003.第2話 失せ物さがし(1)山奥の社
「いったい、何をそんなに熱心に祈っておるのじゃ?」
大切な櫛をなくした女性・美珠は、迷い込んだ山奥の社で、黄金色の色彩を持つ子供と出会う。
第2話「失せ物さがし」、全3節予定です。
一瞬の出来事だった。
ふと髪の乱れが気にかかり、美珠は川面に映った自分の顔を覗き込んだ。
後頭部でひとつに結った黒髪から櫛を抜いて、洗濯物を入れた籠の隣にそっと置く。
軽く俯き、ほつれた髪を簡単に梳いて、纏め直そうとした時だった。
さっと通り過ぎた黒い鳥影が、中途半端に伸ばした美珠の指の先から、櫛を奪い取った。
「え?」
慌てて立ち上がる。空を見上げれば、鳥は既に手の届かない高さまで舞い上がっている。
朱塗りの櫛が、嘴の先でつややかに光る。
「待って、返して!」
鳥は美珠の懇願など意にも介さず、山の方へ向かって悠々と飛び去って行く。
追いつけないと分かっていて、それでも美珠は必死に鳥を追いかけた。
そして、道に迷った。
「ここ、どこかしら……」
足を止めて周囲を見回し、美珠は肩を落とした。
俯くと、乱れた髪が零れかかって、いっそう泣きたい気分になる。
普段から、山菜や木の実を採りに山に入ることは多い。
しかし、あっちへいったのかしら、いいえこっちかしら、と彷徨ううちに、いつもは入らない奥深くまで迷い込んでしまったようだった。
諦めた方が良いということは分かっている。鳥に持ち去られた物を取り戻すなど、無理な話だ。
でも、諦めたくなかった。
あの櫛は、亡き夫がくれた、とても大切な物だったから。
「……もう少しだけ」
口の中で言い訳を呟く。
春の陽光は明るいが、重なり合う葉に遮られて地面までは届かない。
木々の隙間から空を見上げながら歩を進め──美珠はぴたりと立ち止まった。
櫛が見つかったのではない。それ以上に異質なものを見つけたのだ。
若葉の緑と梢の灰茶の間に埋もれるように、鮮やかな赤がある。
花や木の実の色ではない。
朱塗りの鳥居だ。
(こんな山奥に、社があったかしら)
首を傾げながら近づき、鳥居の向こう側を覗き込む。
はらり、と薄紅色の花びらが散った。
鬱蒼と続いていた森は鳥居を境にぷつりと途切れて、境内には清らかな日差しが降り注いでいる。
山肌を背にして立つ社殿は里長の屋敷ほどは大きくないが、充分に立派なもので、入口に続く階段は綺麗に掃き清められている。
社に寄り添うように立つ桜の古木は今が盛りで、ツツジの淡紅と山吹の黄色が、穏やかな静謐の中に春の華やぎを添える。
夢の中にいるような心地で鳥居をくぐれば、参道に敷き詰められた灰白の玉砂利が、美珠の足元でざくりと鳴った。
(古い神様を祀っているのかしら)
美珠の住む里は、百年近く前に一度沈んだのだと、隣村の古老が言っていた。
ひどい嵐が里を襲い、人も、家も、田畑も、すべてが流されたのだという。
それから数十年経ち、新たにこの場所に移り住んで里を築いたのが美珠の両親たちだ。
だから、美珠が知らない神様がいるなら、それは今の里人がこの地に移り住む前──流される前の里の人たちが信仰されていた神様じゃないかと思ったのだ。
到底、百年打ち捨てられていたようには見えないのが不思議ではあるが──神様を祀る場所なら、そういうこともあるかもしれない。
そう思わせる何かが、この社にはあった。
(山神様。どうか、櫛を取り戻してくださいませ)
ぱん、ぱん、と拍手を打ち鳴らし、手のひらを合わせて目を閉じる。
佇まいからして、きっと祀っているのはこの山の山神だろう。
この山のことを誰より知っていそうな御方だ。もしかしたら力になってくれるかもしれない。
心の中で何度も願いを唱え、いい加減に山を下りよう、と気持ちに区切りをつけた時だった。
「いったい、何をそんなに熱心に祈っておるのじゃ?」
「きゃあ?!」
急に声をかけられて、美珠は素っ頓狂な悲鳴を上げた。
人の気配はなかった、はずだ。
目を開ければ、美珠を見上げるように覗き込む、金色の瞳がある。
美珠は再度悲鳴を上げた。
後退ろうとした拍子に足がもつれて、どさりと地面に尻餅をつく。
息も絶え絶えに胸を押さえる美珠に、その子供は申し訳なさそうにへにゃりと眉を下げた。
屈めていた上体を起こし、一、二歩後ろに下がって、美珠から距離を取る。
「すまぬ。驚かせるつもりはなかったのじゃ」
大丈夫か、と差し出された手に反応することもできず、美珠は茫然と子供を見上げた。
年齢は十歳前後だろうか。
弾むような高い声は子供らしくあどけないのに、口調だけが妙に古めかしい。
