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008.第3話 花の堰(3)光を見た日


 日課となった、山奥の(やしろ)への参拝に向かう途中。

 山のふもとに知らない二人組の姿を見かけて、穂高(ほたか)はふと足を止めた。


 ひとりは穂高より少し年上くらいに見える少女だ。真っすぐな黒髪を肩の上で切り揃えて、黒い衣を羽織っている。

 誰かと話し込んでいるようだが、奥にいる人物の姿は話からない。手前に立っている少女より背が低いらしく、彼女の影にすっぽりと隠れているのだ。身振り手振りが大きいようで、時折、白い袖が閃くのだけが見える。


 穂高が知らないということは、里の外の者だ。

 外の者がこの里を訪れるのは珍しい。

 近隣の里の者だろうか。あるいは遠方へ向かう途中の旅人か、山々を巡る修行の者か。

 不審に思いつつ、声をかけようとそちらへ向かいかけて──穂高はひゅっと息を呑んだ。

 奥にいる者の姿が見えたのだ。


「ミツカイ様……?」 


 半信半疑のまま呟く。


 元気良く跳ねた黄金色の髪が、陽光に照り映える。

 離れた距離からでも、その特異な色はよく目についた。


 金色の子供が、黒い衣の少女に何やら話しかける。

 話の内容までは聞き取れなかったが、身振り手振りから、山を登ろうとしているらしいことは察せられた。

 何やら話しながら山に入っていくふたりを、穂高はこっそり追いかけた。


 ふたりの歩みは速く、山に慣れていない穂高は途中で一度置いていかれたが、川伝いに登っていることは知れたので、しばらく歩けば追いつくことができた。

 川辺で作業をするふたりの様子を、木の陰からこっそりと窺う。


 どうやら、川を塞ぐ倒木をどかそうとしているらしい。

 もしかして、あの倒木が水不足の原因だったのだろうか。

 と、いうことは。


(ミツカイ様は本当にいたんだ。僕の祈りを聞き届けてくれたんだ)


 胸が熱くなる。

 家族や里の人々の喜ぶさまが目に浮かぶ。

 嬉しさと安堵で、穂高は思わずその場に座り込んだ。


(……手伝いに行っても、いいかな)


 もう一度様子を窺って、穂高は心の中で呟いた。


 神様は人間の前に姿を現さないものだ。

 美珠の時のように、向こうから現れてくれたなら良いのだろうが、社を訪れた穂高の前に、彼女たちは姿を見せてくなかった。それなのに、こちらから話しかけて良いものだろうか。

 しかし、少女たちは苦戦しているように見える。

 少女たちは小柄で、いかにも非力そうだ。人ならざる力で木を浮かせられるならいざ知らず、そういうわけでないなら、あの大きさの木をどかすのは困難だろう。


「……よし」


 女の子が困っていたら、力を貸すのが男の役目だ、と兄から聞いた。今がその教えを実践する機会だろう。

 そう決意して、木の陰から歩み出た時だった。


 ごろり、と倒木が転がる。少女たちが歓声を上げる。

 堰き止められていた水が、ごうっと一気に流れ出した。

 わあ、と感激する思いで目の前の光景を見つめたのも束の間。

 さっきまで岸だった場所が、川になる。

 目の前に、水が迫る。


「え?」


 何が起こったのか理解できないまま、穂高は押し流された。

 息ができない。重い水がまとわりついて、身体の自由が利かない。

 必死にもがけばもがくほど沈んでいく。空気を求めて開けた口に水が入る。何かに捕まろうと伸ばした手は、何も掴まずに(くう)を切る。

 苦しくて、痛くて、目の前が真っ暗になった瞬間。


「手を伸ばせ!」


 声が響いた。

 凛とした、強く、揺るぎない声だった。


 考える余裕はなかった。言われるがまま、ただ、必死に手を伸ばした。

 指先が、細い何かに触れる。

 掠めて、離れ、もう一度触れて、今度は捉えた。

 

