002.第1話 呼子鳥(2)空の向こう
さらさらと、水の流れる音がする。
近くに小川でもあるのだろうか。きょろきょろと辺りを見回していると、前を行く背中に置いていかれそうになる。
弥子は小走りで少女を追いかけた。
足音を聞き咎めてか、少女が振り返る。
「急がなくて良い。速かったか」
「ううん。大丈夫」
「そうか」
意地を張って首を振ると、少女は素直に頷いて歩を再開する。
少女の足取りには迷いがなく、彼女についていけば間違いない、という信頼を弥子に抱かせた。
でこぼこしてぬかるんだ山道を、黙々と進んでいく。
少女はもとから口数の少ない方なのか、余計な言葉を発することはないし、弥子の方は上り坂に息を切らして、会話をする余裕がない。
黙々と、といっても、夜の山は意外と騒がしい。
夜風が木々の間を渡る音。夜行性の小動物が駆け回る音。フクロウの低く深い鳴き声。それに重なる、細く寂しげな鳴き声。
「──っ」
なぜか、ひどく不安をかき立てられて、弥子は少女の袖を握った。
少女は足を止めないまま、冷静な眼差しで木々の上を見上げる。
「呼子鳥の声だな。子を呼んで鳴いているのだろう」
正体が分かれば、不安は薄れる。
事実だけを述べる淡々とした声音に、弥子の肩からほっと肩から力が抜けた。
(かっこいいな)
白い横顔を見上げながら、そう思う。
一見、無愛想に見えるが、優しいひとだ。優しくて、物知りで、かっこいい。
自分もあと五、六年経てば、こんなふうになれるだろうか。
困っているひとを颯爽と助けて、怖がらずに冷静に対処できるようになれるのだろうか。
なれるといいな、と思う。
しばらく歩くと森を抜けて、清流の流れる岩場に出る。
ずっと聞こえていた水音はここからしていたらしい。
黒々とした小川は、幅はさほど広くないが、流れが速い。
「ここ、わたるの?」
「ああ」
弥子が尻込みをしている間に、少女はさっさと進んでしまう。
歩きにくそうな一本歯の高下駄を鳴らして飛び石を渡るさまは、鳥のように軽やかだ。
弥子も慌てて彼女の後に続こうとするが、黒々と流れる水を見ると、どうしても踏み出すことができない。
大した距離はないはずの向こう岸が、すごく遠くに見えた。
(怖い)
遠ざかる黒い背中が、じわりと滲む。
(置いていかないで)
俯いて衣の胸元を握りしめる。ぽたりと落ちた涙が、岩に染み込んでいく。
「どうしたんだ」
落ち着いた声がした。
その近さに、あれ、と思って顔を上げれば、既に渡り終えていたはずの少女が目の前にいて、困った顔で眉を下げていた。
(戻ってきてくれた)
安心したら安心したで、また視界が滲む。
少女は困ったように視線を彷徨わせてから、ふと唇の端を上げた。
「怖いなら、私が抱えてやろうか」
少しの揶揄いを含んだ声に、弥子はぼうっとしたまま頷いた。
少女がすっと弥子の前に屈み込む。
「しっかり捕まっていろよ」
悪戯っぽい含み笑いと、涼やかな鈴の音が、耳元に聞こえたと同時。
カン、と下駄の音が鳴った。
「わわっ」
空を飛ぶような浮遊感に、弥子は慌てて少女の肩口にしがみついた。
カン、カン、と下駄が鳴る。
危なげなく渡り終え、少女が丁重な手つきで弥子を地面に降ろした。
この細腕のどこに、そんな力があるのだろう。感心する思いで、弥子は少女を見上げた。
少女がぱたりと瞬いて、励ますように小さく微笑んだ。
「もう少しだ」
その言葉に、弥子はほっと息を吐き出した。
ずっと上り坂で、そろそろ足が限界だったのだ。
(……上り坂?)