水干に似た白い装束に、短く括り上げた緋袴を合わせている。
活発な雰囲気は少年にも見えるが、人懐っこい笑みを浮かべる顔は少女のものだろう。
子供のようで、老人のよう。少年のようで、少女のよう。
そんなちぐはぐな印象を受ける子供だが、何より特異なのはその色彩だった。
項でひとつに括った癖毛は稲穂のような黄金色で、くりくりとした大きな目はそれより少し薄い金色。
そんな色彩を持つ者を、美珠は今まで見たことがなかった。
美珠は衣の裾を払い、膝をついて子供を見上げた。
「あなたは……山神様、なのですか?」
「違うぞ」
もしかして、という願いを込めた問いにあっさりと否定を返されて、途方に暮れた心地になる。
「では……山神様の御使い、でしょうか?」
「ミツカイ……」
縋るように問いを重ねれば、子供がふむ、と顎に手を当てて、思案げに首を傾げる。
「まあ、そんなところか」
「では! どうか私の願いを聞いてくださいませんか、御使い様」
息せききって身を乗り出す。
美珠の勢いに、子供は少したじろぎつつ、気圧されたように頷いた。
*
「──というように、大切な櫛を、カラスに持ち去られてしまったのです」
「カラス……」
子供がなぜか微妙な顔をして、社の後方に視線を流す。それから何かを振り払うように首を振って、ふと目を細めた。
「亡き人との思い出の品、か」
「はい、そうなのです」
深く頷いて、美珠はぎゅっと胸の前で手を握った。
「きっと、この社に辿り着いたのも何かの縁です。御使い様、どうか櫛を取り戻してくださいませ」
「む……」
子供が腕を組む。
考え込むように下を向き、それから顔を上げて、金色に光る眼でひたと美珠を見据えた。
「分かった。我の力の及ぶ範囲であれば、努力しよう」
「ありがとうございます!」
ぱっと顔を輝かせた美珠に、子供が目元を和らげる。
「帰り道は分かるか? 案内しよう」
差し出された手を握り、美珠は立ち上がる。
山の麓まで送ってもらい、礼を言おうと振り返った時には、既に子供の姿はない。
もしかして、全部夢だったのだろうか。
狐につままれたような心地で、美珠は立ち尽くした。
*
「──ということじゃ。聞いておったか、鴉」
「聞こえていた」
迷い込んだ人間の女性を山の麓まで送り届け、社に戻った子供──狐のあやかしがどこへともなく声をかけると、不機嫌そうな声が応じた。
ばさり、と翼の音がして、狐より少し年上に見える少女が軽やかに地面に降り立つ。
とん、と下駄の先が地面に触れた時には、背中に生えていた黒い大きな翼は同色の外衣に変わり、少女の細い背中にすとんと収まった。
その変化の滑らかさは、何度見てもつい見惚れてしまう。
ほう、と息を吐いた狐を尻目に、外衣の胸元を留める紐を軽く整えてから、鴉のあやかしは冷ややかな紅い瞳で狐を見下ろした。
「軽々と人間の前に姿を現すな」
どういうつもりだ、と苦々しげに溜息をついた鴉に、狐は満面の笑みで笑いかけた。
「この間、そなたが迷い子を助けたじゃろう。あれを見てな、我も人助けをしたくなったのじゃ」
「言っておくが、私は手伝わないからな。人間は嫌いだ」
「分かっておる。これは我が引き受けたことじゃ」
うむ、と大きく頷いて、狐は首を傾げた。
「カラスに奪われた、とのことじゃが……」
言いながら、うっかり鴉の方を見てしまう。
そんな狐の視線に目敏く気付いて、鴉が眦を跳ね上げた。
「おい。今、私に濡れ衣を着せたか?」
「え? ああいや、そういうつもりはなく、」
「知らぬ。勝手にしろ」
低く唸った鴉が、黒い外衣を翻す。
瞬く間に翼に変わったそれをばさりとはためかせて、彼女は木々の上を飛び去って行った。
「待っ……」
反射的に空へ伸ばしかけた手を引っ込めて、狐はしょんぼりと肩を落とした。
空を飛ばれてしまえば、地を駆けるしかできない狐にはどうしようもない。
美珠もこんな気持ちだったのだろうか、などと考えながら、狐はふと顔を上げた。
「言われずとも、勝手にするつもりだったのじゃが……」
もしかして、何だかんだ言いつつ手伝ってくれるつもりだったのだろうか。
今となっては分からないが。
ああなった鴉は、数日口をきいてくれない。
「ひとまず、獣たちに尋ねてみるとするか」
よし、と拳を握り、気持ちを切り替える。
探す範囲が絞れていない現状、匂いで探すのは限界がある。地道に目撃情報を当たるしかないだろう。
広い山の中で、たった一本の櫛を見つけ出せるかは分からない。
でも、やると決めた以上、できる限りのことはしたい。
ぴょん、と跳ねるように軽やかな足取りで、狐は森の奥に向かって駆け出した。