「いいぞ。そのまま掴まっていろ。離すなよ」


 穂高を諭す声は緊迫に張り詰めていたが、落ち着いた冷静さも孕んでいる。


 だんだんと、心が落ち着いていく。

 暴れるのをやめると、徐々に身体が浮いてくる。

 掴んだ手が強く引かれ、穂高はようやく水から引き上げられた。


 閉じていた目を、そろそろと開ける。


 光が見えた、と思った。




「狐!」


 怒号のような呼び声に、狐は我に返った。

 狐の横を駆け抜けて少年の手を掴んだ鴉が、少年ごと押し流されかけている。

 翼を広げ、水面ぎりぎりを羽ばたいているが、水の勢いに勝てないらしい。


「……っ」


 衣が水面を擦り、布地が水を含んで重くなる。

 鴉が顔を顰め、少年を掴んでいない方の手で、川岸に生えた草を掴んだ。

 一瞬だけ耐えたものの、草はすぐに引きちぎれる。鴉が舌打ちして草を投げ捨てた。


 狐は慌てて鴉の腰に飛びついた。

 羽ばたきの邪魔にならないように頭を低くしつつ、必死で鴉を引っ張る。

 少し余裕ができたらしい鴉が、両手で少年を抱え上げる。

 ふたりがかりで何とか引き上げて、三人はべしゃりと河原に倒れ込んだ。


「げほ、こほ、かは……っ」


 少年が咳き込んで水を吐き出す。吐いてしまえ、と鴉が少年の背中をさすった。

 濡れそぼってはいるが、何とか三人とも無事らしい。

 良かった。狐は大きく息を吐いて、一気に水流を増した川に視線を遣った。


「勢いが良すぎたな。下流で問題にならねば良いが……」

「ずらしただけだ。この程度なら、少し下れば落ち着くだろうよ。完全にどかすのは後日、様子を見て行おう」


 鴉が濡れた髪を手櫛で梳きながら、やや反省した顔をする。

 そんなふうに話していると、ようやく落ち着いたらしい少年が顔を上げた。


「大事ないか」

「はい。大丈夫、です」


 鴉が少年の顔を覗き込んで問いかける。

 咳き込んだせいか少し掠れた声で、けれどしっかりと、少年が頷く。

 鴉の顔に、ふわりと安堵の笑みが広がった。


「そうか。お前が無事で良かった」


 ひゅ、と少年が息を呑んだ。

 少し見開かれた目が、吸い込まれるように、食い入るように、鴉の笑みを見つめている。

 鴉が少し首を傾げて少年を見つめ返す。

 濡れた黒髪の先から、雫が滴る。ぱたりと散ったそれが、朝露のようにきらきらと輝いた。


「……どうした?」


 数呼吸の間、時が止まったみたいに見つめ合った後。

 ようやく少年の様子がおかしいことに気付いたらしい鴉が、不審げに眉を寄せる。

 少年は我に返ったみたいにがばりと立ち上がって、勢い良く頭を下げた。


「あの! 助けてくれて、ありがとうございます!」

「いや。巻き込んですまない。周囲の確認を怠っていたのはこちらの方だ。まさかあんな場所に人間がいると思わなくてな」

「そうじゃ。そなた、どうしてあんなところにいたのじゃ?」


 気にかかっていたことを思い出して口を挟むと、少年は狐の方に向き直り、膝をついて居ずまいを正した。


「山のお社に行こうとしたら、あなたを見かけたのです。お社のミツカイ様は黄金色の髪をした子供だと聞いていたので、気になって追いかけたら、ここに辿り着きました」

「おお。よもやそなた、美珠(みたま)の知己か」


 御使い様、という言い方に、先日社を訪れた彼女のことを思い出して、狐はぽんと手を打った。


「はい。……ということは、やはりあなたがミツカイ様なのですね。祈りを聞いてくださり、ありがとうございます!」


 興奮した様子で、少年が身を乗り出す。

 感激と尊敬の混じった眼差しに、狐は少し照れ臭くなって視線を彷徨わせた。


「ミツカイ様……。まあ、そんなところじゃな。うむ」

「やっぱり! それで、その……」


 狐の返事にぱっと顔を輝かせたかと思ったら、急に少年が声を小さくする。

 躊躇(ためら)いがちな様子に、鴉はおや、と思って少年の視線の先を追った。


「そちらの方も、ミツカイ様、なのでしょうか……?」


 ふたり分の視線に見つめられて、鴉が難しい顔で首を捻った。


「ミツカイ様、というものに該当するかは分からぬが、山神に仕える者、という意味ならば、概ねそんなところだな」

「そう、なんですね……」


 ほう、と息を吐き出して鴉を見つめる少年の視線は、狐に向ける感激とはどこか異なる。

 遠慮がちな視線が、ちらちらと背中を鴉の背中を窺っている。

 広げていた翼は、少年を引き上げると同時に衣に戻しているが、誤魔化しきれなかったらしい。

 ならばこの視線は、人ならざる姿を間近で見たことへの畏怖か。

 いや、違う。

 もっと熱を帯びて、切なさを孕んだこの色は──もしや。


 狐がぴんと閃いたのと同時、鴉も不審を強めたらしい。

 膝立ちのまま、ずいと少年に近づいて、彼の顔を覗き込む。

 少年は僅かに身を引いて硬直した。


「どうした。熱でも出たのか? 顔が赤い。人間はすぐ熱を出すというからな」