ふと、違和感を覚える。
てっきり、ふもとの里に向かっているのだと思っていた。
「ねえ」
「うん?」
「どこに向かってるの?」
「……」
少女は答えない。振り返らない。立ち止まらない。
頼もしいと思っていたその背中が、ひどく恐ろしいもののように見える。
「ねえ、答えてよ」
少女の足取りには、ずっと迷いがなかった。
迷いのない足取りで、彼女はどこに行こうとしているのだろう。
(このひとは、何なのだろう)
考えてみれば、おかしかったのだ。
妙に山に慣れた様子も、体格に見合わない力も。
夜の山に、ひとりでいたことも。
もしかしたら、彼女は、自分を食べようとしている鬼なのではないだろうか。
このまま、彼女について行って良いのだろうか。
恐怖に足が竦んで、弥子は立ち止まった。
風が吹く。
木々が影を揺らし、少女の背中で黒衣がばたばたと翻る。
ゆっくりと、少女が振り返った。
静かにこちらを見下ろす瞳は、深く、暗く、感情が読み取れない。
「お前は、どこにかえりたいんだ?」
「どこ、って……」
答えようとして、弥子は愕然とした。
かえりたかったはずだ。
あんなに、かえりたかったはずなのに。
どこにかえりたかったのか、思い出せない。
「わたし、は」
息が詰まる。頭がぐるぐるする。
必死で言葉を探そうとした、その時。
さあ、と光が溢れた。
上を見上げる。
木々の間から、光が差し込んでいる。
半ば無意識のまま、惹きつけられるように、弥子はふらふらと歩き出した。
道を開けるように半身を引いた少女を追い越して、上へ、上へ、光の方へ。
いつしか、鬱蒼と茂った木々は途切れて、開けた高台を光が照らしていた。
遠くの山の端から太陽が顔を出して、東の空が薄紅に染まっている。
夜明けだ。
「思い出したか」
「思い、出した……」
思い出した。自分が何なのか。どこにかえりたかったのか。
弥子の身体がすうっと形を変えていく。
ばさりと翼を広げて、弥子は少女を振り仰いだ。
「もう、ひとりで行けるな」
少女は笑っていた。穏やかに、少しだけ寂しげに。
──うん、ありがとう。
返した声は人間の言葉にはならなかったが、少女には伝わっただろう。
彼女は最初から弥子が何なのか気付いていて、ここまで弥子を導いてくれたのだろうから。
広げた翼が風を捉える。地面を蹴れば、ぐん、と身体が引き上げられる感覚がした。
導かれるように、天に昇っていく。
羽の先から、光に溶けていく。
怖くはなかった。
きっと、あの少女が自分を見守っていてくれる。そう思えたから。
*
朝の光が、朱塗りの鳥居を柔らかに照らしている。
澄んだ春空は淡い青色をして、薄い雲が細くたなびいている。
眼下に広がる稜線は、山肌の黒に新芽の緑と残雪の白が混じって、咲き初めの山桜がそこに淡い彩りを添える。
少女は鳥居の上に腰掛けて、赤い盃を空に掲げた。
「主様」
囁く声は吐息のように儚く、切なげだ。
「また、あなたのいない春が来ます」
吹き抜けた風が、少女の黒髪を揺らす。
薄紅色の花びらがはらりと舞って、少女の持つ盃に浮かんだ。
少女が黒い睫毛を伏せて、そっと盃に唇をつける。
「人助けとは珍しいのう、鴉」
不意に響いた明るい声が、時が止まったような静謐を破る。
穏やかな時間を邪魔されて、少女──鴉のあやかしは不機嫌そうに顔を顰めた。
「何のことだ、狐」
「迷子の子供を送り届けてやっていたじゃろう」
身軽に鳥居を駆け上り、鴉の隣に座ったのは、鴉と同じく少女の姿をしたあやかしだ。
見た目は鴉より少し幼いくらいか。
人の姿を取っているが、奔放に跳ねた髪も無邪気な瞳も、輝く黄金色だ。
海を渡った先にはそんな色彩を持つ者もあるというが、生憎とこの辺りでは馴染みがない。
この姿で人里に下りれば、存在の異質さはすぐに見顕されてしまうだろう。
