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007.第3話 花の堰(2)水面の花


 山のふもとに程近い、木立の中。


 滑るように飛んできたカラスが、ブナの木の枝に留まる。

 標準より一回りばかり大きいそのカラスは、南天のように紅い瞳をして、漆黒の羽は、顔の横の一部分だけ白い。

 理知的な視線を左右に走らせ、カァ、と何かを告げるように一声鳴いてから、カラスはばさりと翼をはためかせた。

 風が木の葉を舞い上げて、黒い鳥の姿がかき消える。

 代わりに、ひとりの少女が地面に降り立った。

 華奢な身体に、黒と赤の衣。

 冷静な瞳は鮮やかな紅色で、肩の上で切り揃えた濡れ羽色の髪は、左耳の横のひと房だけ色が抜けたように白い。


「確かに川の水位は低いな。田植え前だというのに、これでは難儀するだろう」


 少女が生真面目な口調で述べる。

 応えるように、木の根元に座っていた黄金色の子ギツネが鼻先を動かす。

 そして一瞬の後、鴉と同様に、人間の少女の姿へと変化した。

 鴉より少し幼い外見に低い身長。

 ぴょこりと跳ねた金の髪を揺らし、彼女は立てた人差し指を顎先に添えた。


「こちらも同様じゃ。どこか一軒が水を独占している、などというわけではなさそうじゃな」

「まあ、この規模の里でそれをやらかす度胸のある者はいないだろうがな」


 万一、不和を恐れずに敢行したとしても、即座に周囲に見抜かれるだろう。その場合は当該人物が里人総出で責められるだけで、少年が社へ雨乞いに訪れる事態にはなるまい。

 互いに状況を報告し合い、狐と鴉はふむ、と頷き合った。


 まずは現状を確認しようとしたのだが、ふもとの里は小さい。見慣れない人物が歩き回っていれば不審に思われる。

 だから、ふたりはそれぞれ、自身の本性たる獣と鳥の姿に戻り、手分けして里を見て回っていたのだった。


「里に原因がないのなら、山か」

「では、川伝いに遡るか?」

「そうだな」


 狐の提案に、鴉が簡潔に答えて、川の方に足を向ける。

 最初は渋っていたのに、何だかんだで気になっているらしい。

 それほど山を荒らされるのが嫌なのか。もしくは、一度手を付けたことは途中で放り出せない性分なのか。どちらかというと、後者の気がする。


 背筋の伸びた後ろ姿が前を行く。

 狐は密やかに笑うと、小走りで鴉の後を追った。



 *


 山裾から上流へ向かって進むと、徐々に川幅が狭くなっていく。

 その代わりというように流れは速くなり、川岸の石は滑らかな丸みを失って、草履越しに感じる感触がごつごつとした鋭さを帯びる。

 立ち並ぶ桜は境内のものより盛りが遅いらしく、満開の花を風に揺らしていた。


「ここか」


 低く呟いて、鴉が立ち止まる。

 きょろきょろと周囲を眺めながら歩いていた狐は、前を進んでいた彼女の背中にぶつかりそうになり、慌てて停止した。


「どうしたのじゃ?」


 首を伸ばして、鴉の肩越しに前方を覗き見る。


 ぶわり、と風が吹いた。


 渓流の上に張り出すように伸びた桜の枝が揺れて、薄紅色の花びらを舞い上げる。

 淡雪のように降ったそれはやがて水面に舞い落ち、折り重なって川を薄紅色に染め上げる。

 まるで、一面に散り敷いた花びらが、流れを堰き止めているようだった。


「わあ……」

「落ちるなよ」


 思わず感嘆の息を漏らし、ふらふらと川の方に踏み出した狐を、鴉が冷静に窘める。

 狐は慌てて気を引き締めた。

 うっかり川に落ちて鴉に引き上げられるようなことになれば、またしばらくは文句を言われることになるだろう。


「私たちだけでこれをどかすのは難儀だぞ」


 うんざりしたような鴉の声に、狐はようやく、この風景を成り立たせている原因の方に意識を向けた。


 本来、川の上流では水の流れは速い。

 なのに花びらが溜まっているのは、流れが停滞しているからだ。

 流れが停滞しているのは、川を堰き止めているものがあるからだ。

 もちろん、桜の花弁ではない。


 渓流を塞ぐように、大きな木が倒れている。

 おそらく、雪の重みで倒れたのだろう。最初は幹の下や枝の間を通って水が流れていたが、次第に小枝や落ち葉が溜まって土が堆積して水流を止めた、といった様子だ。

 倒木の幹は優に一抱え……いや二抱えはありそうな太さで、茂った枝がいかにも重そうだ。


 狐の腕力は見た目通り、十歳の子供程度である。

 鴉は見た目の割には力があるようだが、今の口振りを聞くに、力仕事が得意というほどではないらしい。 


「どうすれば良いのじゃろうか。あの少年に事の次第を告げて、男手を連れて来させるか?」

「里人が山深くまで踏み込ませるのを避けるために始めたことだというのに、それでは本末転倒だ。……とはいえ、このままでは困るな。何とかしよう」

「できるのか?」

「分からないが、試してみるしかないだろう」


 鴉が面倒そうに溜息を吐いた。



 *


 川辺の空気は水を含んで冷たいが、晴れた空から降る陽光は若干暑いくらいで、灰白の岩はちょうど良くぬくもっている。

 長い袖をたすきで押さえて、狐は川の中に手を突っ込んだ。


 拾った枝で倒木の下をつつき、堆積した葉や土をかき出す。倒

 木と川底の間に隙間が空いたら、先を斜めに切った丸木を差し入れる。

 更にその丸木の下に別の木を差し込めば、普通に持ち上げようとするより力が伝わりやすくなる。

 らしい。


「では、いくぞ。せーのっ」


 鴉とふたりで声を掛け合い、丸木に体重をかければ、重い倒木が少しずつ浮き上がった。

 少しでも水が通るようになったら、水流を利用して浮かし、慎重に位置をずらす。

 倒木がごろりと浮き上がって、堰き止められていた水が一気に流れ出した。


「よし」

「やったな!」


 狐が声を上げれば、鴉も珍しく笑みを浮かべる。

 達成感とともに目を見交わして、一仕事終えた思いで川下を見遣り──狐は凍りついた。


 ふたりが作業をしていた川の、少し下流。

 そこに、小さな人影がある。

 ここ数日、毎日のように社を訪れていた少年が、迫り来る水を前にぽかんと口を開けていた。


(なぜここに?! 否、それよりも)


「逃げよ!」


 叫んで走り出す。

 が、遅い。

 凍りついたように動かない少年が、水流に呑まれた。


(どうしよう。どうして。どうすればいい)


 目の前が真っ暗になる。

 少年に向かって走る足が止まりかけた、その時。


 狐の隣を、黒が駆け抜けた。



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