006.第3話 花の堰(1)雨を乞う
「山神様、ミツカイ様、お願いします! どうか、雨を降らせてください!」
水不足に困る村を見かねた少年・穂高は、隣人から聞いた『山神の社』を訪れる。
第3話「花の堰」、全3節予定です。
「本当にあった……」
山の中の社を見上げて、穂高は呆然と呟いた。
ひっそりとした佇まいの社は、背後に広がる森に半ば埋もれているようにも見えるのに、周囲から隔絶されたような異物感も同時に備えている。
魅入られるように、一歩、ニ歩と参道を進む。
社の前まで来ると、穂高は地面に膝をついて真っ直ぐに社を見据えた。
「山神様、ミツカイ様、お願いします! どうか、雨を降らせてください!」
叫んだ祈りが、山肌に反響する。
社の背後にそびえる木々が、ざわざわと葉擦れの音を鳴らす。
晩春の穏やかな風が穂高の頬を撫でて、散り際の桜が密やかに花弁を落とす。
静まり返った境内に、応える声はない。
社は参拝者を拒むように扉を閉ざして、ただ穏やかに佇んでいた。
詰めていた息を吐き出して、穂高は立ち上がった。
今すぐ神様が目の前に現れて願いを叶えてくれるような奇跡を、心のどこかで期待していた自分に気付いて、苦笑が漏れる。
神様は人間の前に姿を現さないものだ。
人にできるのはただ、信じて祈ることだけ。そういうものだ。
「……帰ろうっと。父さんたちを手伝わなきゃ」
春になったら田を耕して草をすき込み、畦を固めるのが里の男の仕事だ。
穂高ももう十歳になったのだから、一人前……は難しくても、三分の二人前くらいは役に立たなくてはならない。
たとえ、田んぼに張る水が足りなくても、今できることをやらなくてはならないのだ。
歩き出そうとした穂高の足元に、黄金色の毛並みをした子ギツネが纏わりついた。
物怖じせず穂高の足に身体を擦りつけ、こちらを見上げる仕種は愛嬌がある。
脛に当たるふわふわした毛並みの感触に、思わず顔が綻ぶ。屈んで背中を撫でれば、子ギツネは気持ち良さそうに目を細めて、ゆったりと尻尾を揺らした。
山の獣の割に、人に馴れているらしい。
キツネは田畑を荒らすネズミを食べてくれる益獣だ。田の神やその遣いとしてキツネを敬愛する地域もあると聞くし、このキツネもどこかで可愛がられたり、あるいは拝まれたりしているのかもしれない。
「おまえがミツカイ様だったら良かったのに」
ふとそんな呟きが漏れたのは、山神様の御使いが黄金色の髪を持つ子供だという話を思い出したからだ。
穂高の言葉を聞きつけてか、子ギツネがきょとんと瞬く。
それからするりと穂高の手の下から逃れ、社の方へと駆け去っていった。
「あ……」
仕方ない。野生の獣は気紛れだ。
名残惜しく手のひらに視線を落としてから、穂高は上体を起こした。
もう一度だけ社を見上げ、深々と頭を下げる。そして踵を返し、穂高は山を下っていった。
*
山奥の社のことを穂高に教えてくれたのは、隣家に住む女性だった。
数日前のこと。水位の低い川を見ながら、父や兄が難しい顔で話しているのを見て、神様が雨を降らせてくれたら良いのに、と穂高は呟いたのだ。
田植え前の苗の様子を見ていた彼女──美珠は、穂高のそんな呟きを聞きつけて、くすりと笑った。
「私、この間、山神様の御使いに会ったのよ」
髪に挿した櫛に愛おしそうに触れて、彼女が目元を綻ばせる。
彼女がいつも身に付けているその櫛が、彼女の亡き夫からもらったものだということ、そして半月ほど前、彼女がそれを失くしてしまったとひどく落ち込んでいたことを、穂高は知っていた。
そうして彼女は、山神様の御使い──黄金色の髪をした子供との不思議な出会いを、穂高に話してくれたのだった。
一人娘を幼いうちに亡くしたという美珠は、きょうだいの多い穂高の家を気にかけてか、両親や兄姉が忙しい時、よく穂高や弟妹たちの面倒を見てくれていた。
だからその話も、彼女からすれば、寝物語に昔話を聞かせるくらいのつもりだったのだろう。
