茶を両手で受け取り、香澄さんは一口飲んで、ふぅっと長い息を吐いた。
「……美味しい。天海さんのご家族の中に、こんなに穏やかで優しい方がいらっしゃるなんて……」
「ふふっ。春斗くんの周りは、少し賑やかすぎるものね」
香澄さんはすっかり毒気を抜かれたようで、涙ぐみながらハーブティーを啜っている。ヤバすぎる嫁候補と、強烈な身内たちに揉まれ続けてきた彼女にとって、豊美さんの存在はまさに砂漠のオアシスだったのだろう。
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その後、俺と香澄さんは、屋上に併設された豊美さんの部屋へと案内された。
診療所兼研究室であるその部屋の壁際には、ゾンビの脳機能に関する膨大な資料が所狭しと並べられているのを目にする。
「春斗くん、少し顔色が悪いわよ。最近、ちゃんと眠れている?」
「あはは……ゲームの徹夜か、お見合いのストレスか、どっちかですね」
豊美さんは俺と太郎の定期健診を担当してくれていて、ずっと病気の治療や健康管理をしてくれている恩人だ。
「柊さんも、春斗くんの健康管理には気をつけてあげてね。彼は昔から、少し無理をしがちだから」
「は、はい! エージェントとして、対象者の体調管理は絶対の義務ですから!」
香澄さんが姿勢を正して頷く。すっかり豊美さんを信頼しきっているようだ。
「ふふ、頼もしいわね。……さあ、TA60。あなたも定期健診の時間よ」
豊美さんが手招きすると、太郎が大人しく診察台の前に立った。
俺と香澄さんがソファで休んでいる奥で、豊美さんは手慣れた様子で太郎の瞳孔を確認し、聴診器を当てる。
「うん、バイタルは正常。農業プログラムの稼働も問題ないわね」
そう言いながら、豊美さんは白衣のポケットから、見慣れない小さな注射器を取り出した。
「……豊美さん、それって?」
俺が何気なく尋ねると、豊美さんは注射器の針を太郎の首筋——国から刻印されたQRコードのすぐ横へと静かに当てた。
「ただの栄養剤よ。少し、疲れが溜まっているみたいだったから」
彼女の声は、いつも通り優しく、穏やかだった。
カチリ、と小さな音が響き、透明な液体が太郎の体内へと注ぎ込まれる。
その瞬間だった。
「…………」
無機質なマネキンのようだった太郎の指先が、かすかにピクリと動いた。
決められた命令にだけ添って動いているはずの彼が、何かを探り当てるように空を掴む。そして、鮮やかな緑色をした瞳の奥に、ほんの一瞬だけ——人間のような、感情と意志の光が宿ったように見えたのだ。
「太郎……?」
俺が身を乗り出した時には、その光はすでに消え失せ、太郎はいつもの「無」の表情に戻っていた。
「どうしたの、春斗くん?」
「あ、いや……今、太郎が……」
「大丈夫よ。TA60は今日も、とてもいい子だわ」
豊美さんは優しく太郎の頭を撫で、俺に向かって微笑みかけた。
その笑顔はどこまでも温かかった。だが、彼女が太郎に何かをしているその光景は、なぜか俺の胸の奥に小さなざわめきを残した。
一パーセントの希少種である俺と、九九パーセントのゾンビの世界。
当たり前だと思っていたこの狂ったユートピアの日常が、水面下で静かに、けれど確実に変わり始めている。
そんな予感に背筋を撫でられたことなど、隣で「豊美さんの淹れたお茶、最高です……」とくつろいでいる香澄さんは、知る由もなかった。