 眉を顰めた表情は怒っているように見えるが、心配しているのだろう。

 濡れたままでいたのは良くなかったか、なんてぶつぶつ言いながら、鴉が少年の濡れた髪をかき分けて額を寄せた。

 顎に指を添えて軽く持ち上げ、異常を見逃すまいというみたいに目に力を込めて、睨むように少年を見つめる。

 鴉の髪先から落ちた雫が、膝の上で握られた少年の手の甲の上に落ちる。

 我に返ったように、少年が瞬く。

 ゆっくりと視線が持ち上がり──至近距離で自分を見つめる鴉の顔を認めて、ぶわりと頬が染まった。


「お前、やはり顔色が……」

「っ、あの、僕は大丈夫です! 本当にありがとうございました! またお礼に伺います!」


 少年が逃げるように立ち上がり、がばりと頭を下げる。

 そのままぱたぱたと駆け去っていく少年を、鴉は唖然と口を開けて見送った。


「……何なんだ、いったい」


 どこかから取り出した乾いた手拭いを片手に、鴉が不可解そうに唇を曲げる。

 狐は濡れた袖を絞りながら、クク、と喉の奥で笑った。


「あの少年、そなたに惚れたか」

「は? わけの分からないことを言うな」


 鴉が思い切り顔を顰めながら、自分の髪をガシガシと拭う。

 一目惚れというやつかのう、と呟いて、狐は楽しげに頬を緩めた。


『手を伸ばせ!』


 普段の無表情をかなぐり捨てて、歯を食い縛って、必死で手を伸ばす鴉。

 その姿は、初めて彼女と会った時のことを思い起こさせた。


 あれは、一年ほど前のことか。

 何があったのかは、よく覚えていない。

 ただ、ひどく悲しかった。その感情だけは、辛うじて覚えている。

 泣いたような気もする。怒ったような気もする。叫んだような気もする。暴れたような気もする。

 まっくろで、どろどろで、ぐちゃぐちゃで、なにもみえない。なにもわからない。

 そんな中に。

 彼女の姿が見えた。

 暗い闇に射した、ひとすじの光のようだった。


「しかし、そなたは誰にでも手を差し伸べるのじゃな」


 人間は嫌いだと、常々言っているくせに。

 別に狐は、鴉に人間嫌いでいて欲しいわけではない。

 鴉が自分以外に優しくするのが気に食わないとか、そういうこともない。

 むしろ、普段閉じこもりがちな彼女が他者と関わることも、一見取っつきづらく見える彼女の優しさが他者に正しく伝わることも、喜ばしいことだと思う。

 けれど。

 自分にとって特別なあの一瞬も、彼女にとってはそうではないのだろうと思うと、少し寂しいのだった。

 まったく、感情というものは難しい。

 むむむ、と唸る狐の心を知ってか知らずか、鴉は怪訝そうに目を細めた後、小さく息を吐いた。


「買い被りだ。あの子供は私のせいで流された。だから助けた。これは私自身の行為が導いた事故の後始末であって、それ以上でも以下でもない」


 素っ気なく言い捨てる鴉の手首を、ぱしりと掴む。

 困惑気味に狐を見下ろす鴉を、狐は真っ直ぐに見つめ返した。


「ならばあの時、我を助けてくれたのはどうしてじゃ」

「……どの時だ」

「初めて会った時じゃ」


 いつもは冷静な瞳が、惑うように泳いだ。


「──あれは、……いや、」


 歯切れ悪く言葉を切り、黒い睫毛を伏せる。

 薄い唇がもごりと動いて、何も言わないまま閉じられる。


 言葉を探すような沈黙が、しばらく続いた後。

 不意に、思い直したように顔を上げ、鴉はにやりと目を細めた。


「なんだ。お前も私に惚れたのか」


 揶揄うような笑みを浮かべた鴉が、細い指先でついと狐の顎を掬い上げる。

 紅と金の視線が絡む。あまり見ない表情を、珍しい思いで眺めながら、狐はぽんと手を打った。


「そうか、なるほど。その通りじゃな」

「……は?」


 鴉がぽかりと口を開ける。

 これまた珍しい表情だ、と思いつつ、狐はふむふむと頷く。

 初めて見たその時に、強く心を惹かれたことをそう呼ぶのなら、あれもきっと、一目惚れというやつだ。

 知識として知ってはいたが、自分のものとして落とし込むのはまた違う。

 新しいことを知った晴れやかな気持ちで狐が笑うと、鴉が狐の顎から手を離して、沈痛な面持ちで額を押さえた。


「……すまない。私が悪かったから、変な言葉を覚えるのはやめろ。お前、人間やよそのあやかしと話すときに、新しく覚えた言葉を軽々しく使おうとするなよ。事故を起こす前に、もう少し学べ。教えてやるから」

「そうか? そうか……」


 何か間違えたらしい。

 首を捻る狐に、鴉が再度嘆息した。



■次回予告

「あの子は死んだのよ。もういないの」

「違うよ。お姉ちゃんは帰ってきたんだよ」

死んだはずの友人の幽霊に悩まされる少女は、川辺で出会った子供に相談を持ちかける。

「お願いよ。どうか、あの子を祓って」

第4話「姉の幽霊」、全5~7節くらいの予定です。


※書き溜めていた分が終わったため、第4話からは少し更新ゆっくりになります。

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