001.第1話 呼子鳥(1)鈴の音
「こんな時間に、お前のような幼子がひとりでどうしたんだ」
山の中で迷子になった子供は、不思議な雰囲気の少女に出会う。
短編連作の第1話。前後編です。
りん、と澄んだ鈴の音がした。
(あれ?)
夢から覚めたみたいな心地で、彼女はぱたりと瞬いた。
(ここ、どこだっけ。わたしは、何をしてたんだろう)
眠い目を擦りつつ、周囲を見渡す。
薄暗い山の中だ。座り込んだ背中に、ごつごつとした木の幹の感触が当たる。
すう、と息を吸い込めば、湿った土の匂いと早春の空気の冷たさが胸に沁みた。
(そうだ。ここは、ミカゲ山。わたしは、……ヤコ。弥子)
確か、そう呼ばれていたはずだ。
眠気を払うように頭を振れば、徐々に思考が回り始める。
母はいつものように朝早くから出かけていた。
弥子たちの食べる物を探すためだ、と分かっていても、寂しいものは寂しい。
それでぐすぐすと泣いていたら、上の兄に家を追い出されてしまった。
入れて、入れて、と必死に戸を叩いても、意地悪な兄はだんまりを決め込んで、他の兄や姉たちは気付いてくれない。
仕方がないので、山に向かった母を追いかけた。
でも、母は見つからなくて、探しているうちに道に迷ってしまった。
冬の名残りを残す山中には、まだ雪が溶け残っている。
母を呼びながら山を彷徨ううちに、ぬかるみに足を取られて、弥子はべしゃりと転んだ。
悲しくて、痛くて、冷たくて、疲れ切って、そのまま木の根元に座り込んで眠ってしまったのだ。
たぶん。
「どうしよう……」
弥子は身体を丸めて、立てた膝に顔を埋めた。
山に入った時はまだ明るかったはずだが、寝ているうちに日が沈んでしまったらしい。
枝を広げた木々の影が、得体の知れないおばけのように見える。
夜風が枝を揺らすたび、小動物が木々の隙間を走り抜けるたび、弥子はびくりと身を縮めた。
かえりたい、という思いだけがあった。
なのに、来た道も帰る道も分からない。
立ち上がる体力も気力もなくて、弥子はただただ途方に暮れて木々を見上げた。
その時だった。
りん、と澄んだ鈴の音が聞こえたのは。
(何の音だろう)
首を巡らして、音の方向を探す。
怖くはなかった。
夜の山中で聞こえるには異質な音だが、それはあまりに清らかで、悪いものの気配が少しもなかったから。
りん、とまた鈴の音がした。
続いて、バサバサと、枝をかき分けるような、あるいは鳥の羽音のような音。
仰いだ視線の先。
木々の間から姿を現したのは、どこか不思議な雰囲気の少女だった。
年の頃は十二、三あたりだろうか。
振り分けた黒髪を肩のあたりで切り揃えて、赤い色糸の髪飾りを花の形に結っている。
華奢な身体に纏った黒い衣の袖は長く、短めに仕立てられた赤い袴の染めは鮮やかで、肩に羽織った外衣は厚手の上質なものだ。
ふつうの里の娘には見えない。かといって、貴族に見えるわけでもない。
どちらかというと、巫女とか、修行者とか、そんな印象を受けるのは、彼女の纏う硬質で清廉な空気のせいだろうか。
彼女は木の根元に座り込む弥子を認めると少し目を瞠って、それから不機嫌そうに眉を寄せた。
「こんな時間に、お前のような幼子がひとりでどうしたんだ」
苛立たしげな声に、場の空気がぴりりと張り詰める。
弥子はびくりと肩を震わせた。
地面に手をついて後退り、木の幹にぴたりと背をつけて窺うように少女を見上げる。
そんな弥子の反応に、少女は戸惑ったように黒い睫毛を瞬かせた。
衣の裾を払ってしゃがみ込み、弥子と高さを合わせるようにして視線を合わせる。
「すまない。怖がらせるつもりはなかったんだ」
「……おこって、ない?」
「怒ってないよ」
弥子を安心させるように、少女が少しだけ表情を緩めて、声音を和らげた。
そうすると、冷たく素っ気ない雰囲気が薄れて、いくらか親しみやすい印象になる。
「大丈夫か。怪我をしているのか?」
気遣わしげな視線が、座り込んだままの弥子の足のあたりを心配そうに見遣る。
弥子はぶんぶんと首を振って、少女を真っ直ぐに見つめた。
「あのね。わたし、おかあさんをさがしにきたの」
「母君を?」
少女が首を傾げる。
濡羽色の髪がさらりと揺れて、赤い髪飾りの先に付けられた小鈴がりりん、と鳴った。
先程聞こえた清らかな音はこれだったらしい。それに気付くと、少し緊張が解れていく気がした。
弥子は頷くと、短く息を吸い込んだ。
「うん。あのね……」
一度話し始めると、堰を切ったように言葉が溢れてくる。
兄に家を追い出されたこと。
母を追いかけて道に迷ったこと。
要領を得ない弥子の説明を、少女は辛抱強く聞いてくれた。
そして、ひととおり話し終えて弥子が口を閉じると、彼女は生真面目な瞳で弥子をひたと見据えた。
「それで、お前はどうしたいんだ」
「……かえりたい」
その願いは、考える間もなく零れ落ちた。
口にすれば切実さは募って、弥子はぎゅっと唇を噛んで衣の袖を握りしめた。
そうか、と呟いた少女が瞑目し、僅かに俯く。
それから何かを振り払うように息を吐いて、静かに顔を上げた。
「分かった。それがお前の望みなら、私が導こう」
「いいの?」
「ああ。この山には慣れている」
どうやら、麓まで道案内してくれるらしい。
良かった。嬉しさと安堵に頬が緩む。
少女が立ち上がって、弥子に手を差し伸べた。
「立てるか」
「うん。……っと、わわ」
思いのほか強い力で引っ張り上げられて、少しよろめく。
「大丈夫か」
「ん、ありがとう」
細い手に背中を支えられ、弥子はにこりと笑って少女を見上げた。
少女が微かに表情を緩めて、弥子を見下ろす。
その眼差しに、一瞬、物憂げな色が見えたのは、弥子の気のせいだろうか。
あれ、と瞬いた時には、それは既に霧散して、確かめるすべもなかった。
「行こうか」
しなやかな手が、弥子の手を引く。
ばさりと黒衣を翻した少女を追って、弥子も歩き出した。
(2)で一区切りです。