未熟な変化に溜息を吐いて、鴉は盃を傾けた。
「盗み見か? 悪趣味なことだな」
「見かけただけだ。追いかけてはおらぬぞ」
これ見よがしに眉を上げてみせれば、狐がぱたぱたと手を振って否定する。
慌てた様子に少しだけ溜飲を下げつつも、鴉は揶揄うように狐を軽く睨んだ。
「皮肉か? 私が迷い子に道を示すことがそんなにおかしいか」
「いいや。我は嬉しいのじゃよ」
「嬉しい?」
妙なことを言う。
片膝を引き寄せながら狐を見遣れば、彼女は満開の笑みを浮かべて鴉を見つめ返した。
「ああ。人嫌いのそなたの、優しい一面を見られたことがの」
「……」
狐は少々鴉を過大評価しているところがある。
昔、気紛れに一度助けてやっただけなのに、こうも懐かれるとどことなく据わりが悪い。
自分は、そんな無邪気な賛辞に値するような者ではないというのに。
それに、狐は勘違いをしている。
「あれは人の子ではないよ」
「そうなのか?」
狐がきょとんと首を傾げると、金色の髪がぴょこりと揺れた。
あやかしとなってまだ日が浅い彼女は、人間とそうでないものの区別をつけるのが下手だ。
「ああ」
短く肯定して、鴉は眼下に視線を逃がした。
どこからか、子を呼んで鳴く鳥の声がする。
その姿を探すようにしばらく視線を彷徨わせてから、鴉はつと睫毛を伏せた。
「あれは、巣立てなかった鳥の雛だ」
可哀想なことにな、と呟く声が空気に溶ける。
ある種の鳥は、自らの卵を他の鳥の巣に産みつけることがあるという。
生まれた雛は、親鳥が持ってくる餌を独占するため、もともとその巣にいた雛を追い出して成り替わるのだ。あの幼子が言った、『意地悪な兄』というのも、おそらくは。
あの幼子の親鳥も、いなくなった自分の雛を──ややこを探して鳴いているのだろうか。
それとも、気付いていないだろうか。雛の入れ替わりは巧みだというから。
「この辺りには、主様──御景山の山神の気が満ちている。あの雛鳥の魂も、それにあてられて、いっとき人の形を得たのだろうよ」
「そうじゃったか……」
狐が悲しげな顔でしゅんと俯く。
少し見かけただけの雛のためにそんな顔ができる彼女の方が、自分よりよほど優しいと、鴉は思う。
下を向いた頭を、宥めるように軽く撫でる。
春の日差しのような金色の髪は、もふもふとして手触りが良い。
先程、雛が飛び去った東の空を見上げる。
赤い盃を朝日に翳して、鴉は静かに呟いた。
「死者の行く先が天上にあるか地下にあるか私は知らぬが……あの子には、空が似合いだろう」
「手向けの盃か。……む? その酒、社への奉納品ではないのか」
「別に良いだろう。主のいない社だ」
こういう時だけ妙に目敏い。
咎めるような半眼を向けられて、少しむくれながら酒に口をつけた鴉に、狐がさらに目を細める。
「……山神様は眠っているだけだと、そなたは言うておらなかったか」
「会えないのなら、いないと同じだ」
反射的に答えた声は、ひどく堅い音をしていた。
ざあ、と強く吹いた風が、二人の髪を攫う。髪飾りの小鈴が、りりり、と煩いくらいに鳴った。
「そうか」
呟いた狐の声は、ひどく悲しげだった。
それでも、撤回する気はなかった。期待するのは、もう疲れてしまったから。
「のう。我にも一献」
不意に、狐が戯れるように身体をすり寄せてくる。
気まずさを誤魔化そうとしているのは容易に察されたが、ぬくもりは嫌ではなかったので、付き合ってやることにする。
空になった盃に酒を注いで渡せば、狐が喜んで盃を傾ける。
もふもふとした髪を手持ち無沙汰に撫でながら、東の方を見上げる。
薄紅色の花びらが、青空に舞った。
■次回予告
「いったい、何をそんなに熱心に祈っておるのじゃ?」
大切な櫛をなくした女性・美珠は、迷い込んだ山奥の社で、黄金色の色彩を持つ子供と出会う。
第2話「失せ物さがし」、全3節の予定です。