彼女自身、その話を半ば夢だと思っている節があったし、二度目の奇跡を願うなど思いもよらないようだった。
けれど穂高には、その話がどうしても胸に残った。
そして、不安そうな父と兄の顔を見るうち、里に広がる重い空気を感じるうち、自分も何かしたい、力になりたい、という思いが募って。
その日の仕事が終わったのち、藁をも掴むような心地で、穂高は山へと向かったのだった。
*
とぼとぼと帰っていく少年を、社の縁の下から見送ってから、子ギツネは階段を駆け上がった。
目を瞑り、むむむ、と額の上あたりに意識を集中させれば、金茶色の毛並みの子ギツネは、同じ色の髪をした子供の姿に変わる。
板敷の床に腰を下ろした鴉のあやかしが、褒めるように唇の端を上げる。
無事に変化を成功させた狐のあやかしは、ふふん、と胸を張った。
達成感と嬉しさに、口の端が緩む。
我ながら、だいぶ変化が滑らかになってきたと思う。
先日の一件があってから、たまに獣の姿と人の姿を行き来するように練習しているのだ。
獣の姿なら木にも登れるし、人里に下りても見咎められにくい。使い分けは大切である。
「あの少年、今日も来ておるのじゃな。応えてやる気はないのか?」
鴉の前にすとんとあぐらをかきながら、狐は尋ねた。
「天候の操作はさすがに無理だ。それこそ、神と呼ばれるほどの力がなければな。お前も、それが分かっているから受けなかったんだろう?」
「それはそうじゃが……」
鴉の返答はにべもない。
狐はしょんぼりと項垂れた。獣の姿のままだったら、ぺたりと耳が下がっていただろう。
鴉は腕を組んで柱に寄りかかると、眉を寄せて首を傾げた。
「そもそも、なぜ雨乞いを? 今年の雪の量は平年と変わりなかったはずだ」
「それが、川の水位が上がらぬらしいのじゃ。里人たちが連日額を合わせて話し込んでおる」
「変だな。とっくに雪解け水が里に流れ込んでいる頃合いだろう。山の雪が溶けていないはずもあるまい。この春は充分に暖かい」
鴉が半蔀越しにちらと外へ目線を遣る。
境内に佇む桜の古木はほとんど花弁を散らして、しなやかな細枝に若葉がつき始めている。
社を囲む森は緑の色を深くして、小鳥たちは賑やかに鳴き騒ぐ。
屋内に差し込む日差しはうららかで、吹き渡る風は瑞々しい花と木の香りを纏っている。
よほどの山深くでない限り、既に雪は残っていないだろう。
「気になるか? 気になるじゃろう?」
「いや、私は別に……」
くいくいと袖を引けば、鴉が曖昧に言葉を途切れさせて黙り込む。
考え込む風情で斜め下に向けていた視線が、少しだけ泳ぐ。
気にはなるが、人の子の頼みを聞くのは気が進まない、といった様子だ。
もう一押し。
狐は床に手をついて身を乗り出し、鴉の顔を覗き込むように見上げた。
「里が困っておるのじゃぞ」
「私には関係ない」
「そうかのう? 川の水位が下がり、田畑の実りが減れば、里人たちは食べる物を求めて山に入るのではないか?」
現在も、山のふもと近くでは人々が木の実や野草を採ったり獣を狩ったりしているが、山の深くに立ち入ることはほとんどない。
先日の彼女や今回の少年のような例外はたまにあるが、その程度だ。
御景山において、神の領域と人の領域に明確な境はない。
狐が知らないだけでかつてはあったのかもしれないが、今は失われている。
それでも、人は山を畏れ、あるいは山の危険を恐れ、奥深くに立ち入ることはしない。
だが、飢えにさらされれば、その限りではない。
人々は食料を求め、群れを成して山を荒らすかもしれない。
山の静穏が乱れることを、鴉は嫌うはずだ。
「む……」
狐の読みは当たったらしい。
鴉が少々たじろいで、紅い瞳に迷いを浮かべる。
今だ。
細い手首をぱしりと掴んで、狐は勢い良く立ち上がった。
「よし。そうと決まればまずは調査じゃ!」
「私は知らぬと……、おい、引っ張るな、ああもう!」
ぐいぐいと手を引けば、軽い身体は簡単に引きずられて、鴉が均衡を崩す。
小さく舌打ちした彼女が、観念したように立ち上がった。




